5-2 初恋
振り向くと、少女が立っていた。
海風に長い髪を靡かせて、片目に小さなデジタルカメラを構えて。
その時点では、入澤は彼女の名前を知らなかった。この場所に引っ越してきてまだ数ヶ月。クラスも被っていない女子生徒の顔と名前を一致させるには、まだ期間が短すぎた。
けれどとりあえず、同級生だということは覚えていたから、必要以上には邪険にしなかった。
「何、いま。撮ったの?」
「見る?」
警戒心も何もなく、彼女は気安く近寄ってくる。一つも日焼けしていない真っ白な手でカメラを操作して、ほら、と言って見せつけてくる。
海の方を向いて、妙に遠い目をした少年の姿が映っている。
嫌な気持ちになった。
「うわ……恥っず……」
「えー、よく撮れてるのに」
「いや、まあ……」
実際、上手い写真だった。綺麗な構図で、夏の空気をそのままに寂しさを残している。視線の定まらない印象が、海の果てしなさを物語っているようにも見える。
けれど、嫌だった。
なんだか、自分の心を見透かされたような気がしたから。
「俺、写真嫌いなんだよね」
「え」
びっくりしたように、彼女は目を丸めた。たったそれだけのことで、簡単に入澤は線を引いてしまう。感情豊か。それを隠しもしない。それが愛嬌に見える。……自分とは違うタイプ。無関係の人間。
だから、気楽に話せたのかもしれないけれど。
「なんでなんで? あ、魂取られるとか信じてるタイプ?」
「大正時代かよ。そうじゃなくて、なんつーか……」
まさか、自分の本当の心が映し出されるような気持ちになってしまうんですとも言えなくて、
「なんつーか?」
「なんかこう……切り離されるっていうか……」
迷った末に、それよりももっと、自分の心の深いところから言葉を引き出してしまった。
今までずっと、ぼんやり自分が写真に対して抱いていた感情が、そのとき言語化されてしまった。
切り離される。
それが、一番の問題だった。
写真を撮られたとき、それは切り離される。世界から、あるいは自分から。それが過去に存在していたという証拠は、今の世界がどうであるかということとは無関係に存在する。そしてそれは同時に、今の自分と無関係の存在であるということも示している。
写真は、何かを取り残していくことの証のように思えた。
そしてそれが……たった一人、自分自身に対してすら例外ではないということの、証明になる。
自分はすべてに取り残されていく。いつか訪れる、未来の自分にすら……。
けれどまさか、初対面の相手に対して、そんな自分の信念めいたことを打ち明ける気になるわけもない。だから、「なんか嫌なんだよ」とだけ、もう一度言う。
「そっか、ごめんね」
それだけ言って、律儀な性格なのだろう。彼女は画面を操作して、その写真を消そうとした。
その手を掴んで、入澤は止めた。
え、と驚くのに、決まり悪いまま、ぼそぼそと言い訳をする。
「いや、撮ったもんはいいよ。消される方が、なんか据わりが悪いっつーか……」
きょとん、ととぼけた顔をして。
言われてることわかってんのかな、と入澤が不安になっていたのと同じ時間分、きっと彼女は、その言葉の奥にある意味を考えていた。
「もしかして、写真を見ると寂しくなっちゃう人?」
思わぬ間合いの詰め方に、今度はぎょっとするのは入澤の番だった。それを当たりのサインだと受け取ったのか、彼女は続けた。
「なんかちょっとそれ、私もわかるよ」
嘘吐けよ、と入澤は思った。だって、そんな能天気みたいな顔しておいて。
「写真、お母さんも好きなんだけどさ。昔に撮ったアルバムとか見ると、なんかちょっと悲しくなるんだよね。この頃は生まれてないんだよなあ、私、とか。この頃はいつかこんな風に暮らしてるなんてこと思ってないんだろうなとか。この頃に生きてた風景って、もう戻ってこないんだろうなとか。そういうこと考えて……。たぶんね、距離の話なんだよ」
「……距離?」
「そう。友達とかと遠く離れたら、なんか寂しくなるでしょ。時間も、段々遠くに離れていくから。写真って、ただそうしてるだけで段々離れていって、どんどん寂しくなるものなんだよ。思い出って、そういうものなんだもん」
このときが初めてだった、と入澤は覚えている。
自分以外に、何か大きな……生まれてから死ぬまでを貫くような『何か』を、心の中に持っていそうな人間と出会ったのは、これが初めてだったと、覚えている。
あのね、と彼女は言った。
「最初はさ、泣いてるのかと思ったんだよね」
「……誰が?」
「入澤くんが」
向こうは、自分の名前を知っていた。
そんなことで嬉しくなるのも、生まれて初めてのことだったと思う。
「なんか、すごく寂しそうだったから」
「そう思うなら撮るなよ」
「ごめんごめん」
あはは、と彼女は笑って、
「でも私は、寂しいものほど撮りたくなるから……。確かに、写真って時々寂しくなっちゃうけどさ。でもそれって、写真そのものが寂しいものだってわけじゃないんだよ。本当はその奥にあるものが遠ざかっていくことに寂しさがあって、写真はね、むしろその逆。思い出を、一番綺麗なままに留めるためのもの」
遠ざかっていくものを、繋ぎ止めるためのもの。
そう、彼女は言った。
そのときの気持ちを――彼女の言葉を聞いたときに芽生えた感情を、何と名付ければいいのか、入澤は十年経った今でも、よくわからずにいる。だから確かなことは、そのときに自分が起こした行動、たった一つ。
本当に、涙が流れた。
「あれ――」
急に頬が冷たくなったことに驚いて頬を拭う。何が起こったのか、わからなかった。
「ご、ごめん!」
慌てたのは、かえって彼女の方。ポケットからハンカチを取り出して、目元に当てて、
「大丈夫? なんかごめんね。えっと……ごめんね?」
「謝る理由、思いついてないじゃん」
「いや、だって! ……ごめん、なんで泣いてるの? 私のせい?」
「うん、たぶん」
「じゃあ私が悪いじゃん! ごめんって……たぶん?」
取り残されていくものへの、愛のこと。
ひょっとすると、と入澤は思う。
自分は、それがこの世界にあることを知って、泣いたのか。
写真部という言葉は、その涙が引いてから、彼女の口から洩れ出てきた。
「入らない?」
「あんの? そんなの」
「ありますよ! ……三年生いなくなっちゃうと、私一人になっちゃうんだけど」
「じゃあもうないようなもんじゃん」
「あるって!」
ムキになるのに笑って返したときには、もう自分のこれからのことを、入澤はわかっていた。きっと自分は写真部に入る。毎日楽しく活動して、充実した日々を送って。
そしてこの、まだ名前も知らない女の子のことを、好きになる。
いいよ、と答えるよりも先に、こんな言葉が衝いて出た。
「俺にも一枚、撮らせてよ」
「え、自撮り?」
「なんでだよ」
落とさないでね、と言って彼女は、そのデジカメを手渡してくれた。確かにこの砂浜で落としたら大変そうだ、とストラップを手首に嵌めながら、入澤は言った。
「んじゃ、そっち立って」
「え?」
「なんだよ」
彼女は自分を自分で指差して、
「撮るの、私?」
「そうだけど」
「海じゃなくて?」
「お前だって俺のこと勝手に撮っただろ」
まあ確かにそうだけど……と言って渋々言われた通りの場所に、彼女が立つ。
シャッターを押した。
「わ、ちょっとちょっとちょっと!」
「何」
「『撮るよー』とか言ってよ! 早すぎ、早すぎ」
そっちなんか無言だったろ、と呆れながら入澤は今撮ったそれを確認する。
まぬけ面。
「よく撮れてるけど」
「いや、ないないない。私いま絶対まぬけな顔してたでしょ」
「そんなことないって」
「顔が笑ってるんだけど」
もう、と怒ったような素振りで、
「先輩がコツを教えてあげよう。三つ数えるんだよ」
「……誰でもやってると思うけどな、そんなの」
そして、入澤はこうも思う。むしろ数を数えたりしないで瞬間で撮るのがプロらしい技なんじゃないのか。
けれど彼女は、違う違うとわざとらしく肩を竦めて、
「撮ろうとした瞬間なんていうのは、本当はもう撮れない瞬間なんだよ。『あっ、いいな』って思った瞬間に指を動かせるわけじゃないんだから。それを見たときには、もう過去のことになっちゃってるの」
だからね、と彼女は言う。
「いいな、と思ったところから、三秒だけ待つんだよ。その間に、もっといい形に変わってくれるから。これ、私が見つけた、秘密のやり方」
「ふーん……」
「人も景色も、準備できる時間があった方が絶対にいいんだよ。だって……誰だって、何だって、一番綺麗な時を残してほしいって思うんだから。ほら、やり直してよ。待ってるからさ」
入澤が彼女の言う『秘密のやり方』を疑ったのは、長い人生の中で、たった一分にも満たない。
だって、
「んじゃ、それでやってみるか」
カメラをもう一度構えて、彼女に向けて。
三、二、一、と数えて、シャッターを切れば。
その瞬間は――――
「どう? 上手く撮れたでしょ」
「ああ、うん……」
「もー。絶対さっきのよりはいいからね」
彼女が砂浜を蹴って、駆け寄ってくる。一枚目の写真に文句をつけて、二枚目の写真を嬉しそうに笑って褒める。今までで一番写真写りいいかも、才能あるよ、なんて煽ててくる。
まんざらでもない気持ちで、それを聞いていたのは。
確かに世界で一番、綺麗な写真だと思ったから。
それから入澤は、写真部に入部した。彼女に急かされる形で、夏休み明けにすぐさま入部届を書かされた。部長記入欄の場所にある『谷花由有』の名前を見て、初めて彼女の名前を知って、二度と忘れないだろうと予感したりもした。
毎日を彼女と過ごしていくうちに、少しずつ、寂しさは薄れていった。
取り残されているとも、思わなくなった。
だから中学三年の夏休み。祭りの中に谷花と、その幼馴染の男子が並んで歩いているのを見つけたときも。
近寄って話しかけて、「付き合うことになった」と幸せそうに打ち明けられたときも。
もう、取り残されたとも、無関係だとも、あるいは悲しいとも寂しいとも、思わずに。
ただ笑って、心の底から祝福して、いつも持ち歩くようになったカメラを取り出して「ツーショット、撮ってやるよ」なんて言って。
教えられたとおりに、シャッターを切ることができた。
いいな、と思った瞬間から、三秒後。
三。二。一。
ぱしゃり。




