3-1 ぼうけんのはじまり
引き出しを開くと、大ぶりのナイフが入っている。護身用に買ったはいいものの、普段使いの鞄の中に入れるには激しくリスクを伴うような、かなり大きな、黒い刀身のナイフが。
ホルダーに入れて、腰に装着する。催涙スプレーの類も一応手にしておくけれど、大して役には立たないだろう、という直感はある。ゾンビに唐辛子をぶつけたところで効き目がないことは目に見えている。携帯のモバイルバッテリーも手にしておいて、それで当面の準備を終える。他にも何か重要なものを忘れてはいないかと不安になるが、それが単なる躊躇いの変形に過ぎないことを、入澤は自分でよくわかっている。
だから無視して、玄関へと進む。
最後の準備だ。履くものを決める。ローファーという選択肢はないにせよ、逃走速度を重視してスニーカーを履くか、それともいざというときに役立つことを期待してブーツ型の安全靴を取るか……。
結局、安全靴を取った。もしも本当に、この後の展開が自分の予想通りになるのなら――谷花の命を奪ったあの連続猟奇殺人鬼から彼女の妹を助けることになるというのなら、荒事は想定しておいた方がいい。そして妹を連れていた場合、自分の足の速さが決め手になる場面というのは考えづらい。彼女を連れて逃げなくてはならないというなら、互いに徒歩同士という条件の下では、殺人鬼の方が移動速度に優れる可能性が高い。
それに、まず。
玄関のドアをずっと叩いている死者をやり込めるのだって、スニーカーでするよりも、安全靴でする方が、ずっと簡単なように思えるから。
ブーツを履いて立ち上がる。ナイフはホルダーに入れたまま。代わりに部屋の鍵を右手に持っている。深く息を吐く。左手でドアノブに手をかける。扉の開き方は、外から中に。
ドンドンドン、と飽きもせずに響き続ける音に合わせて。
一息に、扉を開いた。
「アァアアアア!!」
扉を叩くはずだった死者は、空振りのまま勢い込んで室内に入ってくる。入澤は壁にぴったりと張り付くことでそれを躱して、すれ違いざま、死者の脛をブーツで蹴り上げた。
どたん、と大きく音を立てて、死者が転がる。
その隙に、外に出た。
「ヴァァアアアアア!!」
扉を閉じる。
あまり知能は高くないのかもしれない。押すも引くもわからないらしく、思い切り入澤が引っ張っているノブに釣り合う力はない。これ幸いとばかりに、錠に鍵を差し込む。
がちゃり、と音がして、鍵が締まる。
その音は、一種の喪失だった。ついさっきまで、安全地帯だったはずの場所。そこに死者を引き入れ、鍵を締めた。もう戻れない。この行動が、はっきりと入澤に、自身の置かれた状況と、これからのことを思い知らせてくる。
構うものか。
死者が脱出の方法に気付かないうちに。入澤は廊下を進み、再び非常階段へと向かう。携帯のライトを懐中電灯の代わりに使う。
最後まで、マンションの中に人の気配はなかった。
▼▼
誰ともすれ違うことなく、最寄りの駅まで辿り着いた。
移動手段、というとまず思いついてしまうのが電車で、とりあえずはここを目指してきたわけだけれど。
「……まあ、動いてる雰囲気は、ないよな」
電光の灯りは一つも灯っていない。
券売機のボタンを押しても画面が点かず、駅員がいるはずの窓口にも誰の姿も見当たらない。駅構内のコンビニエンスストアの自動ドアも開かず、ガラス越しに覗きこんだ店内には、やはり一つの人影もなかった。品物だけは……ホットスナック含めてすべて残っているから、いきなりすべての人間が消失してしまったような印象さえ受ける。
あるいは、本当にそうなのだろうか。
入澤はコンビニの看板を見つめた。電気の消えているところを見たことがなかったそれは、今や灰色に静まり返り、また同時に、奇怪な文字へと変わっている。
その看板だけではなかった。駅名も同じく。
この世界には、ひらがなも、漢字も、アルファベットも存在していなかった。
すべてがどこかで見たような――けれど決して意味を伝えてくることのない、知らない文字に置き換わっている。
いよいよ受け入れるしかない。この異常な世界を。
他の移動手段を探そう。そう決めた入澤が踵を返そうとしたときのことだった。
ごう、と頭上で大きな音がした。
聞き覚えがある。階段を上った先、二階のホームに、電車が停まったときの音だ。
まさか、と入澤は思う。まさか、この状況で?
常識的に考えれば、ここまでの停電に見舞われた状況で電車が動いているというのは考えにくい。人だっていないのに。けれど同時に、こんな異常な世界の中に身を置いているのだから、何があってもおかしくはないと疑う気持ちもある。
自動改札を抜けた。
渋谷行の電車が来るはずのホームへと向かう。エスカレーターは止まっているから、階段で、ゆっくりと。何が待ち構えていてもおかしくない、と思いながら。
途中で、口元を手で覆った。異臭がする。さっきの血臭とはまた何かが違う。肉の腐ったような……そんな臭い。
「う――」
その臭いのおかげで、ある程度の心の準備ができていた。だから今度こそ、吐瀉の心配はない。たとえそのグロテスクな光景を目の当たりにしてしまっても。
黄色、赤、白。
人の身体の中に入っているものをミキサーにかけてからぶち撒けると、おそらくはそんな色になる。
それが、ホームの上、カーペットのように敷き詰められていた。
踏み込むのを躊躇う。爪先はもう引き返そうとしている。それでも踏みとどまったのは、さっきの音の正体だけは突き止めたかったから。階段をもう一段、二段上る。立ち位置を変えて、線路の方を覗き見る。
肉の塊が、走っていた。
直感する。人だ。電車一両分と同量の人がかき混ぜられて作られた人だ。それがゆっくりと……歩くような速度で、線路を通過しているのだ。みちみちと張り詰めた外壁からは得体のしれない汁がじゅるじゅると溢れ、赤黒い血管は破裂しそうに脈打ち、埋め込まれた無数の眼球たちはくちくちと肉の中で蠢いている。
そのうちの一つと、目が合った。
「きぃいいいいイイいいいいい!」
電車の、口が開いた。
一つや二つではない。外壁部分に埋め込まれた口が全て一斉に開いた。貨物列車が線路に擦れるような甲高い不快な音。大音量の金切声。思わず入澤は耳を押さえ、それから来た道を駆け戻っていく。
背中に、いつまでも呪詛のような声がついてきた。