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5-1 成長記録


 

 入澤は、自分の心に自我が芽生えた瞬間というものを、全く明確に覚えている。

 夏の日だった。それも土曜日で、小学の二年生だった。誰もいない家の中で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。晴れの日で、信じられないほど空は青く、真っ白なカーテンを透かしてリビングの中に日が差し込んでいた。床の上に座って、それでそのとき、突然に気が付いた。

 世界は自分を取り残したまま、どこかへ進んでいくのだと。

 それが彼の中に最初に芽生えた自我で、大きな信念だった。

 今になって……二十五歳になった今になって思い返せば、それが心の大きな部分を占めるようにだけの環境は、十分に整っていたのだと思う。

 彼が幼いころにはすでに、両親は互いに互いを嫌い合っていた。そしてそうした家庭の中によくあることの一つとして、二人の意見は常に対立する。ほんの些細なことでも怒鳴り合いの喧嘩になることは珍しくなく、入澤はやがて自身に仲介者としての役割を見出した。子どもらしい無邪気さと子どもらしからぬ理性は小さな彼の身体の中で何の違和感もなく同居する。家庭は常に方向を定めない暴風に内から外から晒され続け、彼はその舵を取り続ける小さな……そして誰からも気付かれることのない船頭だった。自分自身ですら、自分がそうであったと気が付くのに長い時間をかけた。

 両親二人にとって、入澤は「同居者の二人の中で、まだ許してやってもいい方」として存在していた。そしてそれは、大切にされることを意味しない。両親の感情の向く先は常に互いであり、入澤は単なる環境の一つでしかなかった。彼にとって、両親が単なる環境の一つでしかなかったのと同じように。彼らは互いのそれを傷つけてやろうという燃え上がる敵意の中で、前提として互いに人格と尊厳があることを認めていたが、おそらく最後まで、子である入澤にそんなものが備わっているとは夢にも思わなかったように思われた。

 すべての物事は、自分とは無関係の場所で定まっていく。

 自分はどこかに取り残される、この世界と切り離された存在でしかない。

 そのことにはっきりと気付いたその夏の日の昼が、彼にとっての自我の芽生えだった。

 家庭の中で作られた認識と自己像は、外の世界に置いても存分に発揮される。小学校でも彼は、同じような振る舞いを続けた。つまり、無関係な仲介者。

 グループに所属することはなく、ただ周縁部に存在しているだけの他者として彼は存在した。友人がいなかったわけではないが、深い絆を結んだことはない。教室内に敵意と悪意が満ち始めれば、それがどうにか爆発せずに済むように割って入る。その綱渡りを行うために必要とされる要素は、家庭内では無邪気さや純朴さ、あるいは無人格の装いだったが、同年代だけが集まる場所ではそうもいかない。勉強とスポーツ、それから話しやすさ。その三つの分野において成果を出した。教員の言うことは適度に聞き、同時に適度に馬鹿にした。それが集団の中で無用な攻撃を受けないための方法だということがわかっていたから。

 結果として出来上がった人間は、やや奇妙なものだったのかもしれない。変な奴、と言われたことも一度や二度ではない。が、それが悪い意味で言われていないというだけで、仕事は達成されていた。塾に通って中学受験のための勉強に打ち込む、あるいは少年野球に所属して白球を追いかける、同年代の子どもたちがそうした仕事を行いながら日々の生活を送るのと同じように、彼も彼両親との関係から自身の仕事を見出し、成し遂げていた。

 けれど、調整者であるというのは、管理者であるということを意味しないのである。

 両親の離婚が決まった。発端は父が家に帰らなくなってからで、二人は外の喫茶店で何度も入念な打ち合わせと敵意の交換を行い、とうとうそれを決めた。大抵の場合その喫茶店に二人が集まるのは夜のことで、入澤はただ家の中でぼんやりとテレビを見るだけで、その時間を無為に過ごした。自分は世界から取り残され、無関係の場所で物事は進んでいく。その信念はこの出来事を切っ掛けにどんどん形を確かなものへと変えてく。出席簿の名字に二重の取り消し線が引かれ、名前の書かれたマグネットにシールを重ね張りして、かつての名字がすべて「入澤」に変わった頃、同級生の一人からこう訊かれた。

「お前んち、なんで離婚したの?」

「知らない」

 そのとき咄嗟に出た答えの言葉は、思いのほか胸を軽くした。

 知らない。何もかもが自分からは切り離されている。ただそれだけのことだった。

 母の失踪の際も、だから大して、彼の心は揺れ動かなかった。誰から何を訊かれても「知りません」で通した。冷たい子どもだ、と言う人間もいたし、一方で子どものことを放っておいてなんて自分勝手な、と母に憤る人間もいた。けれどすべてのことが、入澤には当たり前のことにしか思えなかった。自分とは無関係の場所で母は関係を作り、あるいは己の中の憂鬱と向き合い、違う場所へと向かった。ただそれだけの、どこにでもある出来事だと感じた。

 母方の祖父母の家に預けられることになった。

 そしてもちろん、ここでも彼は余所者で、無関係で、取り残されていた。祖父母はかつて母と絶縁していただとか、背景を耳に挟んだこともある。彼らはすでに人生に対する情熱をなくし、ただ日の進むがままに任せ、教育や成長といった変化を伴う事項からは距離を置こうとしていた。だから入澤も、そのとおりの行動を続けた。それがちょうど中学校に上がる前後の出来事だった。

 新しい学校でも人間関係は上手くいった。部活はやらなかった。海のある町で、ただ無関係な教室と住居の間を往復するだけの日々。夏休みになれば当然のように何の予定もなかった。

 自分はそれで構わなかったが、時々、家に長く居続けることで祖父母の感情がささくれ立つことがある。それはそうだ、とも入澤は思っていた。部外者がずっと傍にいては、気の休まるものも休まらない。だから長期休暇の間はよく図書館に出かけた。大して苦労もしていない宿題に過剰な時間をかけた。あるいは学校のジャージに着替えてジョギングをしたり。時々すれ違う運動部に勧誘を受けて、やんわりと断ったり。そんな日々を続けていた。

 海に辿り着いたのは、そのついでだった。

 砂浜があり、桟橋がある。ここに来るまでは学校行事以外で旅行の一つもしたことがなかったから、たったそれだけのことが、妙に新鮮なことに思えた。夏の日はいつまでも伸びているから、図書館が閉まってからの時間でも、まだ空は青く、日は白かった。

 佇んで、こんなことを思っていた。

 一生こうやって、俺は一人で過ごしていくのか。

 ぱしゃり、とシャッターの音が響いたのは、その瞬間のこと。




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