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1-1 ハロウィン



 三、二、一。

 時計が二十一時を指したから、ノートパソコンの蓋を閉じて立ち上がった。

「お先、失礼しまーす」

「あ、何ヨ入澤クン。もう帰っちゃうの~ん?」

「帰りますよ。今日はそもそも俺、休みの日だったんですから」

 二〇二〇年、十月三十一日、土曜日。午後九時。小さな雑誌社のオフィスにいたのは、入澤(いりさわ)(しょう)と、その上司の副編集長の二人だけだった。がらんとした室内にはもうほとんど冬のものと言っていいほどの静けさが香る。副編集長の淹れるコーヒーの匂いが、異様に濃く漂っていた。

 大した用事があって出社したわけでもなかった。通勤用の定期を使ってあてどなく休日にぶらついていて、最終的に寄った場所がここだっただけ。来週の残業の種になりそうな仕事が溜まっていたのを思い出して、ついでに片付けてしまおうと思ったのが、ここにいる理由だった。

 入澤は、椅子に無造作に引っかけたままのジャケットを羽織る。その動作を見て集中が切れたのか、「あーあ」と副編集長は椅子の背凭れに身を投げ出した。大きく両手を頭の上に延ばして、んんん、と喉の奥で唸るような声を出す。

「お疲れですね」

「そうヨ、ほんと。つっかれちゃうわァ~。肩なんかバキバキよ。バキバキ」

 はあ、と手を下ろして、それからぼーっとした目で彼は天井のあたりを見つめて言う。

「入澤クン、このあとヒマ?」

「ヒマではないですけど」

「うっそ。休日に仕事なんか来ておいて?」

「夜に予定があるんです」

「やっらしィ~」

 セクハラですよそれ、と笑って、入澤は鞄を持ち上げる。椅子の上に引っかけるようにして持って、副編集長の方に向き直った。

「サウナ行こうヨ、サウナ」

「あれ、そんなにいいんですか?」

「もうおっさんのレジャーだよネ、あれは」

「二十五はおっさんですか?」

「いや~~~、そう言われると五十路間近のおっさんは立つ瀬がない!」ぺしゃん、といかにも加齢臭の染みた動作で、額を叩く。

 じゃあ、あんまり無理しないでくださいね。それだけ言い残して入澤が立ち去ろうとすると、「あ、ごめんちょっと真面目な話」と副編集長が立ち上がる。

「入澤クンって、通勤ルートに渋谷入ってたよね」

「……? はい、そうですね」

「帰りにさ、ちょっと渋ハロの写真撮ってきてくんない? 渋谷ハロウィン」

「え」

 嫌だなあ、という顔をすると「嫌だよねえ」と副編集長はそれに共感を示した。

「いや、オレが行こうと思ってたんだけどネ。次の誌面に一枚くらい入れとこうかなーって。んでも最近一週間くらい残業しすぎちゃってサ。行くタイミング逃しちゃってたのヨ。今日こそはちょーっと早めに切り上げていざ、と思ってたんだけど、そしたら入澤クンが来るわけじゃない。こりゃ頼むしかないなって。頼むよ、オジサンにああいう空気ちょっとつらいからさ」

「……まあ、いいですけど。どうせ乗り換えの駅ですし」

「さーんきゅ! 今日の仕事分、どっかで残業代につけちゃっていいかんね」

「ちなみに構図とかは」

「任せるよ。俺よりキミの方が写真上手いし。……おっと、そうだ」

「はい?」

 にやり、と彼は笑って言う。

「もちろんハロウィンを楽しんできちゃってもいいけど、本格的に始めちゃう前に写真だけは先に送ってちょーだいヨ、色男」

 露骨にからかった喋り方に、けれど入澤は「楽しみませんよ」と軽く肩を竦めて応える。


「ハロウィン嫌いなんです、俺」 




▼▼



 電車に乗ると、すでに随分ハロウィンの空気が漂っていた。

 車内には仮装の若者たち。アメコミのヒーローのコスプレ。浮かれたような大声で話すから、仮装をしていない人間にまでその空気が伝染している。普段だったら顔を顰めるようなその騒ぎを、多くがどこか、自然に受け入れていた。

 入澤はその空気の中で、ぼんやりと吊革を握りながら、窓の外を眺めていた。そして彼は思っている。

 いつまでも。

 いつまでもこの日のことは、と思っている。

 十月三十一日は彼にとって特別な日だった。十二年前から。そして十年前からは、さらにもっと。今でも忘れていないし、いつまでも忘れることはないだろうと思う。

 扉が開く。仮装の集団がざわざわと出ていくのを視界の端で捉えて、ハッと入澤は電光表示板を確認する。渋谷。降りなくては。

 ハロウィンの渋谷は思った以上に異界染みていた。とにかく人が多い。駅員が何事かを叫んでいる。思いのほか仮装の人間は多くはなかったけれど、途轍もない混雑には目が回りそうになる。トイレの周りには大きなバッグを持った数人がたむろしていて、血まみれのメイクでこちらを見ている様は、獲物を狙う本物の悪魔たちのようにすら見える。人の流れに流されるがままでいれば、そのままもっと人通りの多い方に持っていかれそうだった。

 這う這うの体で、入澤は人混みから抜け出した。待ち合いのスペースに使われているらしい窓辺。見下ろすと、ちょうど渋谷駅の出口が目に映るロケーション。さっきの混雑にさらに輪をかけたようなそれが、スクランブル交差点に広がっているのが見えた。

 ほとんど呆れるような気持ちで、入澤はそれを見つめていた。よくもまあ、と思う。よくもまあ、ここまで人の多い場所で耐えられる……どころか、楽しめる。救急車とパトカーの赤い灯りがやけに毒々しく目について、「押さないでください!」と誰かがマイクで何度も叫んでいる。どこに向かっているのだかもわからないが、あの行列に巻き込まれたら何十分かは動けまい。せっかく来たのだから、何枚か写真を撮って一番いいものを、と思っていたけれど、これではちょっと、気力が起きない。

 もうここで済ませてしまおうと思った、そのときだった。

「――――え?」

 いま、誰か。

 いた気がした。その混雑の中に、知っている顔が。

 カメラを起動してズームをかける。たったいま見つけたはずの顔がまだどこかにないかと、一つ一つ確認するつもりで、けれど距離があるからぼやけてはっきりとはわからない。

 驚いたのは一瞬だけだった。すぐに入澤は、正常な判断能力を取り戻す。

 いるわけがない。

 死んだ人間は、蘇らないのだから。

 ズームを解除する。一番綺麗に見える角度を探す。窓の反射があるから制限はかなりあるけれど、慣れたものだからそこまで問題はない。自分は今日も、どこかおかしくなっているらしい。だから、早く家に帰ろう。このまま外にいると、何をするかわからなくなってしまうから。

 写真を撮るとき、彼はいつも彼女の言葉を思い出す。


 いいな、と思ったところから、三秒だけ待つんだよ。

 その間に、もっといい形に変わってくれるから。


 だから、入澤は目を閉じる。

 そしてゆっくりと、心の中で、数を数える。

 三、二、一。

 ぱしゃり。



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