第二章 変貌者狩り (その2)
「母様っ」
少女が勢いよく障子を引き開ける。
その先で、縁側に腰かけた母親が振り返った。
「こら、お行儀が悪いですよ」
騒々しく現れた少女に、母親は苦笑いを浮かべる。言って聞くような娘ではないと、既に諦めているのだ。多少叱りつけた所で、この少女のエネルギーを抑える事は出来ない。
本当に手のかかる子だ、と母はいつも眉をひそめる。
けれど母親はその事をむしろ喜んでいるようでもあった。
「母様、見て下さい!」
言って少女は、その場でくるりと回った。
少女が着る濃紺のセーラー服が、ふわりと風を孕んで広がる。
「まあっ」手を打って母親は破顔した。「それは中等部の制服?」
「ええ母様。一番に見て欲しくて、着てみましたっ」
「いいわねぇ。すごく大人っぽいわ」
途端、少女はムッと口をへの字に曲げ、頬を膨らませた。
「母様? 私、まだ十二歳です。大人なんかじゃありません」
「……? 大人になるのが嫌なの?」
「そうわけじゃないです。でも――」
少女はふと視線を、和室の隅に置かれた姿見に向ける。
そこには十二歳とは思えないほど長身の少女の姿が写っていた。確かに顔つきはあどけなさが残るが、パッと見は高校生がそれ以上に思える。
だが、そのせいで学校では男子生徒に『巨人』とか『電柱』とかあだ名されてしまっているのだ。それが少女には嫌だった。もっと小さく、可愛い存在になりたかった。
そう話すと母親は『ぷっ』と噴き出した。
「母様っ!?」
「ふふ。――ごめんなさいね。でもきっと、その男の子達は貴女の事が好きなのよ」
思わず少女は眉をひそめる。
けれど、そんな少女を見て母親は更に頬を緩ませた。
「いつかわかるわ。――でも、そうね。もうこんなに大きくなったのね」
母親は立ち上がると、少女に歩み寄りその頬に手を添える。既に少女の身長は小柄な母親を超えており、見上げるような形になってしまう。
母親は少女を愛おしむように微笑むと、着物の懐に手を差し入れた。
そして取り出したのは、朱色の鞘に収まった小刀だった。
「もうすぐ、これを渡す日が来るかもしれないわね」
「母様、それは?」
「……わたしの、嫁入り道具よ」
母親は視線を朱色の鞘に落とし、金箔で描かれた華を撫でて語り出す。
「嫁ぐ時に、はは様――つまり貴女のお婆様から受け継いだものなの。我が家では娘が嫁ぐ時には必ず小刀を贈っていたのよ」
母親の目はどこか遠くを見つめていた。哀しみと諦観が入り混じった寒々しい表情。
少女は初めて見る母親の横顔に戸惑った。
「貴女が誰かに嫁ぐとき――これを渡す事を楽しみにしてるわ」
そう、母親は微笑んだ。
少女が目を覚ますと、そこには誰もいなかった。
周囲を見回して、自分がどこに居るのかを確認する。どうやら縁側の柱に寄りかかり、うたた寝してしまったらしい。夢の内容を思い出し、少女は振り返って背後の和室へ視線を向けた。
母親が寝起きしていたはずの和室には、何もなかった。
文字通り『何も無い』。――かつて人が生活していた痕跡すら残っていない。まるで最初からそうであったかのように、清潔で殺風景な和室がそこにはあった。
見ていられなくなり、少女は視線を庭へと戻す。
そこには何もない部屋以上に少女へ現実を突きつけるものがある。
白くて高い漆喰の塀と、塀際を沿うように歩く黒服の男。ちらりと、黒服の男が少女へと視線を向けた。が、その目からは一切の感情を読み取ることができない。
少女はある屋敷に軟禁されていた。
既に四年以上、少女は屋敷の中だけで生活している。軟禁が始まったのは中等部に上がる直前のこと。突然、家から出る事を禁じられ、それと同時に母親は姿を消した。
いや、そもそも私に母親なんていたのかしら。少女はぼうっと庭を眺めながら思う。
もしかしたら母親との思い出は全て妄想で、自分は産まれてからずっとこの屋敷から出た事がなかったのではないか。あまりに変化のない生活に心を病んで、ありもしない母親や学友との思い出を妄想し、それを現実と思い込んでしまったのではないか。
それならそれでいい。諦められる。
何を考え、どう頑張ろうとも、私には何も出来ないのだから。
全てを諦めて、身を任せてしまった方が楽だ。
「――お嬢様」
少女の視界に、黒いスーツを着た男が入り込んだ。
屋敷にいる黒服達を取り纏めている、片瀬という執事だった。
「お嬢様、明後日が何の日か憶えていらっしゃいますか?」
この男は何を言っているのだろうと少女は思う。そもそも今日は何月の何日なのだ。
答えない少女に、男は一方的に告げる。
「明後日は、お母君がこの屋敷を出た日にございます」
母親。そんなもの、私にいたのかしら?
「これを」
男は懐から何かを取り出し、少女の手に握らせた。少女は自らの手に視線を落とす。
朱色の鞘に収まった小刀だった。
「旦那様はお母君の持ち物を全て処分なさいましたが、これだけは見落とされたようです。お返し致します」
ようやく少女の目に、意思の光が戻った。
夢の中で見た小刀。母親が少女に渡すことを楽しみにしていると語った小刀だ。
「か――さ、ま」
長らく震わせる事のなかった喉は、上手く言葉を発してくれない。
それでも少女に心が戻った事を示すには充分だった。
少女の無事を確認した男は、視線を少女の高さまで落として提案する。
「もう一度、お母君に会いたくはございませんか?」
それは少女が――柳瀬華弥が多神原へやって来る三日前の出来事だった。