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2-1 カボチャのランタン



 彼女を忘れられない明確な理由が、彼にはあった。

 入澤彰にとって、谷花由有は初恋の相手だった。初めて会ったのが中学一年の夏。彼女の誘いで入った写真部で、ほとんど毎日と言っていいほど放課後の時間を共にして過ごした。

 だからその日彼は――中学三年生だった入澤は、彼女の誕生日を祝いたいと思った。二〇一〇年の十月三十一日。彼女に伝えたいと思ったのだ。

『誕生日、おめでとう』

 たったそれだけの、ごくシンプルな、何の変哲もない、祝いの言葉を。

 けれどその年のその日は、日曜日だった。ちょうどクラスも同じだった時期だから、平日でさえあればいくらでも言うチャンスはあったというのに。

 入澤は迷った。

 電話してみようか。電話して、この気持ちを伝えてみようか。でもそれって、何か変なんじゃないか。ただの部活の友達なのに、そこまでして不審に思われないだろうか。いや、きっと思われはしない。谷花はそんなこと気にするようなやつじゃないし、「わざわざ日曜日に!」なんて大袈裟に喜んで、いつものあの笑顔を見せて、自分は喜んで、ただそれで終わりだ。

 いっそ、家まで行ってみてもいいかもしれない。遊びに行ったこと自体はないけれど、何度かその家の前を通ったことはあるし、谷花から「上がっていく?」なんて言葉をかけられたことだってあるのだから。でも、もしも家族と鉢合わせなんかしたら……。やましいことなんてするつもりはないけれど、気持ちだけでも見抜かれてしまうかもしれない。

 そんなことまで考えるほどだったから、かえって入澤は、どんどんシンプルな方法を取れなくなっていった。たった一本、電話をかけるだけでもよかったのに。過剰な自意識が行動の邪魔をした。明日でもいいよな、と自分の部屋の中で何度も自分を説得した。明日の朝いちばんに『誕生日おめでとう』を言う。それだけでも全然、いいはずだよな。むしろ距離感的には、それが普通のはずなんだよな。

 けれど、自分の心は納得してくれなくて、結局彼は悶々とした気持ちから逃げるために、祖父母に「散歩行ってくる」とだけ声をかけて、ビーチサンダルを履いて、部屋着のままで外に出かけることにした。

 海のある町に住んでいた。

 少し歩いて行っただけで、堤防に辿り着く。谷花の家に行くことはできなくて、

けれど家の中でじっと朝を待つこともできそうにはなくて、入澤が取った妥協の行動が、それだった。

 何度も来た場所だった。

 この町でいちばん綺麗な場所だったから。何度も何度もここに来て二人で写真を撮った。初めて会ったのもここだった。今でも……二十五歳になった今でも、入澤は自身の中学時代を振り返ろうとしたとき、浮かぶ人は谷花で、浮かぶ景色はこの海だった。

 夜の海は、ほとんど冬めいていた。半分から少しずつ欠けていく月が夜空に浮かぶ。そして双子のように、黒い水面の上にゆらゆらとその鏡像が漂っていた。

 もしかしたら、という気持ちもあった。

 もしかしたら、彼女もここに来ていて、運命のように今夜、ここで出会うこともあるかもしれない。

 馬鹿げた妄想だ、とその頃の入澤自身ですら思っていたことではあるけれど、けれど結局、砂浜を長く、長く歩いたのは、その期待をどこかで本気にしていたからだったのだと思う。

 夜風に熱を奪われた、硝子のように冷たい砂が、サンダルと足裏の間に挟まる。ぱさぱさと奇妙に乾いた音を立てて、足跡が刻まれていく。

 そして、入澤は見つけた。

 桟橋の先端に、長い髪が風にふくらむ瞬間を、はっきりと見つけた。

 喜びが胸の内に、ふわりとやわらかく広がった。ああ、そうか。こんなことがあるのか。こんな風に出会える偶然が、自分に降りかかることもあるのか。彼はゆっくりと近付いていった。走り出さなかったのは、だらしなく緩む頬を、それまでにどうにか整える必要があったから。

 けれど。

 段々と、奇妙な感覚が彼に触れ始めた。

 初めはそれが何だったのかわからなかった。しかし段々と近付いていくうちに、はっきりと形を持ち始める。

 彼女の背が、ひどく低く見えた。

 桟橋に座っているのだろうか? それにしても、何か中途半端な高さのようにも見える。後ろからいきなり声をかけて驚かせてやろう、と思っていたのはやめなくてはいけないのかもしれない。それで海に転落なんてしてしまったら、大して深いところではないから溺れはしないだろうけれど、ずぶ濡れになる。誕生日なのに、それじゃあまりに可哀想だ。

「たにはな、」

 だから、最初は優しく呼び掛けた。

 しかし彼女は振り向かない。声が聞こえなかったのか? あまり大きな声で呼びすぎてもびっくりさせてしまう。入澤は声の届く距離を求めて、さらに近付いていく。

 そのとき、風が吹いて。

 自分が見たものがなんだったのか、わからなかった。

「……谷花?」

 髪が、風に流された瞬間のこと。

 彼女の背中が、異様に細く見えた。

 嫌な予感が、彼を支配していた。だから何度も名前を呼んだ。確かめるように。大丈夫だよな、本当は嫌なことなんて何もないんだよな。そう、確認するように。今日はお前の誕生日なんだからさ、楽しいことしか起こらないはずなんだよ。そう、言い聞かせるように。

「谷、花」

 もう一度、風が吹いた。

 背中に見えていたのは、ただの細い、鉄の棒だった。

 茫然と。

 ただ茫然と、入澤は立ち竦んだ。目の前にある光景が、一体どういう意味なのか、わからなかった。

 いつもの、海を見つめる谷花の後ろ姿。見慣れた後頭部。その首から下に、身体が繋がっていないこと。後ろ髪が風に捲れるたび、本来背中があるはずの場所を、奇妙な直立する金属棒が占めていること。

 その横に、血を流す谷花の、首から下の身体が倒れていること。

 何も。

 もう何も、彼は言えなかった。谷花の名前を呼ぶことができなかった。この距離で呼びかけて返ってこなかったら、もう二度と谷花の声を聞くことはできないということを、はっきりと思い知らされてしまうと思ったから。

 真っ黒な海から、寂しい波の音が聞こえてくる。

 ぽたりぽたり、と谷花の頭から、血が滴る音がする。

 谷花の頭と身体は、切り離されていて。

 それはつまり、たった一つの結果を現していて。

 ほとんど泣き出すような荒い息のまま……震える足のまま、入澤は、一歩、一歩とまた歩いた。崖の縁を歩くような、立った一歩でも踏み外したら、もう二度と戻れないような、そんな絶望的な足取りで、それでも、それでも確かめなくてはならないことがあったから。

 ゆっくりと回り込んで、谷花の顔を、確かめた。


 目玉を抉られて、顔の肉を刳り抜かれて、耳まで引き裂かれた口の奥。

 ぽっかりと開いた空洞に、真っ赤な蝋燭の明かりが、微かに灯されていた。



▼▼



 これは本当に現実なのか?

 血文字を見つめながら、入澤は自分自身に問いかけた。

 だって、常軌を逸している。いきなり停電が起こって、モニターフォンには死んだはずの谷花が映って、マンションの中には死体があって、そしてこんな場所に血文字で、誰の気配もなくて……。

 悪い夢でも見ているんじゃないのか?

 それとも俺は、とうとう狂ってしまったのか?

「谷花! ここにいるのか!?」

 恥も外聞もなく、そう叫んだ。

「おい、答えろよ! お前はここにいるのか!? 死んだんじゃ……死んだんじゃなかったのかよ!」

 言っている自分が、いちばんよくわかっている。十年前に谷花の死体を見つけたのは、他ならぬ入澤自身だ。他の誰がわからないとしたって、彼だけは理解している。理解しなければいけない。

 谷花は死んだ。

 残酷に、完膚なきまでに、殺された。

 だから、こんなところに今さら、いるはずがなくて……。

「幽霊にでもなって化けて出てきたのかよ! 妹って何のことだ、俺は顔も知らないんだぞ! 助けてほしいって言うなら、出てこいよ! 出てきて、ちゃんと説明しろよ! ――なあおい、聞いてんのかよ、谷花!!」

 声よ嗄れよとばかりに、入澤は声を張り上げた。エントランスホールを超えて、夜の通りにまで声が洩れ出す。異様に静かな東京の街へ、音が散っていく。

 誰にも届かないことは、知っていた。

「……なんなんだよ、畜生……」

 悪夢の中にでもいるような気分だった。

 それとも、本当に悪夢の中に?

 入澤は思う。本当は、俺はとうとう完全に頭がおかしくなっちまったんじゃないのか。自分でも覚えていない間に、海外の違法通販サイトでも使って、ドラッグでも仕入れてたんじゃないのか。今日、今ここに至るまでに自分が見ていたものは全部そのドラッグが引き起こしたバッドトリップで、実際には目の前の世界は全部正常に動いていて、俺だけが馬鹿みたいに吠えたててるんじゃないのか。今ごろ現実の俺は異常者みたいに暴れて……いや、みたいになんかじゃない、異常者そのものとして暴れて、警備員にでも警察にでも引っ張られている最中なんじゃないのか。

 だって、そうじゃなかったら、こんなこと説明がつかない。

「……そうだ、警察」

 そのことも、ふと思い出した。

 マンションの中の死体。あれを警察に通報しなくちゃ、交番まで歩いて行かなくちゃ……非常階段を下る間にはそう考えていたはずなのだ。

 けれど。

 今になってみると、それがいかに悠長な考えだったのかもわかる。

 これだけの大声で叫んで、誰も出てこない。このマンションには住みこみの管理人だっているはずだ。二十四時間体制ではないのかもしれないが、これだけの大声で叫んでいて出てこないということはないだろう。

 それに……、

「誰もいない……」

 通りに顔を出してみれば、わかる。

 外に出てから数分が経つが、誰の声もしない。誰の姿も見えない。普段だったら、そういう時間帯もあるかもしれないと、そのくらいで片付けるかもしれない。けれどこの停電で、異常事態なのだ。携帯だって通じないとなれば、普通誰か一人くらい、様子を見に外に出てもおかしくはない。それに、何の話し声もしないというのは、どう考えてもありえない。耳に痛いくらいの沈黙。遠くで走る自動車のタイヤの音すら聞こえてこない。

 警察に行って、何が変わるとも思えない。

 入澤は、両手で顔を覆った。暗闇の中で、これから取るべき行動を考える。

 三、二、一。

「……部屋に、戻ろう」

 悪夢としか思えなかったから。

 だから彼は、目の前の出来事から目を逸らすことに、決めた。




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