元婚約者、竜の逆鱗に触れる。
「エヴェレッタ! 君との婚約はなかったことにしてもらう!」
王族たちも顔を出しているサロンで、ユークリードは堂々と告げた。
驚きを隠せない参加者たちは、彼のとなりにいる低い身分の少女を見る。
「……その、となりにいる方を選ぶのですね?」
そしてエヴェレッタもまた彼女を見た。
どうしようもなく震えて、ソファに座り込んでしまう。
「そうだ! 私の将来は、このソフィーと歩くと決めたのだ!」
指を絡められた手と手は、あまりに親しい。
もう彼の心が自分にないことがわかって、エヴェレッタは前髪で目を隠す。
「もう、なにを言ってもお気持ちは変わらないのでしょう」
「すまないとは思うが、しかし受け入れてもらいたい。私は愛に生きる!」
嬉しそうに顔を赤らめて彼を見上げるソフィーと、周囲の温度差は極端だ。
なにも知らされていなかった王や王妃の顔は青白い。
「わかりました。……しかしユークリード様。それだけではあまりに悲しすぎます」
「……君の心を癒やすだけのものは用意しよう」
つう、とエヴェレッタの頬を伝う涙を見て、ユークリードは首を縦に振る。
場の空気は完全に死んだ。冬の訪れを感じたものたちは、徐々に足を引いていく。
「お心遣い感謝します。でしたら竜の、竜の逆鱗をいただけませんか?」
「竜の逆鱗……だと?」
その申し出に、ユークリード王子は目を見開いた。
竜とは言うまでもなく強力なモンスターで、神に数える国もある。
逆鱗ともなれば、赤子の手ほどもあるダイヤモンドより貴重な品だ。
「そうです。それがあれば、わたくしは涙に濡れて暮らすこともありません」
「バカな! たかが婚約破棄にそんなものが必要になるものか!」
言い切るユークリードに、エヴェレッタはソファに泣き崩れた。
肘置きを抱いて、くぐもった涙が絡む声がサロンを冷やしていく。
「嘘だったのですね。わたくしの心を癒やして頂けるというのは……」
「あ、いや、けしてそういうわけでは。しかし竜の逆鱗というのはだな」
そこまで落ち込まれると、彼も否定しきれるものではない。
言いよどむ声に、しくしくと泣く彼女は顔を上げた。
赤く染まった目と悲しげに下がる眉が、痛ましいほどだ。
「わたくしのような女は、馬小屋で暮らして藁を食めばいいと仰りますのね」
「そこまでは言っていない! しかし竜の逆鱗は言いすぎじゃないのか?」
けれどユークリードが考えていたものは、そこそこの金銀財宝だ。
婚約破棄に、竜の逆鱗が必要になるだなんて思ってもいなかった。
「ユークリード様には愛がなかったかもしれません。けれどわたくしは、あなたのことをそれほど深く愛していたのです」
そうまで慕われていたと思えば、彼も悪い扱いは出来なかった。
しかしだからと言って、竜の逆鱗を渡すことも難しい。
「ううむ……むむむ……むむ……もうちょっと負からないか?」
その言葉で、エヴェレッタは両手で顔を覆う。
信じられないものを見たかのようにソファにもたれかかった。
「愛に生きるというお方が、もう失ったとはいえ愛を否定なさるなんて……」
「そうは言っていない! ソフィー、私は君を愛しているからな!?」
しっかりと手を握ったソフィーに言い聞かせる。
彼女の赤く染まっていた頬は、ますます夕焼けの色になる。
それに反比例して、場の空気はいよいよ氷の洞窟のようだ。
「ソフィー様への愛を証明するのなら、この愛もわかっていただけるはずです」
ここまで言われれば、ユークリードには否定のしようがなかった。
ソフィーへの愛を証明するためには、彼女の愛も証明する必要がある。
「……ぬ、ぬぐぐ。わかった! 私も男だ。しかし、いま城に竜の逆鱗はない!」
当然ながら、それほどの貴重品は城の宝物庫にもない。
一つの大陸に一つあれば良い方だろう。
「でしたら取ってきて下さいませ。婚約破棄はそれからです」
「なんだと! そんなことがあってたまるか!」
繋いでいない方の手で目の前を払いながら、ユークリードは昂った。
「いま言ったことを翻すだなんて……ユークリード様は冷酷非道です!」
またポロポロと泣き出して、エヴェレッタはソファに染みを作る。
自分が言ったことだから、ユークリードも否定はしきれなかった。
「私ほど血の熱い人間はいない! わかった、竜の逆鱗を用意しよう!」
確かに自分の要望だけ通して、約束は知らないとしらも切れてしまう。
それではどれだけのことがあっても、信用は地の底に落ちるだろう。
婚約破棄をしている時点で底に落ちているのだけれど。
「ありがとうございます。けれど破棄されるまで、わたくしは婚約者です」
すがるように言うエヴェレッタを、彼は捨てきれなかった。
自分の一方的な都合で切り捨てるのだから。
「……わかった。用意が出来るまでは、君の待遇を保証する」
「ユークリード様は約束を守って下さる素晴らしいお方です」
頷く彼に、エヴェレッタはにこりと笑って涙を拭った。
「君も発言翻してない!? まあいい。ソフィー、すこし待っていてくれ!」
そうして城を飛び出したユークリード王子は、わずか四年で竜の逆鱗を手にすることに成功した。
しかし彼が戻ってきた時、婚約者を略奪したソフィーは針のむしろに耐えきれず、逃げるように去っていた。
その間にエヴェレッタは第二王子と愛を育み、悠々自適に暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。