6-5 welcome back
サイドブレーキを引いた。
エンジンを切る前に少し迷って、結局声をかけることにした。
「運転、したことあるか?」
「――っ!」
ほとんど跳ねるようにして、詩緒がこちらを向く。その反応に、入澤が不満に思うことは全くない。当然のことだと思う。車を停車させた瞬間にバールで撲殺されることも視野に入れていたし、そうなるならそれでも構わない、とすら思っていた。
けれど、説明すべきことはまだあったから、そのまま続けた。
「俺は今から降りて、谷花の死体のところに行く。首吊り男との話でも言ったように、『パンプキン』みたいな殺人鬼を殺し切るには、奴に殺された魂の協力が必要になる。そして俺は、『パンプキン』の犯行現場をいくつか知ってはいるけど、具体的にその場所までの行き方を知っているのはここだけだ。……だから、谷花の力を借りる」
「……に、」
怯えの色の濃い声で、詩緒は言う。
「逃げ切るんじゃ、ダメなんですか」
「ガソリン残量の問題もある。日の出の時間まではあと四時間はあるし、俺たちがどこにいても向こうが追ってくるっていうなら……そうするしか、ない」
本当にそうだろうか?
頭の中に、別の選択肢も浮かんでいる。
ガソリンスタンドに、ガソリンのタンクくらいは置いてあるのではないか? 電力供給が死んでいる今となっては普通の方法で利用するのはまず無理だろうと予想はついてしまうが、実際に行ってみないことにはわからない部分だってある。『パンプキン』の車を破壊して稼いだ今の時間があるなら、逃げ切るという手段も、十分取り得るのではないか?
その考えを、入澤は振り払う。ダメだ。そんな行き当たりばったりの考えには身を委ねられない。ガソリンが手に入らなかったらどうする? それに、もう一度同じ状況に陥ったら? バールはどこかのホームセンターで調達できるにしろ、すでに拳銃の残弾数はゼロ。車にもやや傷がついている。何度も同じことをすれば、いずれ力尽きるのはこちらの方だ。
それに、もうここまで来てしまったのだ。
やるしか、ない。
「このギアってやつを操作すると車の操縦のモードが変わる。覚えとくのは、Pで停車、Rでバック、Dで普通の運転。サイドブレーキ……これを下ろして、足元右側のペダルを踏めば進む。左で止まる。今のでわかったか?」
「なんで、そんなことを言うんですか」
「君は逃げてもいいからだ。……別に、ついてこいとは言わない。俺の傍にいるのがもうゴメンだって言うなら、この車で逃げたっていい。ただ、そういうことを言ってるんだよ」
しばらく、詩緒は無言だった。
助手席のドアが開く。
「……一人でなんて、絶対無理です。足もこんなのだし、それに、あのバケモノが追ってるのは、たぶん私だし……逃げたって、一人で追われることになるだけ……」
どっちですか、と彼女は、辺りを見回して言った。
「お姉ちゃんのいる場所……私も、付き添います。一人になるのは、嫌だから」
そうか、と短く答えて、入澤はペットボトルを手に、歩き出した。
夜に、冬の香りが漂っている。砂浜は冷たく、風が吹けば肌の温度を少しずつ奪っていく。空には満月。海には、鏡写しに同じだけの満月。双子のようにそれらは輝いて、けれどどちらかは、本当は存在していないものだった。
詩緒に肩を貸して、砂を踏んで歩く。入澤は思い出している。あの日のこと。あの日も、こんな風に浜辺を歩いていって、見つけたのだ。
果たして、それは確かに、そこにあった。
桟橋の端。髪をなびかせて、死体はそこに、立っていた。
立ち止まったのは、振り返るため。
「どうする?」
入澤は、詩緒に訊ねた。
「どうする、って」
「つらいものを見ることになる」
そして同時に、と心の中だけで呟く。
家族には、ああなった彼女の姿を、見てほしくない。
「……それなら、ここで待ってます。私も、その、正直見ていいのか、ダメなのか、わからないですから」
ありがとう、と言いたくなった。
どの口が言うんだ、と自嘲して、言わずにしまいこんだけれど。
代わりに、ナイフのホルダーを取り外して、彼女に渡した。
「持ってろ」
「いいですよ、持ってても私、どうせ使えないし……」
「ないよりマシだろうから」
押し付けるようにして、渡す。これで入澤の持ち物は、もう水の入ったペットボトル。それだけになる。
ブーツが砂浜に、足跡をつけていく。
あの日よりもずっと、大きくなった足跡を。
動悸が激しくなる。立っていられないような目眩が襲ってくる。生きているのが嫌になる。十年分の後悔が胸から湧き出てくる。それでも一歩ずつ――一歩ずつ入澤は、彼女の下へ、近付いていく。
血の臭いがした。
近付けば、それは風に運ばれて香ってきたから。
桟橋の上、無造作に置き捨てられた首から下の肉体。直立する、金属製の奇妙な棒。そこに差し込まれた、この世で一番重要な人間の、頭。
もう、彼は名前を呼ばなかった。
ただ歩いて、歩いて――そして、その頭の正面に、回り込んだ。
カボチャのランタンのように裂かれ、刳り抜かれ、明かりを灯された、彼女の顔。
戻ってきたのだ、と入澤は思った。
過去が、現在に追いついてきたのだ。




