7-3 火花
驚いたことに――自分は死ぬのだな、ということは、はっきり直感として伝わってきた。
ほんの一瞬の出来事だった。今なら入澤はわかる。『パンプキン』は、潜伏していたのだ。自動車の中ではなく、下に。息を潜めて、腹ばいになって、隠れていたのだ。
結局、どっちだったのかはわからない。自分は本当に、車の鍵を閉め忘れていたのだろうか。もしも忘れていたとしたら、『パンプキン』はもっと潜伏しやすいはずの場所をあえて捨てて、意表を突く形で現れたことになる。こちらの警戒度合いを読み切られていたのだろうか。だとしたら、完全に負けだ。
あるいは、実際には鍵を閉めていたのかもしれない。『パンプキン』は車の中に入ることができず、一縷の望みに賭けてそこに隠れることにしたのかもしれない。だとしたら、自分がいかに間抜けだったか、一人で笑いたくもなるものだ。
けれど、もう笑えない。
首を刺し貫かれて、表情を動かすための筋肉が、もう動かない。
喉に開いた穴を、冷たい風が通り抜けていく。倒れ込んで、頭を打って、血が流れて、もう助からない。
「入澤さん!!」
詩緒が叫ぶ。『パンプキン』は、首に突き立てた鉈を、持ち上げようとしている。もちろんそれは、本来の標的である彼女に、武器を持って襲い掛かるために。
逃げろ、と叫びたかった。けれど、叫べない。それなら視線で伝えたかった。そんなことすらできない。目の周りの筋肉は首と連動しているのだろうか? それとも、単に自分の身体にそんなことをする力が残っていないだけなのか。とにかく今は、『パンプキン』の顔しか見えない。あの忌々しい、それこそランタンに変えられたカボチャのような、無機質な顔。それだけにしか、瞳を注げない。
気付けば、その鉈を自分の手で押さえ込んでいた。
こんなことくらいしかできない。もう、自分には。ほんの少しの悪足搔き。
立ち上がることはできない。反撃することはできない。気の利いた作戦を見せてやることもできない。ただ、まさか傷口に向かってさらに凶器を押し付ける被害者はいないだろうという思い込みだけを利用した、それだけの、ほんの一秒間の抵抗。
この間に、どうにか逃げてくれないか。
心の中で入澤はそう願い――そして、思い出す。彼女の足につけられてしまった、あの傷を。ナイフは自分が持ってしまっていること。彼女と自分たちと車の、位置関係。
無理か。
『パンプキン』が、無理矢理に鉈を引き抜いて、満月に掲げた。
詩緒が、泣き声のような鋭さで、名前を呼んでいる。
鉈が、顔面に突き刺さった。
痛いのか? そんなことすら、もうわからなかった。強烈すぎる感覚は、もう日常におけるそれとは結び付けられないほどの遠くに位置していた。脳味噌を掻きだして、神経に繋げたまま火にくべたような熱。途方もない量の熱湯が皮膚と肉の間を駆け巡っているような幻覚。冷たい金属の感触などは、もう何の問題でもなかった。血の臭いも、もう何もなかった。
身体の中身がぶちまけられていく。脳が、血が流れ出ていく。神経網がコンクリートの地面と接触して火花を散らす。世界と自分とを隔てていたはずの境目がどろどろに溶けていく。何もかもが火のように熱い。夜空が燃えている。叫んでいるのは星か? 月か? 何度も何度も鉈は振り落とされて、顔の肉はミンチになって、もうきっと原形もない。眼球は今、いくつある? これは誰の目で見ている光景なんだ?
殺人鬼が、息を吐いた。
それを見て、入澤は思った――――嗚呼、自分は、死んだのか。
馬乗りになっていた『パンプキン』が、ゆっくりと身体をどける。詩緒の怯える声がする。足音の一つでも聞こえれば安心するのに、彼女が走り出す気配はまるでない。諦めてしまったのだろうか? だとしたら、この後には何が起こるのだろう。
きっと『パンプキン』は、彼女を拘束する。あるいは、一太刀で彼女を殺してしまう。どちらだろう。椅子に縛り付けていたときに殺さなかったことを考えると、奴は殺す前の過程を楽しむタイプなのだろうか。もしもそうだとしたら、まだ逆転の目はある。どこかからまた、自分のような……いや、自分よりもう少しマシな人間が来て、彼女を助け出せばいい。それに、わからない。彼女だっていざとなったら自分で何とかできるだけの能力が眠っているかもしれない。でも、そうではなかったとしたら……そのいくつもあるごく僅かな可能性が全て潰えるとしたら、話はひどく単純な結末を迎える。
猟奇殺人鬼に殺されて、頭と胴体を切り離される。
胴体は捨てられ、頭は加工される。次の日の朝、散歩に来た老人によって発見され、通報される。彼女は報道され、彼女自身として歩んできた固有の過去を否定され、ただ悲劇の人物として扱われる。それから一ヶ月も経てば、残されたのは彼女の周囲の人間の心にこれから一生巣食い続ける、限りなく暗い悲しみだけになる。
ごくありきたりな、そんな結末を迎えてしまう。
そうさせないために、自分はここに来たはずだったのに。
結局、何もできなかった――――
「お姉ちゃん!?」
消えゆく意識を、その言葉が押し留めた。
確かに今、それは入澤の耳に届いた。
何が起こっている? 瞳をそちらに向けようとする。見えない。そもそも瞳なんてものがついているのかすらもわからない。この目に映っているものは何なのだろう。現実か? それとも幻か?
『パンプキン』が燃えているのが見えた。
といってもそれは、身体を焼き尽くすような激しいそれではない。線香に灯すはずのマッチの火がたまたま服の裾に引っかかってしまったような、ほんの些細なもの。青い火。どうして詩緒がそれをそう呼んだのかはわからなかった。ひょっとすると、倒れた自分の鞄に隠された写真からその火が飛び出してきたのを目撃したのかもしれない。それとも家族だけに通じる不思議な絆でもあるのか……真相はわからないが、とにかく彼女は、確信を持ってその火を、姉と呼んだ。
そして入澤にも、同じだけの確信があった。
『パンプキン』を燃やしているのは、谷花だ。
彼女の魂が――妹を守ろうとしているのだ。
「やめて! やめてよ!!」
詩緒が泣きながら叫ぶ。『パンプキン』は叩く。己の燃え盛る部位を、何度も。何度も何度も叩く。魂に痛みはないのか? 何度も何度も何度も叩く。火が消えるまで。魂が穢れるまで。谷花の存在が、この世から消えてなくなってしまうまで。
右手が、動いた。
初め、入澤は、それが自分に起こったこととはわからなかった。だって、どうして思える? 顔を挽肉のように潰されて、脳を寸断されて、肌の下にしまい込んでいた醜い汁という汁を恥ずかしげもなく地面の上に垂れ流して、そんな人間が、どうして再び動き出せる?
左手も、右手の後を追うようにして動いた。
その次には、記憶が巡っていた。何かこの状況を説明するための言葉を探していた。検索は今夜のうちに終わる。首吊り男の言っていたことだ。不死身の存在。鬼。死と殺意に憑りつかれた、異常者たち。
右脚が動く。
次いで、左脚が動く。
神経の端と端に電極を当てられたように、激しい痙攣を起こしながら、入澤は立ち上がる。ぱしゃぱしゃと響く水音は、血液か、それとも脳漿か。身体は同じ量の腐水を砂に溶かしたように重い。あらゆる外的刺激を不快に感じる。詩緒がこちらを信じられないという目で見ている。やがて『パンプキン』は気付く。目の前にいる獲物の恐怖の対象が、自分から外れていること。自分の背後にいる何者かに注がれていること。
不死身の殺人鬼。
その条件が死と殺意に憑りつかれていることだというのなら。
「いり、さわ、さん……?」
この男にも、そう成り果てるだけの理由は、十分に存在していた。
生と死の混ざり合う真夜中に、満月眩しく、海の果て。
二人の鬼が、睨み合う。




