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7-1 自分勝手



 何か他に、と考えていた。

 何か他に、可能性はないのだろうか?

 必要な動作はたったの二つだったし、そのことははっきりと入澤にもわかっていた。

 ペットボトルの蓋を開ける。

 それから、中に入っている水を、彼女の頭に振りかける。

 必要なのは、そのたった二つの、どんな子どもにだってできるような、あまりにも些細な動作だった。

 けれど、心の果てでは自分の叫ぶ声が聞こえている。

 何か他に、方法はないのか?

 指先の震えを感知すれば、こうも叫ぶ。そんな指じゃ開けられないぞ。諦めよう。今この場でそれに挑戦したとしても、お前はただ手酷い失敗と向き合わう羽目になるだけだ。つまり、ペットボトルの蓋すら上手く開けられないなんて、そんな途方もない無能と向き合わされるだけなんだ。

 あるいは、こうも叫んでいる。こんなことに、本当に意味があるのか? 首吊り死体が嘘を吐いていたのかもしれない。それに、水を振りかけるなんて、そんな単純な動作で死者の魂をいくらでも蘇らせることができるなんて、そんな都合の良い話があるか? あのとき首吊り死体が理性を取り戻したのには、もっと複雑な理由があるのかもしれない。お前はあのとき、ほとんど人間の力じゃ再現できないほど細かな手順を無意識のうちに踏んでいたのかもしれない。あるいは、あの首吊り死体は死ぬ間際にひどく喉が渇いていたとか、そういうお前には知れない特殊な条件があるのかもしれない。こんなことをして、本当に彼女がもう一度話しかけてくれると思っているのか? 

 それに、タイミングは? 水を振りかけてから彼女が理性を保てる時間は、どのくらいだ? 『パンプキン』がまだ姿を見せないうちにこんなことをして、取り返しがつかなくなったらどうする。なあ、お前。こんなことはやめちまえよ。自分だってわかってんだろ? お前はさ、

 ペットボトルの蓋が、指の先から零れ落ちた。

 カンカン、カン、と音を立てて、それは桟橋の上に落ちる。拾い上げようと屈みこむ動作すらも単なる時間稼ぎに過ぎないことを、入澤は自分でよくわかっていた。

 満月が眩しい。

 自分でも、理由はよく、わかっている。

 この期に及んで自分は――谷花由有に、美しいままでいてほしかったのだ。

 写真……他にしまう場所もなくなって鞄の中に入れていたそれを取り出して、入澤は見つめる。

 まだ、これには耐えられた。つまり、彼女の遺した思い出が炎に変わること――何か意思を伝えるためのメッセージに成り果ててしまうこと。そのことには、まだ耐えられた。妹を救おうという願望は、あの日の彼女の延長線上にあるように見えた。

 けれど、これからしようとしていること……これは、一体なんだ?

 ただの殺し合いに他ならない。そのことを、入澤ははっきりと理解していた。

 詩緒はあの『パンプキン』をバケモノと呼ぶ。その気持ちには共感できる。不死身で、人を殺すことしか考えていないように見える。そんな相手をバケモノと呼びたくなるのは、入澤だってそのとおりだ。

 けれど――あれは、人間なのだ。

 ただ今夜だけが特別で、その他の時間は、ただ人を殺しているだけの、人間なのだ。

 殺人鬼を自分と違う種類の生き物だと思うことは、確かに心の安寧には繋がるだろうが、真実ではないと、入澤は思っている。

 自分自身、『首吊り』との死闘の中で気が付いた。ペットボトルを振る手に迷いはなかった。本当の命の危機の中で理性と倫理は容易く塗り潰され、顔にナイフを刺すことができてしまった。

 人は、人を殺せる。普段はただ、殺さないだけで。

 殺人鬼だって、ただ、自分たちの延長線上にいる人間に過ぎない。

 だから――これからしようとすることは、途轍もなく残虐なことなのだと、入澤はわかっているのだ。

 海辺に笑う幸せな、写真好きの少女が。

 猟奇的な殺人によって命を絶たれた、不幸な少女になり。

 たったそれだけでも、救いようのないことなのに。

 これから自分の手で、彼女を殺人鬼の仲間に仕立てあげようとしている。

 殺人鬼を――人を、殺させようとしている。

 だから、いくつもの言い訳が思い浮かんでいるのだ。何度も何度も、やめようやめようと身体は震え、呼吸は荒くなり、動悸は激しく、そしてどこかで確信もしている。彼女は「それでいい」と言うだろうこと。妹をたすけてと言った時点で、こうなるだろうことが予想できていたはず――あるいは、そうなるよう、自分に仕向けたはずだということ。

 だって、写真の中の炎は、あまりにも優しく燃えている。

 何かの間違いであってほしかったが、これが本当のことだった。

 冒涜的な遺体の破壊者で、それでいて浅ましくも傍にいたいと願い続けた自分に対して彼女が与えてくれた役割は――間違いなく、これだった。

 何もできなかった自分がたった今、彼女のためにできること。

 それが、この残酷だった。

 ペットボトルの蓋はもう開いている。必要な動作は、たったの一つだけ。

 入澤は、とうとうそのペットボトルを掲げ――


 海へと、投げ捨てた。




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