4-1 死体とお喋り
トリックオアトリート。
この凄惨な日にまるで似合わない、ハロウィンの明るい決まり文句。
それが、この地下駐車場から、響いてきた。
慌てて入澤は懐中電灯を点ける。声の主も気になるが、まずは目の前の男――ついさっきまで自分を襲ってきていた危険な男がどうなったか、確かめるのが先だ。
「うっ――――」
死んでいる。
明確に。ついさっきまで顔を引き裂かれてもまだ再生していた男を相手に、そう確信できるほど、はっきりと。
男の身体は、大部分が溶けていた。酸を浴びせられたかのように、頭から胸にかけて、すべての皮膚は破れ、肉は泡を噴き、未だに溶けていく最中のように見える。
さっきの水音は、酸だったのか?
けれど、一体誰が――、
「その男は、『首吊り』と呼ばれる殺人鬼だった」
懐中電灯を、今度は声のした方へ向ける。
「な、」
「驚くのも無理はない。こんな恰好ではな」
首吊り死体だった。
今まさに喋っていたのは、ついさっきまで何度も、舌足らずな言葉を繰り返していた首吊り死体だった。
ほとんど、ついさっき見たときと見た目は変わらない。けれどたった一点……明確に、違う部位がある。
瞳。
知性の光が、宿っている。
「感謝するよ。こう見えて生前は刑事でな。唯一、この殺人鬼を捕えられなかったこと――逆に殺されたことが、心残りだったんだ」
「なんなんだ、あんた、一体」
動揺のまま、入澤は訊ねる。
この異常な世界で、初めて出会った対話可能な存在。
それが、首吊り死体?
「その様子だと何も知らないらしいな。いいだろう、答えられる限り、あんたの質問に答えてやる。……どうも、あんまり長くは保たなそうだがな」
疑問、疑念、不信。
三つの感情の内、一番最初のものが勝った。
「ここは、一体どこなんだ」
「ここは死と生の混じり合う世界――過去と現在と未来が混じり合う世界とでも言えばいいか。あんた、ハロウィンの成り立ちを知ってるか?」
「いや……」
「聖人の日の前夜。それがハロウィンだ。しかしそのハロウィンにも前身がある。ケルトの祭り。夏の終わりと冬の始まりに伴うサウィンという祭りだ」
一体何の話だ。怪訝な顔で、けれど口を挟むこともなく、入澤は話を聞き続ける。
「冬というのは死の季節だ。反対に夏は生。十月三十一日は、ケルトの暦では一年の終わりに当たる。大晦日、この国で言う十二月三十一日だ。この日、夏と冬の境目、死と生は混じり合う。祖先の霊が家族を訪ねる。盆と正月が一緒に来るってわけだ」
「一体何の話をしてるんだ?」
「ピンと来ないならそれでもいい。死者と生者がこの日には混じり合う。生の世界と死の世界が混じり合う。そしてあんたは死の世界の側の最も深いところに迷い込んでしまった。そう思ってくれれば構わない。ハロウィンの夜にモンスターが出てきたのと別、というわけさ」
つまり、と無理矢理に入澤は頭を整理する。
「俺は地獄に迷い込んだってことか」
「おおむねその認識でいい。そしてここはその死の世界の側でも最も険しい場所……鬼の世界だ」
「鬼?」
「わかるだろ。殺人鬼だよ」
首吊り男の視線に釣られて、入澤は視線を落とす。
もうほとんど原形のない、自分を襲ってきた男の姿。
「『首吊り』。全国各地で一月に一人のペースの殺人を二年続けた絞殺魔だ。あんたもニュースで見たことがあるだろう。現代日本に溢れるシリアルキラーの一人だ」
「鬼ってことは、人間じゃないのか」
「元は人間だった。が、今はかなり踏み外してる」
このあたり俺も感覚的な理解だが、と首吊り男は言う。
「今日、この日だ。生と死が混じり合うこの日。この日だけは、こいつら殺人鬼たち――死と殺意に憑りつかれた異常者どもは、本物の鬼になる。普段は普通に暮らしているようだが、この日だけはタガが外れる。不死身の存在だ。この世界に人間を連れこんでは、獲物狩りをする。……俺も、こいつを追っていた。もう少しで尻尾を掴めるという段階になって、折悪くそれが去年のハロウィンだ。返り討ちにあって、このとおり首吊り死体に成り果てた」
「不死身の存在、って。今はどう見ても……」
「『ネラの異界行』という話を知ってるか?」
「いや」
「これもケルトの昔話だ。ネラという名の騎士が首吊り死体に水を飲ませる。するとその死体は水を吐き出して、近くにいた生者を殺してしまう。……何となく、できるような気がした。そう言うほかないな。ここからは俺の推測だが、おそらく鬼に殺された人間は、鬼を殺し返すことができる。それ以外で鬼を殺そうとしたら……それこそ、鬼同士が殺し合うくらいか」
どういう根拠でそう思うんだ。
そう、入澤は訊いた。
「お前から水を与えられたとき、自分の内側から死の……なんと言ったらいいか。力、そういうものが湧いてくるのを感じた。トリックオアトリート。その言葉が近いのかもしれない。もてなされれば相応の態度を示す。今みたいに、理性を取り戻してあんたと話をしたりな。そして反対であれば……悪霊としての姿を見せることもできる。ソウルケーキ……あんたみたいな生者に水や食べ物を与えられればその分、霊としての力が増して、鬼を殺すこともできる。そういう風に感じたというわけだ」
与えられた情報は、それほど多くない。
だが、一つ一つが重すぎる。
必死になって入澤はそれを噛み砕き、受け入れる努力をした。おそらく今後の自分の行動の成否を決めるのは、ここで得た情報だ。一つ残らず消化しなければならない。眉間に指を当てて、必死で考えこんで、
あぁあああああ、と首吊り男の喉から、うめき声が聞こえた。
「ま、ずいな。もう、限界だ」
男の目から光が消え始めている。慌てて入澤は周囲をライトで照らした。まだ水の残りがあるはずだ。けれどそれを、男は止める。
「むだ、だ……。本当の、限界だ、よ」
「待ってくれ! まだ訊きたいことがある!」
叫びながら、さらに思考を巡らせた。時間がない。何を訊くべきだ? 殺人鬼の倒し方は分かった。行くべき場所も決まっている。他には何だ? 何の情報が足りていない? 何の情報が必要だ?
そうだ。
頼まれていること。
「妹を助けてくれって言われたんだ!」
入澤は叫ぶ。灯りに照らされた男の顔はすでに虚ろで、聞いているのだかいないのだかもわからない。それでも望みをかけて、訊かずにはいられない。
「けど、もうその妹の死体を見た! いきなり目の前に現れて、消えて……どうすればいい!? まだここから、どうにかする手段があるのか!?」
「ねら、の……」
男の声は掠れながら、まだ続いている。
入澤は顔を寄せた。一言一句、聞き逃さないように。
「みた、まぼろし……。みら、いの、き、おく……」
「未来の記憶? 幻って、じゃあまだ、彼女は死んでないって……」
最後に男は、こくりと頷いた。
そして、瞳から完全に光が消える。動かなくなる。うめき声しか上げなくなる。何を問いかけても、答えはしない。
未来の記憶。幻。
その二つの言葉を、入澤はもう一度繰り返した。
じゃあ、やっぱりあのベランダにあった死体は、幻だったのか。
未来の記憶ということは、これから谷花の妹は、そうなる危険があるというわけか。
……まだ、助ける余地はあるということなのか。
「づっ!」
そう考えたとき、胸に入れた写真が、一際熱く輝いた。
「合ってる、ってことか……?」
それ以上の答えはない。
だから入澤は目を瞑る。首吊り男の遺体に手を合わせて、三つ数える。
三、二、一。
瞼を開いて、男のポケットに手を突きいれる。ちゃり、と硬い感触。
鍵。
ボタンを押すと、RV車の錠がガチャリと開く音がした。




