1-3 発見
目にしているものが、信じられなかった。
何かの間違いなのではないかと思うし、実際に何かの間違いのはずである。けれど、入澤の視線はそのモニターフォンに吸い込まれて、二度と外せないようにすら思える。
そこにいたのは、どう見ても谷花由有だった。
垂れ下がった前髪のためにほとんど顔だって見えないけれど、しかしそれでも、自分が見間違えるはずがない、と入澤は信じている。たとえ彼女の家族が見間違えたとしたって、本人だと気付かなかったとしたって、自分だけにはわかるはずだ、と思う。
十二年前から、ずっと片恋している少女なのだから。
『通話』のボタンを、気付けば押していた。
「谷花――」
けれど、その声は届かずに終わる。ぷつっ、と唐突に、その映像は途切れた。もうどのボタンを押してもモニターフォンは動かない。停電なのか? 「クソッ!」と思わず感情をぶつけて、入澤は玄関へと向かう。
一体、何が起こっているんだ?
扉を開けると、廊下は暗かった。普段は部屋の前に灯っているはずの通路灯が、一つも点いていない。右を見ても、左を見ても。十階建ての建物の六階。防犯のために共用通路はすべて内廊下になっているから、電気が通っていなければ辺りはとにかく暗く、その両端の磨りガラスから僅かに差し込む青い夜明かりだけが頼りだった。
走る。エレベーターのボタンを押す。動かない。
そこまでのことは、想定内だった。電灯が点かなくてエレベーターが作動する道理はない。代わりに、非常階段を使うしかない。
この物件に引っ越してきたときに、一度だけ説明されていた。ときどきはそっちの階段を使って上る人もいる、なんてことも聞いてはいた。災害時、エレベーターが動かなくなったらそちらの通路から出てくださいね、と大して重要でもないことのように言われた。そのことを入澤はよく覚えていて、非常口の鍵は部屋の鍵と一緒にキーホルダーにつけている。
面倒なことに、非常階段はエレベーターがあるのとは逆の側の端に位置している。
また走る羽目になった。
もう夜中だから、あまり足音を高くすることもできない。踵から接地して、できるだけ音を殺すようにして走る。
そのとき、ふと入澤の頭の中を掠めた考えがあった。
どうして他の部屋からは、人が出てこないんだろう。
共用の廊下までこんな暗さになっているのだ。他の部屋だって、自分の部屋と同じようなものに違いない。二十二時。寝ていてもおかしくない時間だとは思うが、誰もがみな寝ている時間だとも思わない。
いきなり電気が使えなくなって、それがブレーカーを操作しても直らないとわかったら、そして電話も圏外となったら、普通は……そう、普通は。
普通は、自分みたいにこうして外に出てくるものなんじゃないのか。
それなら、どうして誰も扉から顔を出さないんだ?
短い廊下だから、その答えに辿り着くよりも先に、非常階段まで辿り着いてしまった。
仕方ない。考えるのは後だ。今はとにかく谷花の……あの、谷花らしく見えた少女のところに向かわなくてはならない。相も変わらず電灯の一つもついていない室内。さすがに平坦な廊下と違って、こんな場所では転倒の危険がある。ポケットから携帯を取り出して、ライトを点ける。
そこに、死体があった。
思考が追い付かなかった。
頭の中が真っ白になる。その空白を埋めるようにフラッシュバックが起こる。鮮烈な映像。
「ゔっ――」
口を押さえた。胃の内容物が喉元までせり上がってくる。まずい。このままでは戻す。そう思ったから、入澤は瞼を閉じた。そして数える。
三、二、一……。
ごくん、と喉仏が動いて、飲み下した。
ハアッ、と大きく息を吐いて整える。そしてまじまじと、目の前にあるものを観察する。
なんだ、これは。
壁に凭れ掛かっている男の死体だった。死体、と断じたのにはもちろん、それなりの理由がある。
彼の着ているシャツとパンツは、血で染まっていた。空気に触れることで酸化したのだろう。ほとんど黒くなっているけれど、それでもこの濃い血臭は誤魔化しようもない。服に穴が開いていないこと、またその血の付着している場所が服だけでなく短く太い髪にまで広がっていることを思うと、その出血元は首から上らしい、ということもわかる。髪は黒く、手の甲を見れば、年齢は三十代くらいだろうと思われた。
壁に凭れ掛かって、投げ出された腕にも脚にも、まるで力が入っていない。
どう見ても死んでいる、と入澤は思う。生命の気配を、まるで感じない。
「あの、大丈夫ですか」
けれど、声をかけないわけにもいかなかった。
万が一ということがある。入澤は何も、医療のプロというわけではない。確かに一見死んでいるように見えるが、ひょっとするとただ出血だけが派手で、実際にはまだ息があるということだって、あり得ない話ではないのではないかと思う。
それに今日は、ハロウィンなのだ。
こんな場所で、という疑問は頭に引っかかるけれど、仮装の男が倒れているだけという可能性だって、ないわけではない。酒か、それともドラッグか……何かしらの酩酊状態にあって、まるで動かなくなっている。そういう可能性を、考慮できないわけではない。
だから、声をかけた。
「意識はありますか。救急車呼びましょうか」
心底嫌だ、と思ったけれど、肩に手をかけるまでした。
手のひらから伝わってきたその温度にぞっとする。氷のように冷たい。もうほとんどこのあたりで、自分の中にあった悪足搔きのような、現実逃避のような思考は、消えかけていた。
それでも入澤は、彼の頭に手をかけた。