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3-2 おねだり



 考えるな、とまずは思う。

 考えすぎるな、と入澤は自分に言い聞かせている。自分の置かれた状況、目の前に広がる光景の意味。そういうものに思考を巡らせすぎてはいけない、と意識/無意識のレベルで感じ取っている。

 おそらく、今の自分の脳の中に、それを説明できるに足るだけの知識と論理は存在していない。

 あるものを、あるがままに受け入れて、適応するしかない。

「……切り替えろ、俺」

 駅の外に出て、息を何度も吐く。肺の中に潜り込んだ腐臭を根こそぎ夜に放出して、それから澄んだ冷たい空気を胸いっぱいに取り込む。

 よし。

 頭を上げて、次にすべきことを考えた。

 電車は使えない。だとしたら、手段としてありうるのは徒歩、自転車、自動車……そのうちのどれかということになる。

 徒歩は論外だった。何時間かかるかわからない。自転車も同じ理由で却下したくなるが、自動車は入手難易度が高い。放置自転車程度なら鍵がかかっていないことも多々あるだろうが、鍵のかかっていない自動車というのは、やや考えづらくもある。

 けれど、試しにちょっとだけ見てみよう、と入澤は思う。

 なにせ状況が状況なのだ。何もかもが現実の尺度で測れるとは限らない。この異様な世界では、簡単に自動車のドアを開けられて、簡単にエンジンをかけられるという可能性だって、なくはない。

 自転車の代わりに自動車を選んだ場合に短縮できるだろう時間と、自動車が使用可能かどうかを確かめることによって消費される時間、二つを天秤にかけて、彼は決めた。自動車を確かめてみよう。

 幸い、見るべきところは決まっていた。駅近くの立体駐車場。少し歩けば地下行きの階段がある。

 月明かりが遠ざかって、一層暗さを増してく。携帯のライトで足元を照らしながら、入澤は階段を降りていった。

 無音だった。コンクリートが剥き出しの床。閉塞した空気。ブーツの底が床を蹴る音だけがカツン、カツン、と響き渡る。濡れたような空気があたりに充満している。夜の遅い時間帯だからか、それともこの世界に特有の現象なのかはわからなかったが、あまり車は置いていなかった。

 一番近くに停まっているのは、軽自動車だった。けれど入澤は、一旦それを見送る。このあとの展開を考えると、それなりに馬力のある車の方がいいような気がした。速度と頑丈さ。まるで武器選びをするような感覚で、品定めをする。

 黒いRV車を見つけた。

 これがいい、と入澤は思う。多少車幅は広いが、今のこの交通量が全くない状態なら何も気にならない。これにしよう、と一目見た瞬間に決めた。決めて、近付いて、

「うわあっ!!」


 その傍にぶら下がった死体が、闇の中にぬうっと姿を現した。


 心拍数が上昇する。目を大きく見開いて、けれどそれが動いてはいないことを確認してから、ようやく、入澤は止まっていた呼吸を再開する。

「……なんなんだよ、この死体は」

 死体、死体、死体……。この異常な状況の中で、最も入澤の精神を蝕むのは、これだった。マンションの中で見て、駅の中で見て、そしてこの地下駐車場にすら現れる。

 首吊り死体だった。

 駐車場の梁にかけられた太いロープ。その先に、一人の男が吊られている。

 当然命はない。やや腹の出た体型の中年男だったのだろう。マンションの男のときと同じ。手足に力はまるでない。細い髪の毛は経年とともに抜け落ちたのか、彼の足元に一掴みほど落ちている。目はぐるりと上を向き、光はなく、だらしなく開いた口からは舌が飛び出ている。

 気味悪く思わないわけがない。

 しかもその死体は、RV車のすぐ近くにある。

 一番嫌なことはなんだ、と入澤はあらかじめ、この後に起こるだろう展開を予測した。

 駅であったことを考えれば、叫ばれる。しかしこのくらいのことは何でもない。鼓膜を破られるというなら考えるが、今回は叫ぶ口もたったの一つだ。そこまでのことにはなるまい。

 マンションであったことを考えれば、襲われる。これもまた、そこまで問題ではないような気がした。何せ吊られているのだ。じたばたと暴れた程度ではあの太いロープは切れないだろうし、結び目を解くのにも時間がかかるはず……。

 だったら、少しくらい近付いても――車が使用可能かどうかを確かめるくらいのことをしても、それほどのリスクはないと考えた。

 万が一に備えてナイフは抜いておく。そろりそろりと忍び足で近寄って、運転席のドアに、手をかけた。

 引っ張る。

 開かない。

 溜息を吐くほどのことでもなかった。半ばその展開は予想していたから。自分に都合の良い状況を見逃してしまうのも馬鹿らしい……そんな懸念から一応実行に移しただけの、確認行動だったのだから。

 仕方ない。自動車は諦めて、自転車を探そう。

 そう諦めかけたところで、ふと思い浮かんだ。

「この死体……」

 どうしてこんなに、車の近くで死んでいるのか。

 まさか、と思う。そんなことはないんじゃないか、とも思っている。けれどどういうルールで、どういう根拠があってここにある死体なのかがわかっていないから、根こそぎ否定することもできない。

 ひょっとして、この死体は、この車の持ち主なんじゃないのか。

 迷うのは一瞬。叫ばれるのも、襲われるのも、この状態の相手なら怖くはないというのは、さっきすでに考えたことだから。

 ひょっとしてどこかに鍵を持っているんじゃないか。そんな疑いとともに死体の身体捜査をすることにもそこまでリスクはないと、もうわかっているのだ。

 車の鍵はどこにしまう?

 自分に置き換えて考えた。社会人生活を始めてから自家用車なんて贅沢品を持ったことはないけれど、社用車の運転くらいは何度もしたことがある。ああいうときは、鞄に入れたり、あるいはポケットの中に無造作に突っ込んだり……。

 ポケット。

 死体のズボンの、右側。

 膨らんでいるように見える。

 一度、と思いながら、前に進んだ。一度外側から叩いてみよう。それでわかる。金属かどうか、それだけを確かめてみよう。違ったら踵を返してみればいい。腐臭がするなら息を止めよう。大丈夫、危ないことなんて、何もない――

「ア゛アァアアアアーーー!!」

 死体が叫んだ。

 色のない、皺まみれの眼球をカッと開いて、腐食のために白く糸引く下顎を目いっぱいに開いて、身体をエビのように丸める勢いで、叫んだ。

 入澤は思わず後退る。死体は赤子のように手足を振り回す。伸びた爪が空を切る。ロープが千切れる気配はないが、これでは流石に迂闊には近寄れない。

 間違いだった、と思った。この世界で見る死体という死体にはすべて危険がつきものらしいと、今更ながらにわかった。

 けれどそのとき、別のことにも気が付いた。

「おゴゼッ!! びズッ! びズッ、びズッびズッ!!」

 これは。

 死体が発しているのは、叫びではなく、声なのではないか、ということ。

 無意味なア音ではない。咳き込むように、肺から吐き出している息の塊。

 それは、言葉に聞こえた。

『よこせ』

『水』

 そんなことがあるのだろうか?

 ゾンビよりもなお受け入れがたい。死者が言葉を話すなど、全くあり得ない……不合理なことに思える。自分の耳が、勝手に意味のあるものとして音を解釈しようとしているだけなのではないか?

 けれど。

 胸ポケットに入れた写真には、まだ青い火が灯っている。それが、今、入澤をこの場所に連れてきた理由。死者の意志に応えようという思い。

「水、だな?」

 訊き返す。首吊り死体はなおも同じ言葉を繰り返すばかりで、それには答えない。

 幸い、ここは駅だから。近くにコンビニも、スーパーマーケットもある。

 水を取りに行くだけなら……少し試してみるだけなら、それほどの時間もかからない。

 ひょっとすると、水を与えることで、死者のこの激しい動きが止まることもあるかもしれない。

 あまりにも根拠のない、馬鹿げた期待に満ちた考えだ。

 そのことを自分で理解しながら、入澤は次の行動を、そう決めた。



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