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3-4 闇の中で叫ぶ



「は――?」

 息を呑む。確かに聞こえた。

 銃声。日本の中で生きている限り、ほとんど生で聞くことはないだろう音。けれどそれは確かに、店の中に響いた。そして入澤の近くにあった棚に弾が跳ね返ってチュン、と鋭い音を立てた。

 まだ男は生きていた。

 銃を持っている。

 そしてこちらに目掛けて、撃ってきている。

 なんなんだよ。

 咄嗟に懐中電灯の明かりを消した。光源があれば自分の居場所が簡単にわかってしまう。一気に周囲の光度が下がって、ほとんど何も見えなくなる。それでも一度来た道だ。何とかなるはずだと信じて、入澤はさらに走っていく。極力足音も殺してはいるが、それにどのくらいの効果があるかはわからない。

 もう一度、銃声。

 今度は、さっきよりも離れたところに着弾した音がした。

 ブーツの底にガラスを踏む感触がある。ここだ。自分がついさっき入ってきたのは。身を屈めて自動ドアを抜ける。その足音が見つかったのかさらに銃声が響いて、けれどそれが着弾する頃にはすでに、入澤は廊下の角を折れている。さらに走って、もう一つの自動ドアも潜り抜けて、地下駐車場に出た。

 どうする?

 頭の中で、考えた。

 初めにもっと確認しておくべきだった。駐車場から地上に繋がる出口はいくつあるんだ? もしもたった一つしかなかった場合には、そこに逃げ込んでいっても追跡されてしまう可能性が高い。今は暗闇だから銃撃から逃れられているが、地上の月明かりの下ならどうだ。相手の射撃の力量は知らない。が、高く見積もっておくに越したことはないだろう。この駐車場に隠れてやり過ごした方がいいのか? しかし出入り口が複数あるなら、この場所を単に後にするだけでも十分な攪乱を望むことはできるはずで……嗚呼、もう時間がない!

 駐車場の中に隠れる道を、入澤は選んだ。でたらめに走った先。どこかの自動車の影。そして息を殺す。

 店の中から、男が出てくる足音。

 考えることは皆同じなのか、男の足音もまた、硬い。スニーカーではあるまいと思う。重い足音が、ゆっくりと、獲物を探すように駐車場の中を歩き回る。入澤はほとんど呼吸を止めそうになりながら、けれど細く、長く、静かに、息を潜めている。

「ビズッ! ビズッビズッ!!」

 銃声が響いた。

 けれどそれは、入澤に向けられたものではない。さっきの首吊り死体だ。急に叫び出したそれに、男が反射的に銃撃を行ったらしい。

 それを入澤は、奇妙に思った。あの死体と、今襲ってきているこの男。彼らは仲間ではないのか? ……わからない。情報が足らない。てっきりこの悪夢のような世界は一連の現象なのかと思っていたが、それぞれに種類があるのか? あるいは、個の意思というものが……。

 男の足音が、段々とその首吊り死体に近付いていく。殴打音が一度、二度、三度。そのたび死体の声は大きくなり、やがて男の足音も、諦めたように遠ざかっていく。

 けれど、遠ざかったというのは、死体から見た話であって、入澤から見たそれは接近だった。

 まずい。身を強張らせる。バレるようなことがあるか? この広い駐車場の中で、暗闇で、息を潜めて。どこかで諦めるはずだ、と入澤は思う。ずっとここにいるとも限らないのだから。さっきの間に地上へと駆け抜けていった可能性だってあるのだからそうそう悠長には、

 そこで、気付いた。

 自分の失敗に。

 逃げるべきだったのだ。地上へ。男は地上まで追う気はないのだ。理由こそ知らないが、絶対にそうに決まっている。

 だって男は、店から出てきたとき、走りすらしていなかった。

 それは追跡を前提とした捜索者なら、絶対にしない動きだ。

 バレているのか? 居場所が。一体どうやって。いや待て。それはただの被害妄想だ。だって、向こうがそれを把握しているなら、もっと一直線でこっちまでやってくるはずだ。いたぶって楽しんでいるだけなんじゃないか? 僅かな希望をチラつかせて、こちらの恐怖を煽っているんじゃないか? 理性的に考えろ。向こうは自分がここにいることを把握してはいないはずだ。ただ決め打ちしているだけ。ここから出ているなら諦めて、ここにいるなら探し出す。ただそのつもりでいるだけ。

 つまりは、遠からず見つかる。

 男の足音が止まった。

 さり、と何かが擦れる音がする。少し考えて、入澤にはその音の正体がわかった。

 ガラスだ。

 細かなガラスの破片が、擦れる音。

 自動ドアを抜けるときにブーツの底に貼り付いたそれが、少しずつ零れ落ちて……今、男の目の前から、この場所にいる自分にまで続いている。

 一歩、男がこちらに近付いて。

 撃鉄を起こす音がする。

 走り出した。

「クソっ――!」

 銃声。一度限りではない。何度か立て続けに。チュンチュンとコンクリートを弾く音。今のは自分の身体に当たったのか? そんなことすら暗闇の中ではわからない。とにかく回り込むようにして入澤は走り、それを追うように銃声がついてくる。

 六発目の銃声の後、小さな静寂が訪れた。

 弾込めだ、と入澤は感じ取る。ここしかない。ここしかチャンスはない。逃げ出したところで背中を撃たれるだけだ。大丈夫、ついさっきは勝利した。格闘技の経験はある。体格差がどれほどの不利を引き起こすかをよく知っている。けれど、同時にもう一つ。

 武器があれば、その程度のことは誤差に収まることも、知っている。

 ナイフを抜いた。

 駆け抜けた。かちん、とリロードを終える音がする。その音を頼りに接近して、腕のあるだろう場所にナイフを突き刺した。

 手応えが、あった。

 がちゃ、と銃が床に落ちた音がする。二振り目は空を切った。男が遠ざかっている。どこへ? いや、それほど気配が遠ざかった感覚はない。

 暗闇の中で、睨み合っている。

 ふうっ、と一息に、入澤は息を吐いた。

 その呼吸はフェイント。視覚の機能しない場所では聴覚の占めるウエイトは途轍もなく高い。呼気を攻撃の随伴動作だと誤認した男が、前に飛び出てくる。風圧で入澤はそれを感じて、攻撃のチャンスというのは、相手が攻撃を始める瞬間、そして、終えた瞬間。

 飛び掛かってきたのをすかして、顔にナイフを突き立てた。

 身構えていた絶叫はない。死体と違って、この男は叫ばないらしい。

 だが、仕留めた。その感覚は間違いなくあった。ナイフは肉の奥深くに沈み込んで、骨ですらも半分近く切り進んだ。思わず眉を顰めるような感触。頭の中に毒虫を詰め込まれたような不快感。こんなことをすべきではない、と理性と倫理が訴える。けれど、必死だった。こうするしかなかった。

 そして、そこまでしてもまだ、男は止まらなかった。

「が――」

 顎の下に大きな右手が差し込まれた。次いで左手。両手で思い切り、男は首を絞めてくる。

 馬鹿な。手の内にまだ残るナイフを、回転させて抉る。感触はある。ぐちゅ、と嫌らしい音すらも鳴っている。人間であれば到底立っていられないような傷を負わせている。

 それななのに男は倒れず、首に恐ろしいまでの握力まで加えてきている。

「ビズッ! ビズッ! ビズッ!」

「あぁああああああああ!!!」

 渾身の力を込めて、ナイフを振り切った。

 それでようやく、男の手から力が抜け始めた。蹴り飛ばす。身体が倒れる音がする。そこでようやく、懐中電灯の明かりを点けた。

 顔の真ん中から左耳にかけて、ほとんど千切れたような傷がついている。頬から白い骨が覗いている。

 それでも男は、バタバタと手足を暴れさせて、立ち上がろうとしていた。

 死に際の虫の神経反応を思わせる動きだったが、しかし、そうではない。

 傷が、みるみる治りつつある。白い煙を立てて、熱した金属の棒で肉を癒着させるようにして、どんどん顔の傷が塞がりつつある。

 まさか、と入澤は口にする。

「不死身なのか……?」

 こんな奴の相手をしてはいられない。逃げ出そうとして、しかし足を掴まれる。その腕にもナイフを突き立てる。多少の傷はそもそもまるで効果がないのか、怯まない。もう一度顔にナイフを刺す。このままでは、と入澤は思う。いくらなんでもナイフの強度が持たない。ジリ貧だ。

「オォオオオオオオオオ……!!」

 首吊り死体が叫んでいる。目の前の男はそれでも襲い掛かろうとしている。入澤は男の指を一本一本切っている。なんだこれは、と心の中で叫んで、やがてそれは本当の叫びに変わる。

「なんなんだよッこいつは!」

「ビズぼっ! おごぜェええええッ!!」

 男が立ち上がった。

 指を切るのに専念しすぎた。顔の傷が回復し切って、男がもう一度動き出してしまった。首に手を差し込まれる。恐るべき怪力に入澤は後退を強いられ、自動車のボンネットの上に叩きつけられる。

「うあっ――!」

 ギリギリと絞めつけられる。もう一度ナイフを振ろうとして、その手を抑え込まれる。もう使えるのは左の手のペットボトルしかない。振る。殴る、殴る。体勢が悪い。十分な力が加えられない。自分が締め落される方が早い。そうなったら、その後の自分はいったいどうなる?

 死ぬ。

 恐怖が、脳を支配した。

 ペットボトルを振る。男の手が、入澤のナイフを持っている方の手を操ってそれを防ぐ。刃がペットボトルに穴を開ける。とろとろと表面を伝ってコンクリートに水は流れ、もうペットボトルに武器としての価値がなくなるのも時間の問題で、あるいはそれよりも先に、この薄れていく意識を手放す瞬間が訪れるだろうと伺い知れて。

 自棄になって、入澤は思った。

 そんなに叫ぶくらいなら、くれてやるよ。

「ぼごぜっ! オごゼっ!!」

 首吊り死体が、すぐ傍で叫んでいる。自分たちの真上? 何を期待していたのか、入澤は自分でもわからない。人間の取る選択の中に必然によるものと偶然によるものがあるとしたら、それは間違いなく後者に属する行動だった。

 胸の内で、写真に宿る火が、肌を焼き尽くすばかりに燃えている。

 入澤は、水の入ったペットボトルを、首吊り死体に向けて放り投げた。


「オァアアアアアアアアア!!!」


 大絶叫。

 耳を塞いでも貫いただろうという信じられないような音量が、地下駐車場一杯に広がる。それから、バケツの水を流すような、奇妙な音がした。

「――――は?」

 一体、何が。

 茫然としながら、入澤は絞めつけられていた身体を起こす。

 そう。さっきまで、男に絞めつけられて、身動きが取れずにいたはずの身体を、いとも簡単に、起こした。

 首にまだ絡みついたままの手は、掴めば簡単に外れてしまう。

 一体、何が。

 その答えは、暗闇の中から返ってくる。

「――――トリックオア、トリートだ」



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