2-2 こんなはずじゃなかった
本当にその選択でよかったのか?
自分は何か、大切なチャンスを不意にしようとしているんじゃないか?
そんな疑問が、入澤の頭の中に何度も浮かんでは消えていく。
チャンス。一体何の?
非常階段の鍵を開けて、閉める。すると一気に空気は閉塞して、その環境がなお、彼の頭の中の感情を強化する。
自分には、何もできない。
ずっと思っていたことだった。彼女が死んでから、ずっと。
死んでしまった人間には、もう何もしてやれない。
傍にいないのだから。どれだけ近くにいたい、近付きたいと思っても、あの日、あの海辺に、彼女は取り残されてしまったのだから。
十年は決して短い時間ではない。その期間、ただ自己満足のためにもういない彼女の誕生日を祝い続けて、入澤の辿り着いた答えはそれだった。
自分には、何もできない。
どれだけ悲しく、虚しく、やるせなくとも、それが真実だった。
今だってそうだ。こんなに異常な状況に立っていても――――何も。何も、自分にわかることはない。
モニターフォンの前に立っていた谷花は本物だったのか? それに、『妹をたすけて』……あの言葉は、彼女が遺したものなのか? ……たとえばそれが本当だったとして、それでも自分に、一体何ができるというのだろう。谷花の妹のことを、入澤は何も知らない。彼女の家族に合わせる顔がなくて……だから、葬儀にすら出席できなかった。妹の顔どころか、存在だって今、初めて知ったくらいだ。
ほら、何もできない。
こんな状況じゃ……あるいは、こんな状況でも。
自分にできることなど、何もないのだ。
「……嫌になるよ、本当」
階段を上っていく。
靴音が、水の中にいるように響く。かつん、かつん、と。寂しく、一人分の足音が遠ざかっていく。
何から?
チャンスから。
それって、何の?
「ん――――?」
ぴたり、と入澤はその足を止めた。深い自己嫌悪の海から、思考が帰ってくる。
今、何か音がした。
自分以外の人間がいるのか? もちろんそれは、普通に生きていれば当然の事実なのだけれど、この異常な事態の中では、たったそれだけのことが足を止める理由になる。
自分以外の人間。
それは、安全な人間なのか?
妄想だ。そう、入澤は思う。こんなのは質の悪い妄想だ。自分を取り囲む世界全てが敵に見えている。自分を脅かすための怪物に見えている。十年前のあの日から少しずつ治してきたはずの、そんな腐臭の漂う妄想癖だ。追い詰められて、それが久しぶりに顔を出しただけだ。
大丈夫。自分に、そう言い聞かせる。
外に出て、たとえば駅に行ったって、突然ナイフで刺し殺されたりすることはない。ケーキ屋にいる間に、唐突に強盗がやってきて銃を突き付けてきたりはしない。職場だってどうだ。休日、誰もいないと思ったところにだって……彼女の命日に必ず訪れる破滅的な気持ちを和らげるために向かった場所にだって、それなりに親しんだ上司がいて、自分の心の慰めになってくれることだってある。大丈夫だ。彼の……副編集長の部屋にはただ趣味のいいインテリアが飾ってあるだけで、殺害した人間のパーツが転がっていたりはしない。
そう。そんなことは、ありえない。
普通に考えて、そんなことは滅多に……そう、滅多に、ありえないのだ。
じゃあ、そのありえないことが起きるごくわずかなタイミングが、この今だとしたら?
いい加減現実を見ろよ。頭の中の自分が、そう言う声がする。これは異常事態なんだよ。死体、血文字。そんなものがある世界で、何を平和な世界の常識なんかに囚われてるんだ。忘れたか? 谷花の死体を見つけたあの日。お前はどれだけ「これは夢だ」なんて信じ込もうとしても、結局事実は厳然として目の前にあった。今さら何を誤魔化そうとしてるんだよ。この世は地獄だ。絶望だよ。狂ってんだ。
認知の歪みなんだ。そう語る声がする。お前、マジでおかしくなってるんだよ。当たり前だろ。おかしいよ。たった二年ちょっとくらい一緒にいただけの相手にこんな十年も執着してさ。自分でもおかしいと思うだろ? 死人の名前を入れた誕生日ケーキなんか買って、歌なんか歌って、それで結局、昔みたいにひとりぼっちでさ。気味悪いよ。外歩いている間もずっとびくびく怯えて……。これも全部、お前の妄想なんだよ。変なことするなよ。自分が錯乱してないって自信があるのか? やめろよ。誰かを傷つける前に、部屋に帰って、大人しく眠ってろよ。な?
目を瞑った。
三つの数字は数えられない。どう考えても、自分はいま、それで立て直せる状況にはなかったから。
二つの主張。それを天秤にかけるしかない。目の前にあるものを信じるのか、信じないのか。長い停滞の末に、結局入澤は、自分の目に映るこの世界を信じない、その選択肢を選んだ。
己の心の奥底を誰にも見せずに生きてきたこと。
長く続いた精神的な苦しみ。
その二つが入澤に、自身の知覚に対する自信を失わせていたから。
だから、そのとき足を止めた理由を無視して、先へ先へと、階段を上っていった。
音が聞こえたのは、けれどその一度きり。以降はただ孤独な足音が響き続けるだけで、踊り場の表記は段々と数字を重ねていく、『1』『2』『3』『4』『5』……そして、『6』。
思い出したのは、ここに死体があったこと。
携帯のライトで、もう一度照らす。可哀想だ、と入澤は思うが、しかしだからといって、何かできるわけでもない。同情は何も生み出さない。そのことはもう、骨身に染みてわかっていた。
それでも、死を悼む気持ちは、入澤に頭を下げさせた。ぺこ、と小さな会釈をして死体の横を通り過ぎて、部屋の扉が続く廊下へと、顔を出す。
その足を、引っ張られた。
「な――――」
「お、ア、ア……」
廊下には僅かに明かりがある。だから、自分の足首にぴったりと添えられているのが人の指であることがわかる。それが誰のものか――――手首の先からは非常階段側の暗がりに隠れて見えないけれど、思い当たるのは一つしかない。
目に釘を打たれた、あの死体。
「なっ、」
咄嗟に動けなくなる。一体何が起こった? まさか、あの状態でまだ生きていたのか。だとして、この手は一体何の意味があって自分に。
助けを、求めてるのか?
「アァアアアアア!!」
「ヅッ――!」
足首を圧し折りかねないような、強い力で握られた。みし、と骨の軋む感触が耳まで伝わって、思わず入澤は屈みこむ。迷いながら、けれどその手指を一本一本外そうとして、そのとき。
暗がりから、死体が顔を出した。
真っ赤な目をした、死体が。ぽっかりと、虚ろに口を開いて、現れた。
「う――」
「ヴぁあアあああああ!」
違う。
その声と、身振りで気付かされた。
これは助けを求めているんじゃない。ただ純粋に、襲い掛かってきている。
自分を、殺そうとしている。
「なんっ、なんだよッ!!」
もう遠慮はなかった。
近付いてくる死体を押しのける。足を思い切り振って、握ってきた手を振り落とす。バランスを崩して再び死体が非常階段の方へ倒れ込めば、もうしめたものだった。入澤は走る。ドアの前。鍵を突っ込んで回す。死体が今度は走ってきている。扉を開く。死体の手が差し込まれる。一度閉じる。ばつん、と大きく音が立つ。挟まれた死体の指骨の折れる音がする。チェーンロックをかける。それからもう一度開いて、向こうの手が抜けた瞬間に、もう一度閉める。
今度は、ぴったりと閉まった。
サムターン錠を回す。がちゃり、と音を立てて、安全が確保される。
ドンドンドンドン、と叩かれ続ける扉を背に、腰砕けになった入澤は、ずるずると凭れ掛かる。
なんなんだよ、本当。
「めちゃくちゃじゃねえか、こんなの……」
一体どこから、どう繋がってこんなことになっているのだろう。インターホンで谷花に呼び出されてから? それともその前の停電から? あるいは、今日……ハロウィンの日が始まったときから?
谷花が死んだ、あの日から?
眠りたい。それだけを思って、なんとか入澤は立ち上がった。眠りたい。ずっと、そうして乗り越えてきたから。死にたくなった日も、どうしようもないと思えた日も、世界の全てが嫌になった日も。とりあえず眠って、朝になればもう少しだけ気分はマシになっているというのが、結局は一番の治療だと気付いていたから。
だから眠りたい。それだけを思って、いまだに震えるドアを背中に、ゆっくりと歩いた。
キッチンを通りすぎて、さらに扉を開く。
殺風景な部屋。
机の上に取り残されたケーキ。
その向こうに微笑む、谷花の写真。
ぼろぼろと、涙が出てきた。
「なんなんだよ、本当……」
こんなはずじゃなかった。ずっと、そう思って生きてきた。
取り戻せるものがあるなら、取り戻したい。あの日に彼女を置き去りにしない方法があるというなら、何だって試してやりたい。
でも、十年間、ずっと。
彼女がいなくなった世界を見つめてきたから、わかるのだ。
彼女はもう、この世にはいない。何をどうしたって、自分にはもう、何もしてやれない。こんな風にせめて、お前のことを忘れないだなんて、その程度の、あるいは信じがたいほどおこがましい意思表示を続けるくらいが精々で、それにとうとう頭もおかしくなって――
ぱち、と音がした。
涙を拭う手を、入澤は止めた。確かに今、何かの音がした。
玄関のドアから響く音とは違う。ぱち、と。何か奇妙な……そう、焚き木に炎が弾けるような、そんな音が、確かにした。
顔を上げる。
谷花の写真が、燃えていた。