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4-3 初対面




 それほど大きなビルには見えなかった。

 けれど一歩踏み入った瞬間に、ここかもしれないという思いを確かに入澤は抱く。

 血臭。

 漂っている。いい加減鼻が曲がって使い物にならなくなりそうだが、それでもどこかから、微かに臭ってくるのを嗅ぎ取れる。上の階に、おそらくその臭いの源はある。

 長く、細く、入澤は息を吐いた。

 この中に、『パンプキン』がいる可能性は著しく高い。

 緊張しないわけがない。首吊り男の言っていたことを信じるなら、『パンプキン』はこの世界ではほとんど無敵だ。命のやり取りなんて生易しいものではない。一方的にこちらがリスクを背負うアクションだ。

 だから、覚悟を決めた。

 まずはフロアの中を懐中電灯で照らした。待ち伏せをされていたらひとたまりもない。『首吊り』に不意を打たれたときの二の舞になってしまう。

 特段、何の変哲もない場所に見えた。ただの案内用のフロア。建物の外観から見ると奥にもスペースがありそうに思えるが、そこへの入り口は見当たらない。裏口からだけ入れるようなスペースがあるのかもしれない。とりあえず今はいいだろう、と入澤はそれを無視する。

 エレベーターの近くに案内板がかかっている。全部で七階らしい。が、その案内板の内容はやはり文字が変形していて読み取れない。

 それでも表示パネルのデザインによって多少わかることもあった。焼き肉屋とカメラ屋。この二つは間違いなく入っている。

 当然エレベーターは動かないだろうし、たとえ動いたとしてもわざわざこちらの動きを教えるような迂闊な行動をするつもりはない。近くの細い階段を上った。人二人すれ違うのが精々だろうという急勾配。これだけですでにうんざりするような気持ちになる。咄嗟に撤退するとき、間違いなくこの環境はこちらに不利に働く。転がり落ちて頭を打っただけでも人は死ぬのだ。

 二階に上る。廊下を照らした。誰の姿もない。

 ホッとする反面、空振りかと拍子抜けする気持ちもある。段ボールがいくつか端の方に積まれていた。カチ、と入澤は懐中電灯の電源を切る。

 耳を澄ました。

 ……声も音も、聞こえてこない。もう一度電灯のスイッチを点けて、歩き出す。近くにあった扉を開いて、慎重に中を覗き込む。

 単なるオフィスに見えた。当然、人の気配はない。血の臭いも、それほど強くは感じない。外れか、と扉を閉じる。

 三階へ。四階へ。五階へ。六階へ……

「う、う…………」

 ここだ、と身を引き締めた。

 血の臭いが酷い。そして同時に、声も聞こえてくる。人というよりも動物のそれに近いと感じるのは、おそらく正しく発声できないように何らかの口枷をつけられているのだろう。

 いる。

 谷花の妹が、おそらく、ここに。

 そして同時に身震いもする。『パンプキン』もここにいる可能性が高い。電灯の使い方に迷う。このまま照らしていくべきか。それとも消灯することで、こちらの気配を隠すべきか。

 考えた末に、照らしたまま進むことに決めた。こちらの存在を悟らせないことで発生させられるメリットよりも、地形を把握できないがために被るデメリットの方が遥かに大きい。そう考えた。

 泣き声のする方に歩いていく。足音を極力殺して歩いていく。

 扉があった。

 この奥から、声は聞こえてきている。

 身を屈めて、開いた。

 パッ、と一気に室内に明かりを向ける。人影はない。所狭しと商品が置かれている、ごく普通のカメラ屋の店内だった。

 その光景にそぐわないのは、漂う血の臭い。今はもう、噎せ返るほどに濃くなっている。

 最悪の想像が頭の中に現れている。すでに谷花の妹には深刻な傷がつけられていて、もうほとんど生き延びる見込みがないんじゃないか……。泣き声は室内の中の、さらに区切られたスペースから聞こえてきている。以前に入澤も、就職活動の際にカメラ屋に証明写真を撮りに来たことがあるからわかる。撮影スペースだ。

 扉の前。

 過呼吸を起こしそうになる。鼻から口にかけて手を当ててそれを堪える。中にいるかもしれない。

 十年前のあの日に叶わなかった、対決のときかもしれない。

 手をかけて。


 開いた。


「んんーーー!!!」

 中には、三人の人間がいた。……すでに死体となった人間を含めて、数えるとするなら。

 三つの椅子が並んでいる。横一列に、カメラの方へ向いて。それに座って、生きているのが一人、死んでいるのが二人。その他に人影はなく、生きている残りの一人も、見るからに椅子に縛り付けられている。

『パンプキン』らしき人物は、いない。

 凄まじい幸運だ。

「んん! んんんん!!!」

「落ち着け、俺は殺人鬼じゃない」

 できるだけ落ち着いた声で、生き残った最後の一人に入澤は声をかける。

 まだ精々が十代だろうという少女だった。高校生くらいか。目隠しと口枷。あからさまな監禁状態。聴覚以外に頼れる感覚器官がなかったのだろう。扉の開いた音に反応して、あからさまに暴れている。

 だからはっきりと、入澤は言った。

「助けに来たんだ。君のことを、殺人鬼から。……少し静かにしてくれ。奴に気付かれるかもしれない」

 できるだけ、高圧的にならないように。

 この状況でパニックを起こさないわけがないのだ。だからまずは、こちらが信頼を勝ち取れるように。

 その計算は、とりあえずのところは叶ったらしい。

 少女は大人しくなる。椅子に縛り付けられたまま、不安げに入澤の方へと顔を向けてくれる。

 その顔を確かめて――入澤は安心する。それはベランダで見た、谷花の面影の残る少女の顔だった。

 間違いなく、谷花の妹だ。

 間に合った。

「ここから逃げるぞ。……その前に、それを外さなくちゃな」

 ネックとなる部分は、それだった。

 彼女はいま、椅子に雁字搦めに縛り付けられている。鍵付きの拘束具だ。このままでは逃げようがない。それに欲を言うなら彼女の目と口を覆う枷。これも外したい。

 後ろに回って確かめてみる。びくり、と妹が震えるのに「悪いな、ちょっと見せてくれ」と短く言って、後頭部に回されたバンドの部分を見る。これもまた、鍵付き。

 縛るために使われている素材は、縄などではなく、すべてが革でできている。断ってから少し手で触れただけでも、かなりの強度だということがわかる。ナイフで切れなくもないように思うが、勢いづけば身体に傷がつく可能性もあるし、何より複雑な作りになっているから、一箇所を切断した程度ではどうにもなりそうにない。時間がかかる。そのうえ、顔の部分などはどうやっても無理だ。危険すぎる。

「鍵がどこにあるか、わかるか?」

「んー、」

 大きく妹は、首を振った。

 舌打ちしたくなる気持ちを抑える。半ば予想はしていた。わざわざ拘束した相手に鍵の場所を教えるなんて、どんな馬鹿でもやらない。

「この部屋の中にあると助かるんだが……」

 懐中電灯で室内をもう一度照らす。う、と呻き声を上げたくなったのは、妹の横に座る、二つの死体を見たからだった。

 どちらも、首から上がない。かなりの出血の跡が見て取れる。空気に触れてほとんど真っ黒に近づいたそれは、腐った油の塊のように見えた。ひょっとすると、生きたまま切断されたのだろうか……。考えるだけでむかむかと嫌悪感が湧いてくる。

 そこで、ふと思った。

 ひょっとしてこの死体たちも、例の首吊り男のように、水や食料を与えることに寄って、理性を取り戻すことがあるのだろうか。

 幸い、同じ事態に陥ったときのために水は持ってきている。確かめたくなるが、今はそんな場合じゃない、ということもわかる。自分が今やるべきことは、『パンプキン』を殺害することではない。谷花の妹を助け出すことだ。

 他に室内には……鏡と、カメラ。それから何に使っていたのだろう、胸のあたりまでの高さを持つ台が置いてある。

 そしてその上には、夥しい血の跡がついている。

 何かの道具置きにしていたのか。顔を近付けて、その血痕の形状を確かめてみる。大振りの鉈、だろうか。残念ながらそれ以外には、ここには何も置いていない。

 一番嫌なパターンだ、と入澤は思う。こちらが一番やってほしくない、けれど殺人鬼側からすれば全く当然の行動を取っているらしい。

 大事なものは、肌身離さず持っておく。

 この子の鍵は、おそらく『パンプキン』が持っている。

 選択肢は二つ。

 この場でどうにかナイフを使って彼女の拘束を外すか。

『パンプキン』を襲撃して、鍵を奪うか。

 どちらも可能性自体はある案だと思う。時間さえあれば無理やり拘束を外すことはできそうだし、一方で『首吊り』相手の自分の立ち回りを思い返せば、一時的に行動不能にするくらいのことはできそうにも思う。

 前者であれば気付かれずにここから逃げ出せるかもしれない。

 後者であれば不意打ちで有利に事を進められるかもしれない。

 どちらを取るかを考えているうちに、どちらのメリットも簡単に潰してしまう出来事が起こった。

 足音が、小さく聞こえてきた。



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