甘藍畑の風景
ピッピッピッピッ...
薄れゆく意識の中、その不快な電子音は私の耳の横で鳴り続けた。
ぼやけてはっきり見えない目の前には、5人ほどの人影が私を見下ろしていた。
私に向かって必死に何かを叫んでいる。
あぁ、うるさいなぁ
いきがくるしい。むねがいたい。
目の前がだんだんとくらくなっていく。
つかれた。
すこしねよう
ん?身体中の痛みがなくなった。さっきまであんなに苦しかったのに。
もしかして、私は死んだのか?いや、もしかしなくても私は死んだのだ。
さっきまで、息子とその家族に囲まれて死を迎えようとしていた。
おぼろげで実感がわかなかったが、おそらく私は死んだのだろう。
ということは今私がいる場所はあの世ということか?
死んだ後は無だというのが私の持論だったが、どうやらはずれだったらしい。
しかし、だとしたら私が存在しているここはどこだろうか。
天国か?
それとも地獄?
とりあえず目を開けたいが、
どういう訳か瞼が異常に重たい。目が開けられない。
これは一体どういうことだ?身体の感覚はあるのにまるで自分の身体ではないみたいだ。
「佐藤 四郎さま、75年間の在世お疲れ様でした。」
若い女の声が聞こえる。
これは、あの世の使いというやつか?
「私はあなたの担当をすることにった看護師の山田と申す者です。いきなりで驚くと思いますがあなたは今、出産してすぐの新生児なのです」
は?私が新生児?どういうことだ?
いや、今気づいたが私はどうやらずっと泣き続けているようだった。言われて気づいた。
「あなたはこれから第2の人生を生きていくことになります。」
第2の人生・・・。なるほど、どうやら数ある死後の世界の仮説のドンピシャは生まれ変わり説だったらしい。
「第2の人生と言っても、いわゆる前世で言われていた生まれ変わりとは少し事情が違うのです」
生まれ変わりとは違う?
「他の人も皆同様に、第2の人生を歩むのです。つまり、この世界全体が第2の人生を送っているのです」
私以外の人間も皆、第2の人生というわけか。まぁ、考えてみれば当たり前のことだ。こうやって看護師が新生児に向かってこんな気が狂ったような戯言を言っているのだ。つまり、新生児に今のように説明するのがこの世界では普通のことなのだ。
「この世界は前の世界よりも、ありとあらゆるものが発展しています。科学、芸術、文学、娯楽、それ以外のものも、すべてよりよいものに昇華しているのです」
ほぉ、なるほど。
確かに第2の人生を送るなら、ほとんどの人間は前世よりもよくなるように行動するだろう。科学者は生前なし得なかった偉業を果たそうとするだろうし、芸術家や文学家たちは死の経験を通して己の作品をより高い次元へと精進するようになる。
さすれば、自ずと人類の文明レベルが前の世界よりも高かまるのは必然である。
「わかりやすく言うなら前の世界のスポーツの世界記録は、こちらでは低レベルな物として扱われるのです」
それはすごい。
だとすれば、この世界はまさしくユートピアと呼んで差し支えないだろう。
少なくとも、前の世界よりはずっとよい。
「ぜひ、この世界をごゆるりとお楽しみください。人生とは所詮、死ぬまでの暇つぶしに過ぎないのですから」
まるで旅館の中居の様なことを言うと山田は私の視界の中からゆっくりと消えていった。
それからはあっという間に時が過ぎていき、すぐに私はこの世界を堪能できる年齢になっていた。
この世界はどうやら、前回の世界のありとあらゆる問題や欠点などが克服された世界らしい。
まず、この世界には戦争がないのだ。
いや、持っと言うと戦争をする理由が根絶されたのだ。
まず、宗教であるが、そもそも宗教とは死の恐怖から逃れるために作られたものである。
しかし、この世界は所謂、死後の世界である。いまさら、死のなんたるを恐れようか。
そうこの世界では、宗教というものが意味を為していないのである。
前世で敬虔な信奉者だった人間達も、ここでは神への信仰心を捨てて、死から開放された自分の人生を謳歌しているのだ。
次に、資源問題の解決である。
この世界には俺にはまったく想像もつかないようなオーバーテクノロジーを使い、それによってありとあらゆる資源の枯渇が問題視されなくなったのだ。それにより、資源のための奪い合いや、領地拡大のための争いがなくなったのだ。
さらに驚くことにこの世界において労働というのは、もはや趣味の範疇だと言うのだ。前世で働くのが生き甲斐だったという者や義務感が強い者などがこの世界で何かしらの労働に従事しているだけで別に勤労の義務だとかそういうのは存在しないらしい。あの看護師もその類の職業だと後で知った。
私はこの極楽浄土のような世界をこの上なく堪能し、生の喜びを噛み締めた。
やがて、私の家族たちもこの世界にやってきた。家族だけではない、多くの友人もこの世界の一員となったのだ。
私より年上のはずだった友人がこの世界ではこっちの方が年上というのはなかなか奇妙で面白いものだった。
そして私は2度目の死を迎えることになる。
ピッピッピッ・・・
あの耳障りな音がまた私の頭の中に鳴り響く。あの時と同じように、私の朧気な視界の中に人影がいくつも見える。
今度はあの時とは違って誰もやかましく泣き叫ぶことは無かった。
こんどはしずかにねむれる。
めのまえがだんだんとくらやみにのみこまれていく━━
「佐藤四郎様 154年間の在世お疲れ様でした」
今度はかなり若い男の声に起こされた。
「私は佐藤様の担当をするこになりました、看護師の福田と申す者です」
前にも見たような光景だ。やはり、第3の世界もあったようだった。
「いきなりですが、あなたはこれから第3の人生を生きていくことになります」
そんなこと、知っている。
福田の話によれば、この世界は以前の世界よりもやはり、色々と文明レベルは進んでいるらしく、いつかの山田と同じようにこの世界を楽しむように言うと私の視界から消えていった。
この世界では、前回の世界よりもさらに年をとるのが早かった。
子供の1年と大人の1年の密度が大きく違うように、1回目、2回目の人生を送ったことにより、実質200歳以上の歳を重ねた私にとって1年などはもはや刹那的なものにすら感じるようになっていたのだ。
しかしこの世界はそんな異常な速度で進む時間感覚でさえ、長く感じるほど超長寿化が進んでいたのだ。
平均寿命はなんと350歳。もはや魔法レベルの医療により齎さられた恩恵である。
今の私の年齢は385歳。この世界でもそこそこ長生きである。もっとも長生きすることに対して特に喜びを感じるような人間はこの世界にはほとんどいないのだが。
この世界もやはり、前回の世界よりもありとあらゆるものが発展していた。もちろん、前の世界よりもより良い方向へと進んでいる。
だが、前の世界にはなかったある問題がこの世界では存在していたのだ
それは、殺人と自殺の大量発生だった。
前の世界では殺人や自殺をしでかすような人間はほとんどいなかった。死んでも、また新しく世界に行くことは目に見えていたし、そもそも殺しをやったり、自殺をするほどストレスが溜まるようなことはほとんどなかったはずだ。
しかし、どういう訳かこの世界ではそれらの不合理的な行動をする人間が増えたらしかった。
幸いと言うべきか、私はそういった物騒なことに巻き込まれることなく、ついに3度目の死を迎えることになったのだ。
もう死ぬのにも慣れたものだ。いや、飽きたというべきか。
もはや病室に私の死を看取ってくれるような者もいなくなってしまった。
まぁ、そんなことはもはやどうでもよかった
なぜならば
死ぬだけなのだから
ピッピッピッ、ピッー!
おかしい、寒い。ここはどこだ?
私が目を開けると、そこはいつも新たな人生が始まる時に居る暖室ではなかった。
そこは廃墟の一室だったのだ。
いつもはベッドの上から始まるはずの私の人生は硬いコンクリートの上で始まっていた。
そうだ、看護師はどこだ?
あたりを見渡す。しかしそれらしい人間はどこにも見当たらない。
私はどうすればいいのかわからず、ただただ赤ん坊らしく泣き喚いている。
「うるっせぇなぁ」
気付いたら金髪の男が私を見下ろしていた。
男の声はあからさまに苛立っていた。
「看護師を呼んでんのか?だとしたら諦めな。ぜってえに来ねぇからよ」
看護師は来ない?どういうことだ?
「この世界にはな、前の世界みたいな看護師っていう職業が存在しないんだよ。だから来ない。わかったか?」
男はそう言い終わると懐から煙草を取り出し吸い出した。目の前に乳幼児がいようと関係なしだ。
「お前もいるか?煙草。まぁ吸えねえけどな。この世界じゃ煙草なんて超貴重品なんだぜ?前の世界から来たばっかりじゃ考えられないだろうがな」
煙草が貴重品?そもそもこの世界はどういう世界なんだ?
「この世界はな、地獄だよ」
地獄?
「人間っていうのはな、なんでもなにかに慣れたらやがてそれに飽き出すんだ。そしたらそれをするのも嫌になる。今回の場合は人生だってことだ。そりゃそうだよな。何度も死んで生きて、その繰り返しだ。どれだけ生きても終わりが見えねぇ。ゴールが設定されてねぇマラソンほどきついものは無い。だから自暴自棄になる。そんなんやってられっかてな」
なるほどつまりこの世界は・・・
「だからこの世界はなんの発展もしてねぇんだ。1回目の世界の方がまだ幸せな生活送れるぜ。ちょっと外に出れば、死体が平気で転がってる。お前みたいな赤ん坊のもな。誰かが襲われていても誰も見向きもしねぇ。だって死ぬだけだ。大したことねぇ」
じゃあ、私はどうなる?
「自分がどうなるか気になってる顔してるな。どうなるか教えてやろうか?」
男はニタニタと笑いながら私を見下ろしている。
「お前みたいな新入りをぶっ殺すためだよ」
男はそう言うと隠し持っていた刃物を私に突き刺してきた。
「この世界ではな、お前みたいな新入りを殺すのが流行ってるんだよ。この世界の数少ない娯楽さ。残念だったな俺なんかに見つかって」
男はそう言いながら何度も何度も私の小さな体に凶刃を振り下ろす。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
早く、早く殺してくれ。早く次の世界へ
今度も寒い。今度はどんな世界だ。さっきよりはマシになっているだろうか。
私はそう思い、目を開ける。
そこには
地獄が広がっていた。
辺りには赤ん坊の死体しか存在しなかった。いや、赤ん坊の泣き声は聞こえるので、どこかに生きている赤ん坊は居るのだろう。
しかし、赤ん坊は居ても、当然のように看護師はやって来なかった。いや、そもそも大人の姿がどこにもなかった。
あるのは、死体と泣き喚いている赤ん坊だけ。
私は考えた。どうして大人がいない?
まさか、この世界では赤ん坊以上には育つことが出来ないということか?
大人がいないから私たちのような新入りは餓死するしかない。
なるほどそういうことか。
つまりこの世界では死ぬしかない。
私はその答えに至った瞬間、あることに気付いた。いや、気付いてしまったのだ。
この世界に大人がいないとしたら、赤ん坊以上になれないとしたら
次の世界も同様なのでは?
いや、次の世界だけではない。その次も、さらにその次も、私達は赤ん坊以上に育たずに死んでいくということだ。
それに気付いた瞬間、私は深い絶望から気が狂いそうになった。
つまり、私はこれから、何度も死ぬ続けるということだ。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
ただ、石ころのように転がり、死ぬ。それだけの繰り返し。
死ぬために生まれるようなもの。いや死ぬために死ぬというべきか。
気づけばさっきまで泣いていた赤ん坊の声が消えていた。
だが、そんなことはどうだっていい
確かに死ぬのは怖くない。次の世界に行くだけだ。
だが、なにも出来ずに死に続けるというのは死んでも嫌だ!
私は、私達は死ぬのに慣れていた。
そして、生にも飽きていたのだ。
まさか、その報いがこの結果だというのか。生の喜びも、死への恐怖も忘れてしまった、私たちへの罰だと、そう言うのか
しかし、それではあんまりではないか。
なにも成せず、なにも残せずただ死んでいくだけ
そんな存在に成り下がるのは絶対に嫌だ。
死にたくない。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
息が苦しくなる、私は死ぬのか。
この世界では何もしていない。そして次の世界でも同じだろう。
私は死に続けるのだ。永遠に。
こんな、そんなのは嫌だ。いやだ。
いやだ、しにたく
その荒野にはたくさんの産声が鳴り響いていた。誰かを呼ぶように、救いを求めるように、
赤ん坊がひしめくその様はまるでキャベツ畑のようだった。
命というものは、はかないからこそ、 尊く、厳かに美しいのだ。
トーマス・マン