1-4 メッセージ
自分が叫び声を上げているのだ、と気付くのに、数秒かかった。
瞼が見開いてしまって、閉じてくれない。乾きからどんどん涙が出てくる。それでも逸らせない。目の前の光景から、入澤は目を離せない。
目に、釘が刺さっていた。
長い釘だ。太さから見て優に十センチ以上はあるだろうと推測できる。それが顔の中、もっとも柔らかい部分を抉っている。
黒目、白目と呼ばれた部分は、どこにも見当たらない。瞳が破裂したからだろう、血の膿が眼球全体に広がって、真っ赤に染まっている。眼球表面の曲面は歪み、今はもうほとんどそれを目だと思い込むことすらできない。悪性の腫瘍が、眼窩から飛び出しているようだった。
瞳から流した血は頬で乾いている。入澤が顔を持ち上げた拍子に、ぼろぼろと泥のように、欠片が零れ落ちていった。
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――――。叫びの終わりは、肺の中の空気を全て吐き出した先にあった。空の息を何度も吐いて、それでようやく、臓器が本能的に判断してくれたらしい。息を吸わなくては。酸素が肺に取り込まれると、心臓が動き出す。耳の裏の脈を直接掴んで揺らされるような、異様な鼓動が耳に届く。
「なん、だよ」
かろうじて、そう口にできた。
「なんなんだよ、この死体――――」
疑いようなど、もうどこにも見当たらなかった。
この男は、死んでいる。
完膚なきまでに、絶命している。
理性は、もう少しだけ間を置いて帰ってきた。
「そうだ、警察――――」
携帯を。そう思って、ポケットを探る。服を叩く。ない。自分の身体を見下ろす。部屋に忘れてきたのか? それとも走っている途中で……引き返そうとした瞬間に気付く。自分の手の中にある。ついさっき、ライトにするつもりで持ったのだ。
冷静じゃない。入澤は、自分でそう思う。俺はどうやら今、冷静じゃない。
瞼を閉じた。数える。三、二、一。苦しい息継ぎのような溜息が洩れ出る。瞼を開く。携帯を確認する。……ついさっきと同じだった。オフライン。Wi-Fiの反応もなければ、携帯用の電話回線も繋がっていないらしい。電波状況を現すアイコンは、今となってはほとんど見ないような『圏外』の表示だけを残している。
物は試しだ、と入澤はナンバーをプッシュしてみる。一、一、〇。繋がらない。
一体ここで、何が起こったんだ?
疑問はどこまでも膨れ上がるから、頭を振って、それを取り除かなければいけない。いい。まずは、外に出よう。駅の近くまで行けば交番があったはずだ。そこで事情を説明すればいい。
大丈夫、と自分に言い聞かせた。
死体の血が乾いているということは、もうこの男が死んでから、随分な時間が経っているはずだ。だったら犯人はこの近くにはもう留まっていないはず。大丈夫。身の危険はない。少し通報に手間取るだけだ。落ち着けよ。
それにもう一つ、重要なことがあっただろう。
男の死体に背を向けて、入澤は階段を下り出す。さっきまでのような、勢い任せの早足というわけにはいかない。しっかりと足元を確認して、それから前方から誰か来ていないかにも気を配って、あるいは自分以外の誰かの足音が聞こえないか耳を澄ましながら、彼は進んでいく。
かつん、かつん、と小さな足音が、十階まで続く非常階段の吹き抜けを、上へ下へ、遠く流れていった。
異常な状況にある。そのことを、一歩一歩踏みしめながら、彼は理解しつつあった。
自分のいた階だけじゃない。他の階だってきっと電気は点かなくなっているだろうに、誰ともこの非常階段で遭遇しない。それに、あの死体。あれはどう見ても普通ではない。猟奇殺人鬼の犯行? もしかすると、近くにいるのか?
それに。
死んだはずの谷花が、なぜ。
始まりはそこだ、と彼は思う。始まりは結局――今まで起こったことの中で一番ありえないのは、そこなのだ。
十年前に死んだ少女が、なぜ。
故郷から遠く離れたこの東京の、そしてよりにもよって自分のところに、なぜ。
最も説明がつかない部分はそこで、だから自分はそこに真っ先に向かうべきで……。
そして気持ちの上でも、そこに一番に向かいたいと、そう思っているのだ。
『1』と書かれたプレートが、踊り場に見えた。残り十三段を歩き降りると、扉がある。携帯のライトでドアノブを照らして、ポケットから取り出した鍵を、そこに差し込む。がちゃり、と音がして、回して、
外に出る。
冷たい夜風が、混乱の只中にある脳を、すうっと通っていったような気がした。
どうにも、とその瞬間に入澤は気付く。本当に、街中が停電しているらしい。
通りに出ても明かりらしい明かりは地上には一つも見当たらない。代わりに夜空の光がやけにあかあかと輝いている。夜の端までも黒々としているのを見ると、おそらくかなり広い範囲で電気は消えているのだろう。
星と、それに取り囲まれた月が眩しい。今夜は満月だ、ということにそのとき初めて気が付いた。ついさっきの死体が目に焼き付いているからだろうか。どことなくその月すらも、赤みがかって見えた。
けれど今は。
ようやくその明かりの下で、入澤は走った。もちろん探すのはこのマンションの入り口。ついさっき、谷花が立っていたはずの場所。
誰もいない。
「……そりゃ、そうだよな」
しかし見間違いだった、とも入澤には思えなかった。あまりにも鮮明な像として、いまだに記憶の中にはっきり残っている。絵に描け、と言われればその細部に至るまで描き起こせるほどの自信がある。
時間をかけすぎたからいなくなってしまったのか、それとも、初めから肉眼では捉えられない存在だったのか……。非現実的な前提から出発しているから、非現実的な選択肢も当然のように浮かんでくる。
何か痕跡は残っていないのか。玄関前をぐるぐると見回す。けれど、それらしいものはどこにも残っていない。
あるとしたら、この自動ドアを一枚開けて、共用玄関……つまり、呼び出しパネルのある場所くらいか。
開かないかと思ったけれど、思いのほか簡単に動きそうだった。入澤は自動ドアに手をかける。こんなことをして故障しないか、という考えが頭を過りながら、それでも抑えが利かなかった。無理矢理に指をかけて、自動ドアを開いてしまう。また建物の中に入ったから、視界が暗くなる。携帯を取り出して、再びライトを点けた。
呼び出しパネルを見て、ふっと一瞬、呼吸が止まった。
『6』『0』『4』
入澤の部屋番号。
それに、血の跡がついていた。
そっと彼は、指でそれをなぞる。濡れた感覚。まだ、そこまで時間は経っていない。そう思える、けれど。
「いた、のか……?」
他にも何か、痕跡は残っていないのか。
それを探して、携帯のライトをパネルの周囲に向ける。そこに見つからなければ壁に、天井に、あるいは自身の背後、反対側の壁に。
そして彼は。
そこにある、メッセージを見つけた。
「……何のことだよ、これ……」
大きな字ではない。
それでも、確かに。
あの頃の谷花の背丈を考えれば、ちょうど彼女が書くあたりだろうという位置に。
血文字が、残されている。
『妹を、たすけて』