7-2 不正解
詩緒は、異様なものを見る目でこちらを見ていた。
それに対して入澤自身、何の異論もなかった。異様なものを見る目。間違いは何もない。実際にいま彼女が見ているのは、その異様で、異常なものに他ならないのだから。
十年間、ずっと思ってきた。
自分はどこか、おかしいんじゃないのか?
そして今、その答えがはっきりとわかった。
「俺は、おかしいんだよ」
当たり前のことだった。
好きだった相手の死体を、勝手な言い分で破壊して。
その上で恥知らずにも十年も彼女の死後の誕生日を祝ったりして。
いざとなればこんな狂った世界の中で、簡単に相手を殺そうとする。
そんな人間が、おかしくないわけがないのだ。
どうしようもなく間違えて、間違えて、間違えて……そして彼女がくれた最後のチャンスすら、こうして反故にしてしまう。彼女から、家族のために戦うという権利すら奪ってしまう。
でも、もう、それでよかった。
何を台無しにしても、彼女に人を、殺してほしくなかった。
何を選んでも不正解なら、自分の思うことを優先したかった。
「嫌じゃなかったら、車に乗せてくよ。たぶん、君よりまだ俺の方が運転上手いだろ。それが嫌なんだったら、好きにすればいい。車に乗って逃げてもいい。ここで待ち伏せして戦いたいって言うんだったら、俺が武器の代わりになってもいい。だけど、谷花のことはもう、そっとしておいてくれないか。代わりに俺ができることは全部やるから……死ねって言うなら、死んだっていいし」
手の中で、写真の炎が激しく燃え盛っていた。
焼けた鉄を握っているのよりも、なお熱い。手の肉がどろどろの液体になって溶け出してしまうのではないかという温度が伝わってくる。やめろ、という彼女の叫びだろう。入澤はそう思う。勝手なことをするな。どうしてそんな自己満足をするんだ。自分のことは自分で決めさせろ……そう言っているのだろう。
「入澤、さんは」
詩緒は、絞り出すような声で言った。
けれどすぐに、首を振ってしまう。
「……私、何も言えません。外側にいるのは、私だから」
「外側?」
「これって、お姉ちゃんと、入澤さんの話なんです」
そんなことは、と入澤は言った。
あくまで今、『パンプキン』に追われているのは詩緒だ。自分はただ、たまたま谷花の誘いに乗ってここに現れただけ。だからこの話は、谷花と、その妹の話で、部外者なのは自分の方……、
「ううん。そうじゃないんです。私、お姉ちゃんのこと、何も知らないから。ずっと昔に死んだ、家族らしい人って、そのくらいのことしか知らないから……。だから、私の入り込む隙間、ないんです。入澤さんがいなかったら、お姉ちゃんがいなかったら、私、とっくに死んでたと思うし……。だから、もういいんです」
「もういいって、何が」
「入澤さんがそう決めたなら、それで正しいんだと思います」
その言葉を、入澤は心の中で、処理し切れなかった。
自分が正しい? それこそ、何も知らない人間だから言える、無責任な言葉に他ならないと思った。自分に正しいところなんて、一つもなかった。最初から最後まで、完膚なきまでに間違えた。最初は過失だったのが、最後には故意にまで成り果てて。
けれど、そんな言葉を詩緒にぶつけるのも、まったくの筋違いだとわかっていたから。
入澤はその言葉を、否定も肯定もせず、ただ受け止めた。
「これからどうするのが、一番いいと思いますか?」
言葉とは裏腹に、やはり彼女はまだ、納得のいかない様子でもあった。
けれどその質問は、主導権を入澤に握らせたままにしておくという態度の表明でもある。
一番良い行動を自分の手で拒絶した入澤は、だから自分の考える次善策を口にした。
「逃げよう。できれば、車を乗り替えながら」
「乗り替えですか?」
「向こうがこっちを追いかけてくるとしたら、次もカーチェイスに耐えられるかわからない……それか、どこかに立てこもるのもいいかもしれないな」
言いながら、けれどその場所はどこにも思いつかない。不死身の殺人鬼から夜明けまで逃げ切ることができる場所。そんなところが本当にこの国のどこかに存在しているのだろうか。出入口の全てが暴力に耐えきるだけの頑丈さを持ち、かつ鍵やその他の解決法を一切受け付けない場所……核シェルターだとか、そんな言葉が持つのと同じくらいの「届かなさ」を持った条件だと思う。
何にせよ、逃げると決めたのなら、そうしなくてはならない。
谷花の魂を使わないと決めたのなら、ここにはもう、何もすることは残っていないのだから……。
「……立てこもりなら、私、ちょっと心当たりがあるかも……」
「本当か?」
「あ、でも、東京に戻ることになっちゃうからダメかも。あの、前に動画で見たことがあって……」
砂浜には、二人分の足跡。
それを辿るようにして、二人は車まで戻っていく。
入澤は、ポケットの中に入れた鍵を取り出して、解錠のボタンを押して。
立ち止まった。
「ちょっと待て。離れるな」
思わず強い口調で詩緒に言う。詩緒がびくりと震えたのが見えたが、入澤はその肩を掴んで、無理矢理自分の側に引き寄せる。
「なん――」
「俺は、この車の鍵を閉めたか?」
記憶になかった。
ただ、今の感触は――何か奇妙だった。解錠ボタンを押したときの音が、鈍いように思えた。
まるで最初から、鍵が開いていたように。
ここにいろ、と車から距離を取ったところで、詩緒に言いつけた。ナイフを返してもらって、自分一人で車に近づいた。
考えすぎかもしれない。そう思いながらも、後部座席の扉に手をかけて。
勢いよく、引いた。
「…………誰も、いないか」
次いで、一応運転席の側も開いた。懐中電灯を点けて、一応中を隅々まで照らす。
大丈夫。誰もいない。
取り越し苦労か――そう、入澤は胸を撫で下ろす。何か嫌な予感がすると思ったが、気のせいで終わってくれたらしい。次は気を付けなければならないが、鍵の閉め忘れは単なる自分のちょっとした不注意で済んでくれたようだ。
そう思ったから、彼は詩緒の側に振り向いて、こうやって声をかけるつもりでいた。
もう、こっちに来ていいぞ。
それよりも先に、詩緒が叫んだ。
「入澤さん、下に!」
それがどういう意味か訊き返すよりも先に、入澤は車の下から出てきた手に足を取られ、転倒し――そして、這い出してきた殺人鬼に、首を掻き切られた。




