7-5 四次元の殺人
煙草に火を点けた。
肺一杯に吸って、吐き出した。真っ黒な夜に白い煙が流れていく。見渡す限りの海は昏いが、しかし、そのずっと果ての方に、やわらかな昼の光が眠っていることがわかる。そんな時間。
『パンプキン』はもう動かない。
おそらく死んだのだろうと、入澤は思う。何が切っ掛けだったのかはわからなかった。単に耐えうる死の回数に限りがあったのかもしれないし、『パンプキン』自身が苦痛のあまり生きることを放棄したのかもしれない。
そんなのは、心底どうでもいいことだけれど。
もう一度煙を吸って、吐き出した。
自分を痛めつけていると、気分が良かった。
何もかも終わったような気持ちで、砂浜に尻をつけて、冷たい風が水面に波を起こすのをぼんやりと見つめていた。
そして、ふと気が付いたことがあった。
自分には、まだできることが残されてしまっている、と。
不思議に思っていたことがあった。あの首吊り男のことだ。自分にこの世界のルールを教えてくれた男――どうしてあの男は、あそこまで詳しく、ハロウィンとこの世界のことを知っていたのだろう。生前は刑事だと言っていたが、まさかそれだけのことで、こんな世界のことにまで詳しくなることがあるだろうか。
今、その答えは、身体の内側に存在していた。
首吊り男と同じだった。水をかけられたときに、彼は『自分の内側から何かが湧き上がってきたような感じ』を覚えたと、そう言っていた。
今まさに、入澤の身体の中にも、同じ感覚がある。
今の自分はただ不死身なだけではないと、確信が芽生えていた。
これは殺人鬼皆に共通して起こる現象なのだろうか? 煙草を咥えたまま、入澤は考えていた。そもそも、自分は本当に、あの殺人鬼たちと同じ鬼になったのだろうか。あるいは自分はあの瞬間、『パンプキン』に殺されて霊になったのではないだろうか。……そんなことを考えて、しかしその思考を頭の中から消してしまう。不毛だった。そんなことは。直感によってわからないことは、どうせいくら考えてもわかりはしない。夜が明けて、自分が死んでいるか、それとも生きているか。それを確かめるだけの話なのだ。
本当の問題は、はっきりとわかることにあった。
今の自分には、過去に戻る力がある。
なぜ、という疑問には、すでに首吊り男が答えていた。ここは死と生の混じり合う世界――過去と現在と未来が混じり合う世界。そこに馴染み切った、鬼だから。
すでに死して過去になったはずの死者たちは、この日だけは現在に生きる者の下へ霊として現れ、助言を発する。
あるいは、あのベランダで谷花詩緒の死体を見たように――未来は幻として、現在の時間に姿を見せ、警告として立ち上がる。
思い出としての過去の生を思うことは。
これから訪れる未来の死を思うことは。
そのどちらもが、導きの火として、現在と混じり合っている。
それが最も深く交わる夜――ハロウィンの夜だから。そしてそのハロウィンの夜に、最も曖昧な場所に身を置いている自分だから。
だから、自分は過去に戻ることができる。
過去も未来も、現在と何も変わらない場所として、行き来することができる。
この砂浜を歩いていって海に足を浸す――それを行うのが可能であると思うことと同じくらい自然なこととして、入澤はそれを、感じていた。
そして問題は、そうして海へと行くかどうかなのだ。
一番大事なことから考えよう――自分はそれをしてどうする? 過去に戻って、一体何をする? 答えは、口にするまでもなかった。あの日に戻って、谷花を救う。ひどく長いこと、自分の唯一の願いとして横たわっていたそれを、叶えに行く。
そしてそれは、実現可能だと思えた。この過去への道は、必ずあの十年前の夜に繋がっている……それも同時に、入澤が感じ取っていることだったから。
やることは決まっている。
そしてそれを行うだけの、意志もある。
あとは、考えるべきことはたった一つしか残されていない。
それが許されるのか、ということだ。
自分ごときが――そんな言葉から始まる卑屈な考えは、この際無視してしまって構わない。あの日助けられなかった自分ごときが、傲慢にも彼女を救いに行くなど、過去の過ちをなかったことにしに行くなど許されるのか――知るか、そんなことは。自分を責めたいなら、一生責め続けていればいい。けれど自責の念があるからと言って、自身のなすべきことをなさなくてもよい、などという結論は絶対に導かれない。だから、この許しとの葛藤はここでおしまいになる。許されないなら、地獄に落ちてからでも永遠に償い続けていればいい。
厄介なのは、別の角度から立ち上るものだった。昔に映画で見たことがある――タイムパラドクスの問題。
過去を一つ変えれば、連鎖的にあらゆる物事が変わっていくと言う。入澤が昔に見た映画でもそうだった。たった一つの出来事を変えることで、未来はがらりと顔を変えてしまう。十年前の過去への干渉。それはどのくらいの規模で影響するものなのだろう。本当に映画のように、全てが変わってしまうのか?
それに、気になっていたこともある。あの映画の主人公は、罪悪感を覚えなかったのだろうか?
過去を変えることで現在が変わる……その変化の中で消えていく無数の人格の存在に、彼は気付いていたのだろうか。過去が現在を作るのであれば、過去を変えた瞬間、現在に存在している者たちは皆消える。それだけではない。過去から現在に横たわる無数の時間平面が、全て入れ替わる。四次元の殺人――しかも、それは自分自身ですら、どこまで広がるかもわからない。
許されるのか。
おそらく、誰もその殺人を知ることはないだろう――言わなければわかるわけがないし、言ったとして信じるわけがない。死者すらも知らない昏い場所に一人立っているような錯覚。
責める者はいない。
正当な罰は与えられない。
永久に洗い流されることのない罪になる。
……夜明けは近く、いつまでも迷っている時間はない。
だから入澤は――三秒だけ、目を瞑って考えることにした。
あの日のことを思い出しながら、ゆっくりと。
たった三秒だけの猶予を、自分に与えることにした。
最も良い選択を、するために。
――三。
意志と力はあった。きっと、罪にも耐えられる。あとは、それをすべきかどうか。彼女の死を回避することが、世界中の十年分の死に値するかどうか。それを彼は、考えた。
――二。
彼は省みた。これまでの十年を。どこかの街角で人が残酷に殺されても、大抵の人は幸せだった。殺人のニュースは娯楽だった。たかが一人の異常者の所業が世界中から幸福を奪ってしまうなんてことは、決してなかった。
――一。
思い出していた。この苦難の旅を共にした相手。彼女の妹。彼女のいなくなった世界でも、家族は立派に成長していた。狂わなかった。悲しみに囚われ続けなかった。彼女が死んでも、世界は回り続けた。一つの歯車の消失は、全体の機構を決して止めることはなかった。他ならぬ自分の生存こそが、その証に他ならなかった。
彼女の命の価値なんて、世界の十年と比べたら、ほんの些細なもの。
それが心底、気に入らなかった。
零、と数えたときには、もうそこに、凪いだ海の他、何物も残されていない。




