6-4 犯行
こんなのは。
それが入澤の心に浮かんだ、最初の言葉だった。
二〇一〇年の十月三十一日の夜。海辺で、谷花由有の死体を見つけて、心はそう叫んでいた。
こんなのは、あんまりだ。
谷花のあらゆる表情を、入澤は鮮明に思い出せる。笑っていた顔、怒っていた顔、ふてくされた顔、喜んだ顔――そのすべてを写真に収めて、美しい思い出に変えてきたはずだった。
それなのに。
なんなんだ、これは。
顔を引き裂かれ、肉を抉られ、ただの飾りつけのようにされた死体からは、まるで谷花の美しさは奪われていた。彼女の持っていた人格、信念、過去の積み重ね――そういうものが、全て奪い取られていた。蹂躙で、略奪で、冒涜だった。傍に落ちた首から下の遺体に何らの細工もされていないことは、彼女という存在を構成していたはずの肉体が、ただのパーツとしてしか見られなかったことの証左に他ならない。
ふざけるな。
許せなかった。こんなことをしたやつを見つけて、この手で殺してやりたいと思った。そして同時に、自分自身も殺してやりたいと、強く思った。
傍にいたはずなのに。
こんな形で――こんな形で、彼女を取り残してしまうのか。
幸せになるはずだったのに。これからずっと、輝かしい生活が待っているはずだったのに。美しい過去から遠ざかっていく寂しさを補って余りあるだけの幸福が、これから待っているはずだったのに。
こんな形で、彼女は終わってしまうのか。
そう思ったら、気付いてしまった。それ以上のことに。惨たらしく殺されたこと――それ以上に、彼女の尊厳を奪いかねない可能性が、今、目の前に横たわっているということに。
彼女の記憶は、一体どうなる?
見れば見るほど信じられないような痛ましさだった。目の前にある、猟奇殺人被害者としての、彼女の遺体は。
きっと、と思う。
きっと一度見たら、誰も忘れることはできない。
思い出していた。彼女の言葉。誰だって、一番綺麗な時を残してほしい。それが初対面だからと肩肘を張って吐いたデタラメでないことは、この三年、ずっと傍で彼女の写真を見てきた自分が一番よくわかっている。
けれど。
もしも、彼女のこの遺体が、人目に触れてしまったら。
誰もが、彼女をそれとしか思い出せなくなるのではないか?
谷花由有――この名前が結びつく顔は、このズタズタに引き裂かれた顔のたった一つとなり、彼女の生きてきたはずの幸福な時間は、彼女とほとんど無関係の猟奇殺人犯たった一人の所有物となってしまうのではないか?
彼女の思い出が、塗り潰されていく。
取り残されていくものを、この世で最も美しく留めておこうとした、彼女が。
最も醜い形で、この世に遺されてしまう。
破壊、しなければ。
何度も、入澤は迷った。自分はおかしくなっているのかもしれない。考え過ぎなのかもしれない。抽象的な不安が心を蝕んでいるのかもしれない。谷花の家族や友人たちはこんな遺体を見ても何らこれまでの彼女を忘れることなく、海辺で笑っていたあの姿をいつまでも思い出せるのかもしれない。永遠にこの場面を憶えることになるだろうなんて確信を持ってしまうのは、自分の浅はかな心が生み出す幻覚なのかもしれない。
それに、だからと言って、これから自分が行おうとしているそれが、社会的に許された行為であるわけでもない。死体損壊罪。きっとそんなわかりやすい罪名が刑法に書いてある。未来に関する問題だってある。彼女の遺体を破壊して、そうしたら犯人はどうなる? 今、この場にある遺体に、犯人を捜すための手がかりが遺されているかもしれないのに……。みすみすそれを棒に振るのか? 復讐は? 公正は? そして犯人を逃すことで起こってしまうだろうこれからの殺人事件は? 被害者は?
踏みしめていたはずの大地が崩壊していくような感覚――――本当の孤独。谷花に出会ってから長らく忘れていたそれを、入澤は思い出していた。虚しさという名の宙空に放り出され、自身を取り巻くあらゆる空間に何の寄る辺もなく、己の決定の結果には、己だけで責任を持つしかない。たとえそれが自分ごときではとても担いきれない途方もなく巨大なものだったとしても、その身体が最期のほんの一粒になるまで、自らの身を以て引き受けるしかない。
世界は自分とは無関係で、不幸はどこにでも起こり得た。
自分は世界とは無関係で、全てを決めて進むしかなかった。
自分が彼女に対してできることは、いくつも残されていた。けれど、本当にすべきことはたった一つしかないのだと、入澤はそう、心から感じていた。
瞼を瞑った。
三つ数えて、彼女が最も美しかった瞬間を、思い浮かべようとした。
海辺で笑う彼女の頬に、血の跡がついているのを見たとき――とうとう入澤は、覚悟を決めた。
谷花の頬に、手を当てた。指に力を込めて、強く……離さないよう、強く掴み取った。
そして、一気に金属棒から引き上げた。
叫びたくなるような感触が手のひらから伝わってくる。眼球が破裂したように涙が溢れてくる。脳を誰かの手で直接触られたように、全身の臓器がショック状態に陥る。噛みしめた歯なんてすべて折れてしまえばいい。自分はそれだけのことをやっている。それでも、やめるわけにはいかない。彼女の頭を持ったまま、桟橋を戻り渡る。
堤防のコンクリートの上に、叩きつけた。
痕跡を残すわけにはいかない。一度血痕が飛べば、すぐさま夜の海から水を掬って洗い流す。月明かりの下で彼女の顔を覗きこむ。
まだ、殺人の痕跡が残っている。
何度も、何度も、何度も――入念に、顔を破壊した。わからないように。彼女にあった悲劇のことを、誰にも知られないように。惨たらしい事件が、幸福な思い出を塗り潰してしまわないように。
そうして、彼女の面影が完全に失われた頃――入澤は、首から下の遺体を一緒に担いで、行くべき場所へと向かっていった。
崖の上。荒波の押し寄せる場所。誰かと会ってしまえばそれでお終いのはずが、誰にも会わなかった。会いたかった、とも思った。自分のやることを、誰かに止めてほしかった。けれど、誰にも会わないことこそが本当だとも思った。自分の行動は、自分だけが決められるもので、自分だけで決めなければならないものだったから。
突き落とそうと、そう決めた。
彼女の遺体を海に放り投げてしまおうと、そう決めた。
首と身体が離れていることに、違和感を持たれるだろうか。顔だけがこれほどまでに傷ついていることを、誰かが疑うだろうか。それともそれは、自分の考えているとおり、激しい波に洗われる中で発生した自然の中の出来事だと、誰もが納得してくれるだろうか。
どちらでも、構わなかった。
事故死だと思ってくれるなら、それでいい。
そしてもし彼女の死が、誰もが想像するよりもずっと残虐なものだったとわかるようなことが起こってしまったら。
そのときは、自分が名乗り出よう。
殺したのは、俺です。眠っている間に、苦しまないように殺しました。
そう、言ってやろう。
頭を投げた。
次いで、身体を投げた。
その二つが、真っ黒な波に呑まれて岩に何度もぶつかるところを――血を流すところを、じっと入澤は、見つめていた。
自分も一緒に飛び込みたいと、強く思った。
置いていかないでほしかった。取り残されるくらいなら、一緒に死にたかった。
自分のしたことは正しかったのか? もちろん、そんなわけがないことはわかっていた。何もかもが間違っていた。間違っていて、狂っていて、砕けていて、終わっていて……。もう何もかも、取り返しがつかなかった。
不幸なら、自分が代わりに全てを背負ってもよかった。
ただ彼女が幸せに生きてくれるなら、それだけでよかった。
でも何もかも……何もかもが、手遅れで、どうしようもなかった。
許されないことをした。声も出さないままに、夜空に泣き暮れた。自分を嫌いになったのは初めてのことで、何度殺しても足りないくらいに自分自身を恨んでいた。
それでも、自分が死ねば、彼女の思い出はどんどん遠ざかっていってしまうと思ったから。
思い出を取り残さないために、苦しみながら生きていくことを、彼は誓った。
その誓いすら間違っているのかもしれないと、疑いながら、ずっと。




