2-3 道標
「な――――」
絶句する。
けれど、止まってもいられない。燃えている。彼女の記録が。最も美しいはずの記憶が、めらめらと、青い火に蝕まれて。
「谷花!」
本当は、わかっていた。
ただの写真だということは。それは谷花そのものではないということは。それでも入澤はそう叫ばずにはいられないし、写真立てにほとんど縋るようにして飛びついてしまう。
触れると、肌が炭化するように熱い。
水に浸ければ写真がダメになってしまう。だから入澤は、ベッドに写真立てごと押し付けた。酸素の供給を絶てば火は消える。そう信じた。
けれど、期待どおりの結果は現れてくれない。写真立てを持つ手のひらは、いつまでも神経に鉄ごてを当てるような痛みに苛まれている。その温度が消えてゆかない。写真をベッドから離すと、ちかっと光がきらめいて、まだ火の消えていないことを示す。
何度も何度も何度も――――たとえ焼け落ちた皮膚が写真立てに融けてしまっても構いはしない。入澤は必死で、谷花の写真に宿る火を消そうとした。
けれど、いつまでもその火が消えることはなく、写真立てからいっそ取り出そうとして正面を見た瞬間に、その奇妙に気が付いた。
「……なんだ、これ」
確かに、写真には火が点いている。
けれど写真そのものは、燃えていなかった。
異様な光景だった。たとえば水面を滑っていく火球を目にしたような――そんな居心地の悪さが、一瞬心を支配した。本来起こるはずのことが、目の前で起こっていない。炎が触れれば写真は燃えるのが道理のはずであるのに、その当然の現象が、どういうわけか発生を拒んでいる。炎はまるで水滴のように写真の表面に張り付くばかりで、決して写真そのものを焦がさずにいる。
炎は、谷花の顔を覆っている。
手を見た。あれほどの痛みにもかかわらず、爛れの一つも起きていない。
ベッドを見た。焦げ跡の一つも残っていない。
なんなんだよ、とまた、小さく入澤は、呟いた。
「お前なのか? 谷花……お前、俺に、何をさせたいんだよ」
そして、心の中にだけ、言葉は続く。
俺に、何をさせてくれるんだよ。
写真を握ったまま、入澤は床に腰を下ろした。炎に包まれたままの、写真の中の谷花を見て考える。
彼女は本当に、俺の助けを求めているのか?
いま目にしていることは、妄想でも幻覚でも、なんでもないのか? あの日と同じ、悪夢のような現実なのか?
そうだとして自分は……あの日と違って、何かをお前にしてやれるのか?
「妹……」
口から滑り出した言葉に、入澤は自分で驚いた。
妹? あの玄関の血文字? 自分はあれを、本気にしているのか? 『妹をたすけて』……それが彼女からのメッセージだなんて、本気で思っているのか? ありえない。何もかもが。この夜に起こる全ての出来事は、どう考えてもありえない。
本気にするのか?
馬鹿げてる。
けれど……、
「俺、お前に――」
妄想かもしれない。
幻覚かもしれない。
悪夢のような現実なのかもしれない。
でも、もう、本当のところ、入澤の心は決まっていた。
狂っていてもいい。これが破滅に向かう道だとしても、何も構わない。
取り残してしまった彼女に、もしも何かができるなら、それをしてやりたい。
何を犠牲にしてでも……あの残酷で異常な時間に置き去りにしてしまった谷花に、自分のできる何かをしてやりたい。
炎は青く燃えている。指先で触れれば、涙よりもずっと熱い。
ぱあっ、とそのとき、カーテンの向こう側から光が洩れ出してきた。
びくり、と入澤は反射的に顔を上げる。異常な光だ、ということは間違いなかった。ついさっきまで見てきたこの世界の有様を見て、それはほとんど確信できる。電気も何も一つも点いていない街の中に、新たな光源。ただそれだけで、警戒するには十分だった。
ベージュ色のカーテンの向こうで、光がゆらゆらと揺れている。
火だ、と入澤は思った。
その光景が、フラッシュバックを誘う。
あの日――谷花の死体を見つけたあの海辺の記憶。どれだけ忘れようとしても、記憶から消そうとしても消えてくれなかった、あの忌まわしい記憶。それが何の許可もなく、瞳の裏に湧き上がってくる。
「う――――」
口を押さえて背を丸めた。胃腑が急激に収縮する感触。戻す、と思った瞬間には、もう反吐は喉元までせり上がってきている。
手の中にある写真の火が、それを押しとどめた。
痛みが、本能を焼き切って、理性の場所を守ってくれた。
涙目のまま、入澤は見つめる。カーテンの奥。瞳が慣れてくれば、シルエットが見える。細い棒。空へと伸びていく先端に、丸いボールのような形。
あの日と、まったく同じ形。
忘れたかった、あのシルエット。
逃げたい。
けれど、逃げるわけにはいかない。
傍らのベッドに捕まるようにして、何とか身体を引き起こした。この先にあるものを想像する。自分はきっと後悔する。けれど同時に、こうも思う。カーテンを開けずにいれば、もっと後悔することになる。
問題は簡潔で、より悪くない方を選び取らなくてはならない。
カーテンの前に立つ。写真は握ったまま、手のひらに伝わる熱と痛みに、縋りつくようにして二本の足で立つ。
手をかけて。
開いた。
カボチャのように刳り抜かれた、人の顔。
「う――――!」
半ば、予想はしていた。
けれどそれが、ショックをなくしてくれるわけじゃない。
吐きそうになる。精神を手放しそうになる。けれど視線は外さない。何か意味のあることなのだと信じている。信じるほかにできることがないから、そうしている。
だから、気付けた。
「これ……」
その人間の顔は、谷花に似ていた。
けれど、谷花そのものではなかった。
直視したくない。けれど、まじまじと見つめることを、入澤は選ぶ。
髪が短い。それに、あの頃の谷花より、少し大人びているように見える。原形のほとんどをなくしてしまってはいるけれど、似ているし、同時に本人ではないだろうと断言できる程度には似ていない。
頭の中に浮かぶ可能性があった。
これは、妹の……。
「助けて、って。だって、こんな……」
もう手遅れなんじゃないのか。
茫然とそう呟いて――呟けば次の瞬間、幻のようにそのカボチャの死体は消えていた。
しばらく入澤は反応できなかった。瞬きをした合間に、というわけでもないのだ。乾き切りかねないほどに目は見開いていた。だというのに、断絶した時間層を跳躍に失敗したかのように、唐突に消え去ってしまった。
幻だったのか。またも頭を過る疑念を、とうとう入澤は振り払った。
もう、そんな段階じゃない。
もういい。何が狂っていても、歪んでいても、構わない。
やれることを全てやろう。おかしくなっているんだとしたら、それでもいい。おかしくなったまま、自分にできる全てのことをしてやろう。
だって、今でも、彼女のことを――――
「今のが、妹なのか?」
入澤は考える。今の死体が彼女の妹だというのなら――その妹もすでに死んでいるのではないか。
いや。同時にそれを否定する考えも浮かぶ。時間の問題だ。
初めにこの部屋のモニターフォンに谷花が姿を見せてからの時間を考えてみればいい。悩み続けるには長く、そして何か大きな行動を起こすには短い時間だったはずだ。
六階から一階まで下って、少しだけ玄関を確認して、また上ってきた。とどのつまり入澤は、行動だけに絞ればそれだけのことしかしていない。
だとしたら……まさか谷花も、妹が死んだ状態から『たすけて』だなんてことは口にしないだろうから、生きた妹をあの状態になるまで殺人鬼が加工するための猶予は、その僅かな時間しかなかったことになる。
ありえない。そのはずだ、と入澤は考える。あるいはそれは推測や思考というよりかは期待に近かったのかもしれないが、とにかく、そうして結論付けた。妹はまだ死んでいない。死んでいたとして、あのランタンの状態にまで加工されているということは、時間的にありえない。
じゃあ、今の光景は、一体何を意味していた?
思考のプロセスの中に、すでにその答えの一つは紛れ込んでいる。
殺人鬼。
「まさか、あいつがまた――――?」
十年前に谷花を殺した猟奇殺人鬼――通称『パンプキン』。
未だに捜査の手が及ぶことなく、毎年殺戮を繰り返している狂人。
奴が、また現れて、
「妹まで、狙ってるってことか?」
答えてくれる人間は、この場にはいない。
ただガラス窓の外に吹く夜風だけが、不気味な音を立てている。
殺人鬼。十年前のあの光景。姉妹。助けられなかった記憶。言葉は頭から胸へと降りて、熱を帯びた感情の奔流になって心臓を満たす。やれ。心の中で、声がする。誰のものなのかも、もうわからない。
やれ。
あの日できなかったことを、十年後の今日、お前はやるんだ。
そう、声が聞こえてくる。
そのとき、窓の向こう……死体の消え去って開けた視界の遥か向こうに、光が見えた。
遠ざかっていく火にも見える。
ひょっとすると、という考えは、今この場では、すべて断定と同じ強度を持つ言葉になる。
「あっちに向かえ、ってこと、だよな」
駅の場所と電車の走る向き。その二つを組み合わせれば、大体それが、どのあたりを指し示しているのかもわかる。
渋谷。
目指す場所はそこにある。
写真を胸ポケットにしまいこんで、とうとう彼は、覚悟を決めた。