第4話 人身売買
まだ重い話が続きます。
今日は俺にとっても、セシリア先輩にとっても、とても良い日になるはずだった。
「セシリア先輩……もう、行くんですか?」
「……うん」
「……ぐす、セシリアぁ……行かないで、行かないでよぉ……」
なのに、どうしてこんなに寂しいのか。
俺は血が滲む程に唇を噛んだ。涙がこぼれそうだった。
俺の隣ではアウラが声を抑えて泣いている。光る水滴が顎から垂れ落ち、漏れ出す音だけが周囲の空気を震わせた。
この世界で、適性値Sは勇者だけの特権とされていた。ワンランク下のAランクは、王族に貴族、そして平民、それが身分関係なくこの世界の住民の限界だった。しかも、その才能を持つ者は極稀だと言われていた。
それが、昨夜8歳を迎えたセシリア先輩が出した適性値はAランク。すぐに、凄まじい才能を秘めた有望な人間と評価され、貴族に売られる事となった。
旅立たせるのではなく、売るのだ。それは絶対に間違ってはいない。現に俺は商談を盗み聞きして、確証を持った。それから、上っ面だけの笑顔を見せられた時に裏であんな事をしていたと考えると、気持ち悪くてしょうがなかった。
俺は、前々から何故、読み書きを教えて貰える人と、貰えない人がいるのかずっと疑問だった。それが、才能が有りそうな奴だけを教えていると考えると辻褄が合う。どうりで院長も先生も、優秀な奴にしか読み書きを教えなかった訳だった。
「セシリア、お別れの挨拶は終わったかい? ……ん? まだなのかい……なら、私が困らないうちに早く終わらせなさい」
ーー……コイツ! 別れの挨拶も十分にさせない気か。俺らが子供だと思って、舐めやがって……!!
セシリアの隣に、長身の長い髪の男が歩み寄ってきていた。悪意で歪んだ表情、こっちが表の顔らしい。さっきまでの紳士な爽やかな青年とは全くかけ離れた印象を受けた。
ーー何が私にお任せください、だ、ふざけんな! セシリアを道具として使う事が許されると思うな!
「ーーおいガキ、なんだその目は。私に文句があるのか?」
突然、俺に低く、重量感のある声音が向けられた。いつの間にか俺は睨みつけていたようだった。ハッと気づいた時には、もう遅かった。
パチン!!と。
頰を張られ、俺の体が浮いた。頰に途轍もない、電流のような痛みが走る。全力で叩かれたのか、3メートル程後ろに飛ばされた。地面に落ちてからも、まだ転がる。
ーーなっ!?
「「ーーオズ!!」」
悲痛な声が轟いた。
「……や、やめて! 離して! オズに乱暴しないでっ!!」
「セシリア先輩!」
痛みに耐えつつ上半身だけで起き上がり、未だに睨みつける事を止められない俺の目が、まず最初にセシリアを捉えた。黒服の男がセシリアを担ぎ、馬車に乗せるところを。
「オズに何すーー!!」
そして、次にアウラを。俺を庇うようにして立ち塞がったアウラを平手打ちで退かした。
俺と同じように華奢な体が地面をバウンドし、勢い良く転がっていく。
「アウラ! セシリア先輩!」
俺は咄嗟に叫んだ。セシリアは連れてかれ、アウラは呻き声を漏らしていた。
「……クソッ!」
奴は速さを変えず普通に歩いてくる。なのに、呼吸が詰まる程の圧迫感を感じた。幻覚か、全身に纏うドス黒いオーラのような靄が見えていた。
しゃがんだ奴に胸倉を掴まれ、右の拳だけで殴られる。引いて溜めた拳は一発一発が重く、強烈だった。
ーーいつだ、いつ終わる……!?
痛みが脳を麻痺させ、時間の感覚を狂わせた。
「ケッ、俺が寛大で良かったなガキ! 俺じゃなかったら、お前死んでたぞ」
殴られたのは数発だったのか、数十発だったのか、もう分からない。
最後に投げ捨てられ、唾を吐かれた。
ーーッ!!
殴られた箇所から血が滲み、擦り傷が痛みを自覚させた。
「ガハッ!?」
俺の口から血が噴き出した。その様子を横目に見た男の口元が歪な形に変わる。
それでも、俺は奴を睨みつけた。場所に乗り込み立ち去っても、完全に見えなくなっても、まだ睨みつけていた。結局、俺にはそれぐらいしか出来なかったのだから。
「オズ、しっかり! しっかりしなさいよッ!!」
突然、肩を揺さぶられた。八つ当たり気味に睨むと、アウラが俺の肩に片手を置いていた。まだ痛むのか頰をもう片方の手で押さえている。それでも完全に覆いきれない程に、腫れは広がっていた。
「ごめん……アウラ、セシリア先輩……ごめん。俺、俺……お前らを、守れなかった……!!」
ぶわっ、と。涙が溢れる。
俺が死んだ、あの日の記憶までもが一気に溢れてきた。
ーーあの時も俺は守り切れなかった。
アウラの目からも涙がこぼれ落ちた。
ーー俺には何の力も無かった……。
主悪の根源、院長が玄関を開け走ってくるのが見える。
ーー今も、それは変わらないのか……!
ついには嗚咽まで漏らしてしまった。院長に持ち上げられ、孤児院の医務室に連れて行かれる。
ーー俺に、力があれば……こんな事には……!!
院長やあの男を恨む感情は湧いてこなかった。それよりも後悔の念が強く、結局俺は治療されている間も、その後も、自分を呪う事しか出来なかった。
そんな本当に生きているとは言えない日々が続いていた。
……それも、8歳までは。