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8-1 旅の終わり



 不思議なもので、煙草の火は消えていなかった。

 溜息のように煙を吐き出す。取り返しのつかないことをする。その覚悟に必要なだけの気力を絞り出した後は、いつも身体にけだるい感じが残る。暗い海の底で何時間ももがいて、ようやく岸辺に手をかけたときのような、深い、深い疲れ。

 けれどもう、手はかけているのだ。

 時計を見た。……残念ながら、それは十分に機能していないらしい。針が指し示しているのはもう夜明け近くの時間。けれど空の黒のあまりに濃いのを見れば、そんな浅瀬の時間にあるとは到底思われない。真夜中だろう。

 半分の月が輝いている。

 やることは決まっていた。

 浜辺に立っていた。ブーツの底で砂を蹴飛ばして、歩き出す。場所は分かっている。奴がこちらを車で追ってきたときの、逆のバージョンだ。今の自分には、奴のいる場所がよく……本当によく、わかっている。ほとんど魂が癒着しているのではないかというくらい、鮮やかに。反吐が出る。

 頭の中に地図を思い浮かべる。彼女の家、それから浜辺。この直線上に、奴は潜んでいる。初めから彼女が海へと向かうことを知っていたのだろうか? ありえないことではないのかもしれない。自分だって、未来の記憶を覗き見たことがある。

 けれど、こうしてゆっくりと近付いてくる自分から逃げ出さないのを見れば、その未来視も完璧ではないことが簡単にわかるというものだ。猫が来ると知っていて逃げ出さない鼠はいない――よほど間抜けなら、話は別だが。

 海が段々と、遠ざかっていく。面倒だな、と彼は思っている。どこかで足を確保しようか。車の一つ二つくらいが落ちていれば儲けものなのだけれど……残念ながら、そう都合よくはいかなそうだ。朽ち果てた自転車くらいは見つかるだろうが、用途を考えると大して役に立ちそうにない。

 自分の足で、進むしかないのだ。

 本当にくだらないところに、奴は隠れていた。海へと続く林道の茂みの中。全身を黒い服で覆って、息を潜めていた。手には鉈。杜撰な手口だ、と入澤は思う。そんな大振りのものを持って、一体他の人間に見つかったらどうするつもりなのか……いや、見つかったらそのときは死の世界へと逃げるだけなのか。だとしたら、そんな幼稚なやり口になってもそれほどはおかしくないのかもしれない。

 それで行けるのかどうか、試してやろうと思った。

「がッ――!?」

 後頭部を引っ掴んで、木の幹に叩きつけてやった。

 死の世界にいない――現実世界の『パンプキン』は、大して目立った容姿もしていなかった。どこにでもいるような、印象に残らない顔。サラリーマンと言われれば頷く。公務員と言われても頷く。フリーターと言われれば、それもまあ、頷く。

 そんなことには、一切の興味がないけれど。

 そのまま二度三度、顔を叩きつけてやった。便利なもので、やましいところがある人間は叫び声を上げられない。悪いことをしている人間は、自分より強大な相手と対峙したとき、簡単に周りに助けを求めることができない。

 突然の出来事に男は目を白黒させて……頬の骨がばきんと折れたあたりで、ようやく入澤の存在を認識した。

「誰ッ……!」

「お前、こっちの世界だとちゃんと喋るんだな」

 その一言で、男は凍り付いた。

 理解したのだろうと入澤は思った。全ての流れを完全に、とはいかないかもしれないが、『こっちの世界』という言葉一つで、目の前にいる相手が、自分と同じ土俵に立っているということくらいは、理解できたはずだ。

 つまり、死の世界に通じている人間。

 自分と同類の、殺人鬼。

 それに今、自分が襲われているということくらいは、おそらく。

「くそッ!」

 男は右手に持つ大鉈を振ろうとした。当然のことながら、頭を後ろから持たれている状態でそんな動きをしても大した意味はない。入澤は男の手首を掴んで、捻り上げる。大鉈が地面の上にどさりと落ちる。

 ついでに、そのまま肘を逆側に折り曲げた。

「あぁああああああアッ!!?」

「我慢しろよ、このくらい……」

 誰かこれを聞きつけはしないか、心配になる。喉を裂いてしまおうか。いや、変に大量の血痕を残したくはない。そんなことがあれば、ここが殺人現場だということがわかってしまう。

 家の近くで殺人があったなんて聞いたら、普通、嫌だろう。

 向こうが動く気力をなくすまで、頭をボコボコにへこませた。何度も男は死の世界に逃げ出そうとする気配を見せたが、入澤はそれを許さなかった。もう一度同じ苦労をするのは、途轍もなく面倒なことに思えた。

 そのまま林の中を引きずった。

 これもまた、少し面倒に思う。地面の上に跡が残ってしまわないだろうか……。いや、確かすぐに雨の降る日が訪れたはずだ。だったら大丈夫だろう。多少の痕跡は、それで洗い流されてくれる……。

 大鉈と人一人。引きずって歩く。疲れはするが、無理だとは感じなかった。道中、それでも男は何度か藻掻いた。死にかけの虫が身をよじるのに似ていて、鉈の柄で殴りつけてやればすぐに大人しくなった。馬鹿なんだろうな、と入澤は思った。これだけ一方的にやられてまだ反抗しようとするのもそうだし、反抗を続けられないのもそうだ。いい子にしていても悪い子にしていても結局は死ぬわけだが、どちらも中途半端にしていたら、ほんの僅かな可能性すらも取り逃がす。そういうことがこの男には、まるで見えていないらしいと、そう思った。

 海に着いた。

 誰の姿もないことは知っていた。彼女の死体を見つけたのは自分なのだから、その自分が来るまでは、誰も訪れないはずだった。

 誰の邪魔も入らない。

 海だから、血は簡単に洗い流されるし。

 死体は波に洗われてボロボロに傷ついて、事故として処理される。

 男から手を離すと、性懲りもなく逃げ出そうとした。

 だからその足に、鉈を突き刺した。ちょうど詩緒が怪我したのと同じ場所。海の果てまで届くような絶叫が響いた。自分勝手だな、と入澤は思う。自分で同じようなことをしておいて、いざ自分がやられる側に回ったらそうなるのか。

 自分だったら、どんな反応を示すことになるだろう。

「や、やめ……」

 男は涙を流している。鼻水を流している。頬骨が歪んだせいで閉じられなくなった口からは、血と涎の混ざり合った泡を噴いている。尻餅をついたまま、そうすればどこかへ逃げられると信じているわけでもないだろうに、じりじりと後退している。

 男の見つめる瞳を、入澤は見返した。そこにある感情を読み取るために。

 恐怖。怯え。懇願。怒り。理不尽への抵抗――。

 大体、想像していたのと、そこまで変わりはなかった。

 死の世界で、不死身のバケモノとして力を振るっていた殺人鬼は。

 現実世界では、ただの弱っちい人間でしかなかった。

「ゆ、ゆるして……!」

「なんで?」

 鉈を振りかぶって、それなりの力で、首に振り下ろした。

 肉が裂けた。それで終わり。骨までは食い込ませない。不自然な傷は残さない。頸動脈が千切れて、それで終わり。死後の名残の神経反応で男は虫のように震え、やがて完全にその生命活動を停止した。

 くだらない人間だった。

 こんなもののために……と憤る気持ちも、今は出てこなかった。徒労感だけが、ずっしりと肩にのしかかる。この世界には、こんなものがいる。あるいは、いた。ただ事実だけがあって、その事実に疲れ切っていた。

 けれど、最後の仕事だけは確実に終わらせなければならないから。

 入澤は男の死体を引きずった。崖の上。首根っこを掴む。体重自体は変わらないはずなのに、死んでからはやけに重たく感じる。仕方なく両手を使って、ひょい、と投げ捨てた。岩肌に何度か当たって、男は落ちていった。死体はそのうち見つかるだろうと思う。あるいはひょっとすると、過去の自分が見つけることになるかもしれない。

 それで、おしまいだった。

 十年間の悪夢の旅は、幻だったかのように、たったの十数分で、消えてなくなってしまった。

 鉈はどうすべきか。考えた。死体の近くにあると、どうしても凶器なのではないかという考えが拭えなくなってしまうのではないか。どこか遠く離れた場所に捨ててこようか。それとも、死の世界に置いてくるのはどうだろう。猟奇殺人被害者の遺体がいくつも発見されているから、きっとそれだけは置き去りにできないのだろうが、凶器程度だったらちょっとくらいは、世界に見逃してもらえるんじゃないだろうか。

 とりあえずは、万が一がないように、血を海水で洗おう。そう思って、入澤はそれを地面から拾い上げた。


「こ、こんばんは……」


 声がしたのは、そのときだった。




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