5-4 誰?
車は往く。
暗闇の中、ヘッドライトだけを頼りに。ひたすらに山の中の道を辿って、走っている。
「…………あの、」
助手席から声がして、お、と入澤は眉を上げる。
「話せるくらいの元気は出たか」
「なんとか……。あの、ごめんなさい」
「ん?」
「その、腕のところ」
ああ、と入澤は左手を持ち上げる。手首のあたりに、人の手の痕。
応急手当中に、詩緒が入澤の手を掴んで、思い切り握りつぶそうとした痕だ。
「ホラー映画のあれみたいだよな。大したもんだ、その怪我でそんだけ元気があれば」
「すみません、本当……」
「痛みは引いてきたか?」
「はい。ちょっとは……。今度は頭がぼーっとしちゃってますけど」
「眠いなら寝といてもいいぞ」
いやそれは、と遠慮するのに、本当にいいからな、と入澤は念押しをする。気休めにでもなればと思って、市販の鎮痛剤を飲ませている。副作用に眠気とあったから、それに抗えなくても何も不思議なことはない。
けれど詩緒は律儀に、話を続けた。
「……あの、今更なんですけど……誰、なんですか」
「入澤……って、名前はさっき言ったか。まあ、君の姉貴の友達」
「おねえ……もしかして、あの、彼氏の……」
「そいつとは別。昔の部活の友達だよ」
「部活……」
ほとんど譫言のように、彼女は入澤の言葉を繰り返す。
「お姉ちゃんって、何の部活をやってたんですか?」
知らないのか、と内心だけで驚いて、短く告げる。
「写真部」
「えっ、あ……」
「ん?」
「あ、いや、意外で。うち、みんな写真、嫌いだから」
「…………へえ」
入澤は想像する。谷花の家族が写真を嫌いになった理由。あの日……十年前の十月三十一日、彼女の遺体の傍にカメラが転がっていたから。彼女が海辺へ近づいた理由は、きっと撮影のためだと思われていたから。おそらく、そんなところだろうと。
「上手かったぞ。県のコンクールで入賞してた」
「あ、へ、へえ……そうなんです、ね……」
ああ、とここに来て入澤は気付いた。会話が続いている理由。詩緒が痛みを押して喋りかけてくる理由。それは別に、義務感から来るだけのものではなさそうだ、ということに。
「俺も怖いか」
「――――っ」
それもそうだな、と入澤は思う。この夜の中、アドレナリンの過剰量分泌のためか自分では気にならなくなっているが、やっていることはどう考えてもそのあたりに住んでいる普通の人間のそれではない。殺人鬼と対峙して、躊躇いもなくナイフを使う。向こうの方が明らかに異常な動きをしているとはいえ、自分だって傍から見たら、大して殺人鬼と危険度の変わらない存在にすら思える。
何かわかりやすく安心させる材料はないか、と考えて、少しでも何かの緩和になれば、と胸ポケットから写真を取り出した。
「な、なんですか、それ」
「君の姉貴の写真。いきなり俺の部屋に幽霊が来てさ、君のこと助けろって言うんだよ。で、昔のよしみだと思って、こうやってのこのこ首突っ込みに来たってわけ」
熱いぞ、と言って指に挟んで詩緒の前へ。おずおずと彼女はそれを受け取って、あっちち、と案の定、一度は取り落としかけた。
「これが……お姉ちゃん……」
じっと、しばらく彼女はそれを見つめていた。だから少しだけ、入澤も運転に集中する。街灯の一つもないから、獣道のように暗い。案内板は意味をなさない。それでも、おおよそこのとおりだろうという想像に従って、道を進んだ。
できれば高速をもっと活用したかった。車など来ないとわかっていても、信号の灯っていない通りで交差点を通過するのには、精神の摩耗を伴う。左折右折も繰り返せばそれなりに行動ストレスを生む。それでも、ただアクセルを踏んでいるだけでどこまでも距離を稼げる高速道路の利用をそこそこで辞めたのは、仮に『パンプキン』が追ってきている場合、こちらが見つかるリスクが増えるからだ。
一本道は危ない。それなら、多少こちらが消耗するとしても、見つかりにくい道を行った方がいい。それが、入澤の判断だった。
「あの、」
もう一度、詩緒が声を上げた。
「入澤さんって、その……霊能力者とか、そういう人なんですか」
「は、」
思わず、素の声が出てしまう。
「なんで?」
「いや、だって……」
お姉ちゃんの、と言って、炎の揺れる写真を掲げる。
そうか、と入澤はよくわからない気持ちでその言葉を受け入れる。何も事情を知らない人間から見れば、自分はそんな風に見えるのか。
「いや、少なくとも今までにこんな目に遭ったことないな。普段はただの雑誌ライター。……俺もよく状況はわかってないし、君とそんなに立場は変わらない。首吊り死体から聞いたことが精々かな」
「くっ……!?」
俺も未だに半信半疑ではあるんだけど、と前置きをして、入澤は話し出す。あのとき、首吊り男が語ったこと。ハロウィン。サウィン。ネラの異界行。生と死の混じり合う世界。喋る死体と、不死身の殺人鬼たち。
知っている限りのことを語り終えて、なお、詩緒は黙っていた。
「信じられないか」
「…………その、」
「別に、無理はしなくていい。こんな話がどうしても受け付けないっていうんだったら、もっとシンプルだって構わない。殺人鬼に襲われて危ないところを、たまたま物好きなおっさんが助けに来たとか、そのくらいで」
ただ俺は自分の知ってることを伝えただけだから、と。
もういいかな、と言って、詩緒から写真を返してもらったりもする。
「……これから、どこに行くんですか」
自分のことを信じたのかどうなのか。
それは読み取れなかったが、少なくとも詩緒が口にする話題は、次の段階に移った。
「遠く」
「遠く、って……。決まってないんですか?」
「まあな。あんまり規則的に動きすぎてもかえって動きが洩れるかもしれないし」
「洩れる、って」
「追われてる可能性はまだある。……ああいう奴って、いかにも執念深そうだろ」
ぶるり、と詩緒が身体を恐怖に震わせたのが、視界の端に映る。
「……私、今日、親に黙って家、出てきたんです」
「あらら」
「昔からうち、門限厳しくて……でも今日だけは、友達に誘われて、絶対行きたくて……」
「高校生?」
「はい」
まあそんなものだろうな、と入澤は心の中で納得している。髪染めもなければピアス穴もない。化粧っ気のあるなしはもうここまでの道中でさっぱりわからない程度にはなってしまっているが、大学生的な闊達さが抜けているようには感じられた。
「そうしたら、いきなり友達も、誰もいなくなってて……気付いたらあんなのに連れ去られて……。隣にいた人たちも、死んじゃって……」
可哀想に思う気持ちと、どうやら元からの知り合いではなかったらしいと安堵する気持ちの両方が、入澤の頭の中にはあった。どう足掻いても悲惨な体験ではあるが、あの椅子に座っていた二人が友人たちだったとしたら、彼女は今ごろ、こんな風に会話ができるような精神状態ではなかっただろう。
そのことは、入澤自身が身をもってよく経験している。
友人が死んだ後は……数ヶ月、ほとんどまともに心を動かすこともできずにいた。
「お母さんたちの言うこと、ちゃんと聞いておけばよかった……!」
声を上げて、詩緒が泣き出す。
だから入澤は、「そんなに思い詰めるなよ」と慰めの言葉をかける。
「別に、夜遅くに出歩くくらいはそんなに悪いことじゃないだろ。いまどき塾通いの小学生だって……」
そこでふと、時計を見た。
すでに零時を過ぎている。……一つの当てが外れたことを、ここで入澤は受け入れた。
可能性自体はあった。ハロウィンだからこの世界に自分たちが迷い込んでしまっているというのなら、日付が変わると同時にすべてが元に戻るという可能性が。
けれど実際にその段階になっても、世界は狂ったままで、自分たちはそこに置かれ続けている。……夜明けの時間になれば、今度こそ逃げ切ることができるのだろうか。今はそんな些細な希望すらも、疑いの目で見つめてしまう。
「初詣のときなんかはこのくらいの時間にうろついてるだろ。条例がどうとかはあるかもしれないけど、結局、本当に悪いのは人を殺そうとする方だ。……それでも親の言うこと聞いときゃよかったって言うなら、明日からちゃんと聞けばいい。ここで最後ってわけじゃないんだから」
ずずっ、と勢いよく、洟を啜る音が聞こえてくる。
「あ゛い」
幼い声と喋り方に、少しだけ笑いそうになる。けれど流石にこの場面で笑われるのは気分が良くないだろうと思って、顔を逸らして窓の方を見ながら、小さく頷くだけに留めた。
「あの、」
今度の声も、詩緒からだった。
「お姉ちゃんって、どんな人だったんですか?」
少なからず、入澤は驚いた。
「どんな人、って……」
「その、お姉ちゃんの話って、うちだとちょっと……なんていうか。ごめんなさい。その、友達だったら嫌に思うかもしれないんですけど、タブーになってるっていうか。お母さん、それでだいぶ参っちゃってた時期もあって」
そうか、と相槌を打つ。
それでもそうなってしまったのか、と心の中で思う。
あの事件以来、谷花の家族は町を去っていった。辛い記憶から逃れるように、姿を消してしまった。だというなら、その妹……当時は小学生になるかならないかの年だろうか、彼女が姉の話を知らないというのは、自然なことのように思える。
入澤にとっては、途方もなく耐えがたいことではあるけれど。
「なんて言ったらいいかな……」
言い淀みながら、それでも入澤は言葉を紡ぎ出す。
「ありきたりな言い方だけど、優しくて、明るいやつだったよ。一緒にいて、すごく楽しかった」
「……あの、また変なこと、訊いちゃうんですけど」
いいさ、と頷いて応える。どうせこの状況が、丸ごと変なんだ。
「お姉ちゃんこそ、霊能力者だったんじゃないですか?」
「なんでそう思う?」
「だって……私のこと、助けてくれて……あ! もちろん、その、入澤さんがいなかったら、全然あれなんですけど」
「いいよ、別に。谷花……由有がいなかったら、実際、俺もこんなところにはいなかっただろうし」
「だからなんです。幽霊になってまでお姉ちゃんが守ってくれるのはなんでなのかなって。あの殺人鬼って、『パンプキン』って呼ばれてるやつですよね。お姉ちゃん、なんでそんなのから私を守れるのかなって。だって……」
お姉ちゃんと『パンプキン』には、何の関係もないはずなのに。
眉を顰めたのは、その言葉のためではなかった。
「……今、何か聞こえなかったか?」
「え?」
まさか、と入澤は思う。
入念に、何度もルートを変更してきたはずだ。普通に考えて、この場所がわかるはずがない。
それなのに、一度聞こえたはずの音は、段々とその確からしさを増しているように思える。
車のエンジンの音。タイヤの音。
自分たち以外の、車の。




