1-2 お誕生日パーティー
ケーキ屋の可憐な内装には似合わない、無機質な液晶テレビだった。
『渋ハロは今年もすごい賑わいですねえ』
『周辺の飲食店街は迷惑してるみたいですけどね。やっぱりマナーのなっていない若者が……』
『暴力事件なんかはやっぱり心配ですね。とにかく人が多いですから。連続殺人もまだありますし……』
『どうなんでしょうねえ。「パンプキン」とか「首吊り」だとかはあれ、人のいないところで襲われてるんでしょう?』
『そうですね、子どもの連れ去り事件はほとんどの場合は一人になったときに起こりますし、かえって人が多い方が安全なのかも』
『いやいやいや! 東京はお互いに無関心ですからね。怖いですよこの状況は。群集心理が働くって言うんですか? 一人一人のモラルというのはどうしても薄くなる』
『そもそも渋谷には暴れに来ているって輩も多いですからね。かえって歯止めが利かなくなるってことも……』
「お待たせしましたー。入澤さん」
「あ、はい」
パステルカラーの制服を着た若い店員が、真っ白な箱を抱えて奥から出てくる。伝票を見ながら、ええと、と彼女は言って、
「ご予約のお誕生日ケーキですね。15cmのショートケーキ」蓋を開いて、「お名前入り。『谷花由有 誕生日おめでとう』で。漢字はこちらで間違いないですか?」
「はい。大丈夫です」
「ありがとうございます。それではお包みしますね」
どうも、と頭を下げてる。あまりじろじろ見られていても嫌だろうという思いから、また入澤は視線を外して、テレビを見る。番組の内容は、ハロウィンの賑わいそのものよりも、そうした騒ぎを生み出す現代社会の病的な構造に焦点を移していた。
「ハロウィン、毎年すごいですよねー」リボンを結びながら、店員が言った。
「ちょうどさっき、これ見てきましたよ。通り道で」
「えっ、どうでした?」
「いや、すごい人ですね。見てるだけでも体力吸われました」
話したいタイプらしいな、と改めて入澤は向き直って、
「店員さんは行かないんですか? こういうの」
「うーん。興味はあるんですけど、私、毎年この日は店番なんですよね。店長が商店街の方に行っちゃうんで」
「ああ」さっき、このケーキ屋に来るまでに見た光景を思い出して、「やってましたね。イベント。お菓子配りですか?」
「いや、お金はいただいてるんです。この日ってお菓子がすごく売れるんですよ。ケーキなんかはあんまりなんですけど、小分けにできるものはやっぱりすごく人気があって。で、店長はそっちで、バイトの私はこっちで店番っていう……」あの、と彼女はおずおずと、「そういえばお兄さん、去年もうちにケーキ頼んでくれましたよね?」
「ええ、はい」笑って、頭を下げて、「いつもお世話になってます」
「いえいえこちらこそいつもありがとうございます。……彼女さんですか?」
「いえ、友達です」
一瞬、彼女は気まずげな顔をして、「実は毎年ハロウィンに予約するお客さんって意外にいないので、なんとなく覚えちゃったんですよね」
「店番は一人でしてるんですか?」
「そうなんですよー。だから遅い時間になると、正直ちょっと不安で……。と、べらべら失礼しました。こちら、お品物です」
そう言って、店員が袋を差し出してくる。入澤はそれを受け取りながら、もう片方の手で鞄の中を探った。
「余計なお世話かもしれないですけど……」
取り出したのは、真っ赤なスプレー缶。大きく『防犯』の文字が書き込まれている。えっ、と驚く店員に、笑って入澤は説明した。
「僕、雑誌のライターをやってるんですけど、この間防犯グッズの特集があって」
「はあ……」
「これ、うっかり顔に噴射したやつが一時間近く悶絶してたやつです。余ってるので、よければ。ひとりは危ないですよ」
ほら、と言って入澤が顔をテレビに向ける。そのときちょうど画面に映っていたのは、こんな文字。
『ハロウィンの惨劇 連続猟奇殺人事件を振り返る』
全国地図が映し出される。色別の記号が、いくつもその地図にプロットされていく。千葉、高校生殺害。北海道、老夫婦殺害。鹿児島、女児殺害。鳥取、単身女性殺害……。記号の種類を分けているのは、どの殺人鬼がその犯行に及んだと思われるか、というのが基準。記号の横には名前もついている。『首吊り』、『丑の刻参り』、『パンプキン』……。脅しめいた低い声で、ナレーションは言う。
『年々ハロウィンが賑わいを増す一方で、猟奇殺人事件の件数も増加の一途を辿っています。すでに今日の渋谷では暴行事件がSNSにアップされ、救急車も出動しています。どうかハロウィンに参加される皆さんも、トラブルを避け、身の回りの安全には十分に気を付けた上での行動を心がけてください』
今でも入澤は、カボチャが大嫌いだ。
しばらく、店員はそれを見つめてから、そっと呟いた。
「……いいですか。なんか、すみません」
「いえいえ。どうせ、ちょっと処分に困ってたんです」
スプレー缶をカウンターの上に置く。ありがとうございます、と店員が言うのに、入澤も同じように頭を下げて返す。
「たぶん、来年も来ると思うので」
またよろしくお願いします、とドアを開けば、ちりんちりん、とベルが鳴った。
▼▼
がちゃり、と鍵を回して扉を開く。
真っ暗な室内。玄関脇のスイッチを押す。電灯はちかちかと明滅してから、青っぽい光で部屋の中を照らし出した。早めに替えなくちゃいけない、と思ってはいるのだが、電気屋に寄るのも椅子を足場を用意するのも面倒で、ついつい後回しにしてしまっている。
靴を脱いで、キッチンにケーキの箱を置いて、まずは洗面所に向かう。顔を洗う。口をゆすぐ。靴下を脱いで、洗濯籠に入れて、風呂場へ。足だけを洗って、それからようやく部屋用のスリッパに履き替える。
キッチンの引き出しを開くと、中には遊びのような、小さなキャンドルが入っている。一昨年に開いてから、まだまるで減っていない。水色のそれを手に取って、ケーキを袋から取り出して、箱を開く。せっかく綺麗に梱包してもらったから、できるだけ傷がつかないように。
真っ白なショートケーキが顔を出したら、その上に一本、キャンドルを差した。キッチンスペースから部屋へと繋がる扉。片手でケーキを持ったままだから、もう片方の手で開く。
ほとんど何もないような部屋。
ポスターも何も貼っていない。ベッドがあって、机があって、一応テレビも置いてはあるけれど、それくらい。入澤は一度買ったものは捨てられない気質で、自分でもそれに気付いているから、できるだけ何も買わないようにしている。ケーキを机の上に置く。座椅子に腰かける。懐からライターを取り出して、かち、と炎は揺れる。それをゆっくりとキャンドルの先端に口づけた。
パチパチと玄関の灯りが明滅して、ついには消えた。だから、部屋の電気を消す手間も省けて、彼はそのまま歌い出す。
「ハッピーバースデイトゥーユー……」
ケーキの後ろに置かれているのは……あるいはその机の上に唯一あるのは、一枚の写真だった。汚れ一つなく、埃一つ被っていない真っ白な写真立てに収められている。
「ハッピーバースデイディア……」
髪の長い、少女の写真。
海を背景に明るく笑う、女の子の写真。
名前なら、ケーキの上に書いてある。
「谷花、由有……」
ハッピーバースデイトゥーユー、ともう一度入澤は、歌うというよりほとんど呟くような低い声で口にする。
ふうっ、とキャンドルの火を吹き消せば、冬めいた真っ青な夜が、部屋の中を満たした。
入澤はしばらく、その消えた炎の残光を追うように視線を彷徨わせた。そして結局、懐から紙箱を取り出す。煙草の箱。一本を摘まみ上げて、咥えて、ライターで火を点けた。
深く吸って、吐く。
オレンジの火が蛍のように、暗闇の中で揺れている。
もうこんなことを、入澤彰は十年も続けていた。
彼女の誕生日であるこの日に、一人でケーキを買ってきて、祝う相手ももういないのに、蝋燭に火を点けて歌う。そんなことを、何年も。わざわざケーキ屋に予約を入れて、名前入りのプレートまで用意してもらって、入念な準備までして。
俺は頭がおかしいのかな。
そんなことを、彼は自分に問いかけている。今、このときだけのことではない。十月に入って予約の電話を店に入れているとき。日が近くなって、キャンドルの余りを確認するとき。二日に一度、彼女の夢を見るとき。起きて、まず初めに机の上の彼女の写真に目を留めるとき。堰を切ったように泣き暮れて一日中謝罪の言葉を口にするとき。
十年も前に死んだ人の思い出に、こんなに縋り続けるのは。
どこか自分はおかしいのかな、とずっと思っている。
けれど、そんな思考すらもすでに、何度も同じ場所をぐるぐると周り続けるような不毛に成り果てているから。
「……食うか、ケーキ」
立ち上がった。部屋の電気を点けよう。箱の中に入っていた小さなフォークで、このショートケーキを平らげよう。そして彼女の笑顔のことを思い出して、今日の日も眠りに就くことにしよう。ドアの前まで歩いて、電灯のスイッチを押して、
「……ん?」
点かない。
何度押しても、点く気配がない。おかしいな、と入澤は天井を見上げる。玄関の方と違って、こっちの電灯にはまだそんな気配はなかったはずだ。まさか、停電でもしているのか。一旦キッチンの方に出て、洗面所のブレーカーを確認する。ONのまま。一度落として、もう一度入れる。試しに風呂場の電灯も入れてみる。点かない。洗濯機のボタンを押してみる。動かない。
何がどうなっているのか。このあたり一帯で電線が切れたりでもしたのだろうか。携帯を取り出して、検索ボックスに入れてみる。『停電 状況』ボタンを押して。
オフライン、の表示。
カーテンを開けてみよう、と踵を返した。外の景色を見て、灯りが一つもなかったら、この部屋だけの話ではないはずだ、と。確認するために、彼はまた、ケーキのある部屋に戻ろうとした。
そのとき、インターホンが鳴った。
オートロックのマンションに住んでいる。だから、その呼び出し音の種類によってそれが『共同玄関からの呼び出し』なのか『部屋の目の前からの呼び出し』なのかが判別できるようになっている。今聞こえてきたのは、前者。
こんな時間に?
まだ外していない腕時計を見た。職場を出て、渋谷とケーキ屋に寄って、だから今は、もう二十二時を回る。
こんな時間に訪問してくるやつがいるのか?
ぞぞ、と背筋が寒くなったのは、どうしてもついさっき見てきたハロウィンの光景が目に焼き付いていたからだった。大して仮装は多くなかったけれど、まったくいないというわけではなかった。ゾンビ、幽霊……。真新しい記憶が、恐怖を容易にした。
ありえる可能性を、入澤は頭の中で考えている。こんな時間に、ということはおそらく急用だろう。だとしたら、やはりこの停電に関するものなのではないか。どこかで断線が起こって、いますぐに住人に伝えなければならないことがある、とか。それはそれで面白くない話だったけれど、理屈のつくものだと考えれば、それだけで恐怖感は薄れる。
もちろん、不審者の可能性もあるだろうから。
入澤はとりあえず、モニターフォンの前に立って、『通話』『終了』『解錠』の大きなボタンではなく、もう一つの小さなボタン……『モニター』に指をかける。ただ一方的に、共同玄関の前に立っている人物を、カメラで見るモード。
ゆっくりと、ボタンを押し込む。
髪の長い少女が、前髪を垂らして俯いて、そこに立っている。
顔は見えなかったけれど、咄嗟に、口をついて出た名前があった。
「――――谷、花?」
死んだはずの、少女の名前。