8-3(終) 時よ、流れ行くままに
目を覚ますと夜空が見えて、身体は半分、海に沈んでいた。
ほんのひとときだけ、記憶の混濁が現れる。自分は何をしていたのだったか。
けれど足先から体温を奪う夜の水が、すぐに神経を目覚めさせてしまう。そして思い出す。そうだ、自分は泳いで、それから力尽きたのだ。
あのあと、彼女から遠く離れた場所で海に入った。そしてそのとんでもない冷たさに、自分の甘い考えを呪ったりもした。
体力以前の問題として、生死の問題があった。だから、結局は死の世界にすぐに潜り込んでしまった。あの世界の中での入澤は不死身だし、そのうえ力だって普段の倍近くは出る。その状態にまでなれば流石に冬の入口に立つ海水の中でも進むことはできたし、『パンプキン』の死体まで辿り着くこともできた。
けれどそれでも、決して陸地にそれが流れ着くことはないだろうという場所まで死体を運ぶのは、生半な労力ではなかった。
記憶を探る。どうにかなった、と思う。この記憶が正しいなら、自分は浜辺から遠ざかっていく波の相当深いところにまで身を置いて、あの男の死体を捨てられたはずだ。そこからは必死で浜辺の方へと泳いで、時折自己嫌悪と諦めに邪魔をされたりして……結局、こうしているのだから、何とか助かったのだろう。
助かってしまったのだろう。
見上げた月は、一片の欠けもなく円かった。煌々と白く輝くのは、満月、二〇二〇年の十月三十一日の証。
戻ってきた。
すべては、終わった。
そのことを心の中で確かめて……ようやく、入澤は身体を起こした。座ったまま、暗い海の果てを見た。煙草を吸おうとして、ポケットに手を当てた。
ぐしゃり、と生濡れた感触。
そりゃそうだ、と自分で呆れた。あれだけ長い時間を海の中で過ごして、まさか煙草だけが無事というわけがない。
そしてもう一つ、そのときになって、彼はようやく気が付いた。
写真が、ない。
十年間毎日、ほとんど祈るようにして見ていた彼女の写真が、どこにもない。辺りに視線を巡らせても、それはどこにもなかった。鞄も、車も、殺人鬼二人が争った跡も、どこにも見当たらなかった。
置いてきてしまったのだろう、と彼は思った。
あのとき――『パンプキン』に襲われたとき、鞄から飛び出した青い火。自分は背を向けた。彼女の望みを無視して、自分の願いを優先し、そしてその写真を持たないまま、過去へと戻っていった。だからもう、それはここにはない。自分の手の中には、残っていない。
ふと思った。
世界は、変わったのだろうか。
確かに自分は、過去の世界に干渉を果たした。そのはずだ。けれど今、本当に世界は変わっているのだろうか。……何もかも幻だったということは、ないだろうか。過去を変えるなんて子どもの考えた絵空事で、何もかもが自分の独りよがりに過ぎなかったということは、ないだろうか。
ない、と。
彼は、信じたかった。少なくともこのあと何かしらの方法でそれを調べて、答えを知るまでは、せめて自分が信じたい方を選ぼうと、そう思った。
次に湧いてくる疑問は、自分はたった一人の自分であるのかということだった。つまり、あのとき……過去に戻った自分と、元から存在している自分が同時に世界に存在していただろうことと同じように。この世界に移動した自分と、元からいたはずの自分は、分かたれていないのだろうかと、疑った。
これはどちらでもよかったから、どちらの場合も、検討することにした。
自分がもしも二人いるようだったら……自分は、どうしよう? きっと、入澤彰として必要なことは、全てもう一人の、元からいる方がやってくれるはずだ。だとしたら自分は名前を変えて、別人として生きていくべきか。……現代日本で、戸籍も身分証もなしで再スタート。考えただけで気が遠くなるような面倒さだ。
自分が一人だとしたら……思い出して、服の他のポケットも探ってみた。携帯はあるが、財布はない。携帯の中に電子マネーを入れておけばよかった、と今さらに後悔している。無一文のまま、どこにあるとも知れない家まで帰るところから始めなければならないらしい。記憶の中にあるあのマンションに住んでいるのならただ何十時間もかけて歩くだけで話は終わるのだが、そこまで都合の良いこともないのではないかという気がする。これもまた、目の前に苦難が横たわる道に違いはなかった。
そしてとうとう、声は洩れ出した。
「……死ぬか」
疲れ果てていた。
この夜だけのことではない。この十年間……あるいは二十五年間の全てに決着をつけて、その疲労がどこまでも深くのしかかってきていた。
疲労は抑鬱を呼び、抑鬱は自己嫌悪を呼んでくる。
人も、殺したことだし。
『パンプキン』をこの手で殺したことだけを言っているのではない。あのときの自分の決意。結果がどうであれ、世界の十年分……四次元の殺人を行う覚悟を決め、そしてその目的を達するに足ると自分で信じるだけの手順を、確かに踏んだ。
結果がどうであれ、大量殺人に手をかけた。
罪はあり、しかしそれを証明するための方法はなく、だから、罰はない。
自分で自分を罰さなければ、どこにもない。
ゆっくりと、入澤は立ち上がった。そして、海の方へと一歩、また一歩と歩いていく。足首が濡れて、ふくらはぎが濡れて、腰が濡れて……こんなことなら、と彼は思う。
こんなことなら、あんなに必死になって戻ってくることもなかったのに。
あのまま海の向こうで、殺人鬼同士仲良く死ねばよかったのに。
けれど……この行きつ戻りつの徒労こそが、この夜の、あるいは自分の人生の象徴だったのかもしれない。
マンションから飛び出して、部屋まで戻って、けれどその後また結局飛び出していったように。
わざわざ彼女の魂を探してここまで来て、それができないとわかって立ち去ろうとしたように。
あの半月の夜に駆け寄っていかなかったばかりに、十年もかけて同じ場所に戻る羽目になったように。
あるいは、取り残されて、手を引かれて、もう一度取り残されて、取り残して……近付いたと思ったらまた、今度は自分から背を向けてしまったように。
過去と現在と未来が巡るように、何度も同じような場所をぐるぐると周り続けて……そんな不毛な循環こそが、自分の人生の象徴だったのかもしれない。
水平線の向こうに、夜明けの気配がある。
死に憑りつかれた鬼は、夜を跨がなくてもいい。
また一歩を、入澤は踏み出す。
そのとき、音が鳴った。
初めはそれが、何の音なのか思い出せなかった。奇妙な音だと思った。風の音でも、波の音でも、月の息でも、星の鼓動でもない。自然から発せられたとは思えないその音は、実際に彼の思った通り、自然の音ではなかった。
携帯が、鳴っていた。
ポケットの中に入っている。二つのことに驚いた。まずはそれが、あれだけの運動の中でも零れ落ちずにそこに収まっていたこと。そしてもう一つは、海水の中に浸してもなお、その防水が機能していること。
迷いが、あった。
後腐れだと思った。少なくとも、家族からの電話ということはない。だったら、相手は誰だろう。友人? ……今やこんな時間に連絡を取り合うほど親しい者は、一人もいない。仕事の関係? ひょっとすると自分は、雑誌のライターとはまるで違った仕事を、この世界ではしているかもしれない。
目まぐるしく疑問は湧いて出る。そもそもどうしてこの携帯が通じているのか。この通話元はこの世の者なのか。携帯が動くということは、それ以外に受信する機械がないということなのか。だとしたら別の世界から持ち込んだはずの携帯は、この世界に固有のものとしてすでに扱われるようになっているというのか。だとしたら、自分はこの世界にいた自分と統合されているのか。あるいは、世界の本当の姿は、自分ごときの想像ではとても及びつかないほど複雑だというのか。
この電話に出ることに、どれほどの意味があるのか。
だって、これから死ぬというのに。
後腐れだ。もう一度、彼は思った。この電話を取ることに、何らの意味もなかった。いかなるものも、この先につくものはすべてが蛇足だと思えた。このまま終わらせるのが一番良い。そう、彼は思った。
だから彼は、それを無視して進もうとして。
その足を止めたのは、結局最後まで、彼女の言葉に他ならなかった。
いいな、と思ったところから、三秒だけ待つんだよ。
その間に、もっといい形に変わってくれるから。
立ち尽くしていた。
この期に及んで、と考えていた。
過去を現す写真は消え――未来を示す火も失くした。
それでいてなお、言葉は彼を引き留め、音は手を差し伸べ、期待がその手を取らせようとしている。
浅ましいことは、わかっていた。
情けないことも……自身の迷い足も、よくわかっていた。
それでも、それでも彼がこうしていつまでも、自分自身に限りのない失望をしながらも立ち止まっているのは、知っていたからだった。
彼女は、優しかった。
あの日、涙もなく泣いていた自分に触れてくれた彼女は。
いつも隣で笑ってくれていた彼女は。
自分のことを、親友と呼んでくれた彼女は。
取り残されていくものを、繋ぎ止めるために――――。
「……馬鹿じゃ、ねえの……」
言い訳だとは、わかっていた。
これだけのことをして、挙句の果てに、人に自分の決断を揺らしてもらうなんて、あまりにも無責任だと、そう思った。
それでも、見えない涙が溢れてくるから。
だから彼は、決めた。
瞼を瞑って、三秒待つことにしよう。その間にこの電話のコール音が鳴り止まなかったなら、通話を繋いでみよう。それは自分に踵を変えさせるようなものではないかもしれないけれど……とにかく、そうしてみよう。くだらない迷いのための、小さな賭けをしてみよう。
そう、彼は決めたから。
ゆっくりと。
瞳にシャッターを、下ろしていった。
音はまだ聞こえていた。海の水は、まだ冷たかった。冬めいた風が吹いていた。
これまで見てきた全ての美しさが、瞼の裏のいっぱいに広がって。
最後に、彼女の姿が映った。
あの日とは少しだけ、違う笑顔で。
ほら、やり直してよ。
待ってるからさ。
閉じた瞼をなお透かして、瞳に金色の光が流れ込んでくる。
その光の名前を、知っていたから。
時が流れ出すのを感じながら――――、彼はひそかに、最後の呪文を唱えた。
三、二、一。
了




