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8-2 HPB2U



 一瞬、言葉を失った。

 そこにいたのは、他ならぬ彼女だったから。

 声を聞いて、振り返って、その姿を確かめて――そのとき急に、ぱっと世界が色づいたようにすら思えた。空は藍色に暗く、星は輝いて、半分だけの月は半分なりの輝きで立っている。水面に揺れるもう一つの月がその隙間を埋めることさえできれば、たった一つの満月くらいには及びそうな、そんな明るさの中に漂っている。

 波の音がする。それは、ただ自分の近くのものだけではなくて、もっと遠くまで。目に見えないほどのずっと遠く。この海の遥か彼方、別の大陸の、誰かが夢見る浜辺に押し寄せる微かな音すらも、耳に届いてくるように思える。風が肌を撫でれば、表皮の一つ一つの細胞がそれに少しだけ形を変えたことまで、はっきりと感じられた。

 谷花由有が、立っていた。

 二〇一〇年十月三十一日の、夜の浜辺に、一人で。

「あ、あの……」

「え、ああ」

 おずおずと話しかけてくるのは、挨拶を返されなかったことへの違和感か。それとも、何か別の目的があるのか。

 やめろよ、と入澤は思う。中学三年生で、一人でふらふらこんな夜中に出歩いたりするなよ。そんなんだから……いや、もちろん、悪いのは彼女の命を奪うくだらない人間なのだけれど。彼女がこの世界を歩くうえで何らかの制約を言い渡されるいわれなど、どこにもないはずなのだけれど。

「こんばんは。ひとり?」

 できるだけ穏やかに聞こえるように言ったつもりが、それはどう聞いても誘拐犯の声音だった。入澤は自分で焦る。十年の歳月は――二十五歳になった自分は、かつての彼女とはもう随分立場が違う。浜辺で出会ってすぐに友達になるなんていうことは、とても起こりそうにないくらいの隔たりがある。だから、慌てて付け加える。

「中学生? こんな時間に出歩いてると、危ないよ」

 良識のある、ごく普通の大人のような口調。自分だって、この頃は一人でこんな時間に出歩いていた癖に。

「あ、えと、はい。……すみません」

 谷花は素直だから、大人からそう言われれば、素直に頭を下げて謝る。けれどどういうわけか、すぐにその場を去ろうとしない。

 一体何だろう。ここに何か用事でもあるのか。そういえば『パンプキン』の潜伏のポイントには疑問があった。彼女の家から海に至るまで。その道を通ることを前提とした待ち伏せ。彼女には、何かここに来るべき理由があったのだろうか?

 彼女の視線の先を追った。

 血まみれの大鉈を握っている、自分の手。

 ああ、と何でもないように声を上げた。

「これ、ハロウィンの仮装。びっくりした?」

「あ、やっぱりそうですよね。びっくりしたあ……」

 ほっ、と彼女は胸を撫で下ろす。おいおい、と入澤は思う。そんなに簡単に騙されるなよ。

 教えてやりたいと思った。お前が考えているより、ずっと世界は危険な場所なんだ。薄汚くて、どうしようもなくて……少し油断をしただけで、どこまでも踏み外してしまうような、そんな場所なんだ。

「あはは。本物だと思った?」

「正直、ちょっとだけ。一人で立ってたから、おおっ、と思って」

「まさか。普通にこれ、全部メイクだよ。鉈もこれ、全然偽物。刃とかついてないから」

「そんなのどこに売ってるんですか?」

「通販。二千円くらいした。割と高いんだよなー、こういうの」

 それでも言わなかったのは、今日が彼女の誕生日だから。

 十月三十一日は、ハロウィンである以前に、彼女の命日である以前に、彼女の誕生日なのだ。

 もしも……と考えた。自分が今から、本物の殺人鬼なのだと打ち明けたら、彼女はどういう気持ちになるだろう。たった今、長年憎んでいた相手を完膚なきまでに殺害して海に捨てたと言ったら、どうなるだろう。この血は本物なのだと、この鉈も本物なのだと告げたとき、彼女はどう思うだろう。

 恐怖するに決まっていた。

 折角の誕生日なのに。突然頭のおかしい殺人鬼と遭遇してしまう。その殺人鬼は絶対に彼女のことを殺さないけれど、ただ出会ったというそれだけで、彼女にとっては悲惨な体験になる。ひょっとすると、誕生日が来るたびに思い出してしまうかもしれない。トラウマになってしまうかもしれない。

 そんなのは、可哀想だった。

 バレてしまうだろうか。……その可能性は、十分にありうる。あの男の死体が見つかってしまったら、ひょっとすると自分があのとき話した相手が……と想像することは、そんなに難しいことではない。すぐさま立ち去ることもできたが、そうしなかったのは、それを心配していたからだった。

 二つ、選択肢はある。自分は完全に無関係な人間だと彼女に思わせること。あるいはもっと直接的に、海に捨てたあの男の死体を、どこか別の場所へと移動させること。

 どちらかの行動を、成し遂げなければならなかった。

「パーティーでもやってたんですか?」

 彼女が訊いてくるのに、そうそう、と入澤は調子を合わせる。

「ちょうど友達の家で。でもまあ、あとはほら、恋人たちの時間ってやつ?」

「わ」

「相手がいないから、俺はこれで今日はおしまい。……この服さあ、本当は最初、血糊とか付けるつもりなかったんだよ。お気に入りだから。なのに途中でワイン零して、んじゃもうしょうがねえやとかノリでぶちまけちゃってさ……。今めっちゃ後悔してんの」

「酔いが醒めてきたら?」

「そう、それ。よく知ってんねー、中学生なのに。こっそり飲んでる?」

 空々しい笑いと軽口の下で入澤はこう思っている。このまま会話を続けても、どうやら意味はなさそうだ、と。

 谷花は騙されやすい。そのことはよく、昔から知っている。あるいは昔だけを知っている。だからこうして会話を続けること、この場だけの疑いを解くことは、それほど難しくはなさそうだった。

 けれど、この場を誤魔化すことと、のちの推理を妨げることは、必ずしも同じ手段で達成できるものではない。入澤自身、感じていた。それらしい嘘を重ねれば重ねるほど、後になって振り返って見た自分が、いかにも怪しい存在に思えるだろうことを。男の死体が見つかれば、必ず谷花は思うだろう。そういえば、あのとき……。そして身震いをするのだ。殺人鬼らしき相手の心の内に秘められていただろう悪意に。それにまるで気付かずにいた、自分の無防備さに。

 不毛だ。こんなのは。

 そう思ったから、立ち去ろうとした。もう少し、過去にはいられそうに思う。遠いところまで歩いて、そこから海に入ろう。そして男の死体を沖まで運ぶ。そこまですれば、流石に誰にも気付かれまい。途中は死の世界を経由しても構わない。それなら、普通の人間では考えられないようなところまで行けるはずだ。とんだロスタイム。最後まで上手くいかない間抜けは、きっと自分も同じだった。

 それに、もう一つ。

 これ以上話していると、泣きそうだった。

「そんじゃあ、君もあんまり遅くならないうちに家に帰んなよ。いまどき、どこで誰に襲われるかわかんないしさ」

 じゃ、と手を振って、鉈を持ったまま、入澤は立ち去ろうとする。

 遠ざかっていく足音を、それでも、彼女が止めた。

「あの!」

 背中から胸へと突き抜けていくような、大きな声。振り向いた入澤の目が大きく開いていたのは、演技からだけではなかった。

「もしかして、入澤さんですか?」

「――――え」

 質問の意味が、飲みこめない。

 何を訊かれている? 入澤か。それはどういう意味の質問なのか。頷くだけなら簡単にできる。確かにそのとおりだ、と。けれどこれは、自分の答え方の問題などではない。

 今は、二〇一〇年なのだ。

 そこに立っている二十五歳の自分に、その質問が訪れるはずがない。

 問題は、自分の答えではなく、彼女からその質問が出てくること、そのものなのだ。

「あ、えっと……すみません、変なこと訊いて」

「いや、いいけど……。何? 急に」

 ええと、と彼女は焦ったような身振りで、その続きを話し始める。

「なんかその、友達に、すごく顔が似てるなーと思って」

「……その友達が、入澤っていうわけ?」

「そうなんです! 私と同級生で」

「同級生って、まさか中学生?」

 入澤は、わざとらしく肩を竦める。

「俺、そんな年に見える?」

「いや! 全然十五歳には見えないですけど……ただ、なんていうか、あんまりにも似てるから……。弟とか、いたりしないですか?」

「いないよ。一人っ子」

 そうかあ、と言って彼女は腕を組んだ。うーん、と唸って、

「入澤から家族の話聞いたことなかったから、もしかしたらと思ったんだけどなあ……」

 焦った意味はなかったな、と彼は肩の力を抜いた。

 わかるはずがない。自分が未来から来た入澤彰であることなど、普通に生きていたら絶対に辿り着けない真実だから。焦る意味などなかった。ただの彼女の思いつきだった。結局最後まで、自分が何者かを悟らせないまま、無事に場を切り抜けることができる。

 のに。

「――そいつって、そんなに俺に顔、似てるの?」

 口をついて出たのは、そんな言葉だった。

「似てますよ!」

 勢い込んで、彼女は言う。

「いつもは結構明るいのに、変なところクールで何考えてるかわからない感じっていうか、なんかちょっと寂しそうで、私がついててあげないと!って気持ちにさせられるっていうか……」

「俺、そんな感じ?」

「あ、いや! これ貶してるわけじゃなくて! ……あれ、そうすると私、なんか入澤のこと褒めちゃってるのか……」

「君、結構人のこと、変わった褒め方するんだな」

 入澤は笑う。

 そして、危険だとわかりながら、こんなことを口にした。

「じゃあ、あんまり近付かない方がいいかもね。そいつには」

「――――え?」

 言うべきではなかった。

 ここにいる二十五歳の自分について、情報を与えるべきではなかった。万が一のことを考えたら、彼女に検討材料を与えることは、どう考えても得策ではなかった。

 それなのにこんな言葉を伝えてしまうのは。

 それが彼女のためになると、本気で思っていたから。

「ほら、性格は顔に出るって言うじゃん。俺、まあほら、今こうやって一人でとぼとぼ歩いてるあたりからわかると思うんだけど、性格に問題があるんだよね」

 この夜に、殺人鬼を二人殺した。

 その代わりに、一人の殺人鬼が生まれた。

 もちろん入澤は、これから先、決して人を殺すつもりなどない。けれど、未来の行動は大した問題ではないのだ。

 自分は、簡単に人を殺せる。

 それだけが、問題なのだ。

「なんかこう、人傷つけても『あー、そっかー』で終わっちゃうみたいなとこあってさ」

 普通ではない。

 自分は、おかしい。

 こんな状況になって、簡単に順応して、相手に殺意を向けられる。必要なら二回殺すこともできる。猟奇殺人鬼たちが抱えるのと同量の殺意を持っている。それを解き放つこともできてしまう。

「自分でもたまに引いちゃうことがあるっつーか……。なんだろ。もしも身の回りに自分そっくりな奴がいたら、絶対友達になりたくないな、みたいなさ」

 あるいは、もっと直接的に。

 好きな相手の死体をぐちゃぐちゃに破壊して、平気で十年生きていけたりする。

 そんな人間の近くに、彼女を置いておきたくなかった。

「まあそっくりそのまま俺と同じってわけじゃないんだろうけど、なんか気になっちゃって。おじさんのお節介――」

「親友です」

 きっぱりと、彼女は言った。

 目を伏せることはない。拳を握ることもない。挑みかかるでもなく。怯えるでもなく。ただ言葉として、事実として、意志として、彼女は言った。

「大丈夫です。親友なので」

 そして彼女が笑うから。

 泣きそうな気持を抑え込んで、入澤も、笑い返した。

「…………そっか」

「そうです」

 ……最後に。

 最後に、言いたいことがあった。

 最後に一つだけ――彼女に伝えたいことがあった。

 けれど今、自分がそれを言うのは不自然だから。

 それに、それを言うことが、自分のエゴでしかないことがよくわかっているから。

 口にしないまま……それじゃあ、とだけ言って、彼は彼女に、背を向けた。


 彼女の未来を祈って、別れを告げた。


 それだけで。

 それだけで、よかった。




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