第四章 そして得たモノ (その10)
つまり、単に『気に食わなかった』のだ。
少なくともマサトは、自分の心情をそのように理解している。
そして『気に食わない』という感情しか僕の中にはないのだ、と結論している。
初めて見た時からだ。
母親の墓の前で自殺しようとしていた華弥を見た時、無性に腹が立った。自殺という行為を理解できなかった。僕が『自分が何者であるか判らない恐怖』に耐えているのに、なんでこいつは簡単に足抜けしようとしているのか。なんで『死にたい』なんて思えるのか。
デカチーに言われた。
『好きな事、嫌いな事、正しいと思う事、許せないと思う事』を知れと。そこから自分というものを掴んでいけば良いと。
マサトが『気に食わない』――つまり『嫌い』で『許せない』と感じたのはそれが初めてだった。それどころか、ここまで激しい感情を覚えた事など今まで一度もなかった。一志達と過ごしていた時には、こんなに感情が波打つ事などなかった。喜びも怒りも哀しみも感じなかった。――つまり、僕の中が持つ感情は『気に食わない』というものだけなのだ。
だから『なんでコイツは死にたいのだろう』とマサトは気になった。
その疑問が間違いだという事には、すぐに気づけた。
マサトが《大食い婆さん》に弾き飛ばされた、華弥が取り乱した時の事を思い出す。
華弥は言った。
『これからどうやって生きたらいいの』と。
つまり華弥は死にたいわけではない。
生き方を知らないだけなのだ。
この人はまるで、歩き方を知らない赤子のようだ。マサトは朦朧とした意識の中で、そう考えた事を覚えている。
そして更に腹が立った。その理由は判らない。
ただひたすら、腑が煮えくり返る程に気に食わないのだ。生き方が判らないと泣き喚き、挙げ句の果てに自殺しようとした姿が、気に食わなかった。
癪に障る。虫酸が走る。身の毛がよだつ。
そして思った。
『こんなもん二度と見たくない』と。
そして見ないようにするには――――この少女を変えてしまえば良い。
この華弥という少女が歩き方を知らないのならば、手取り足取り教えれば良い。生き方を知らないというのであれば、見せれば良い。自分自身が何者として生まれ、何者として生きるのか悟らせれば良い。
そのあとは知った事か。この少女が何もかも納得して、死を選ぶのなら構わない。
――が『心底生きたいけれど、方法がわからないから死ぬ』なんてのは腹が立つ。
早く、この胸糞悪くなるものを早く消してしまいたい。
例え目に入らなくとも、この世界のどこかに存在しているというだけで苛々《いらいら》する。
僕の心の平穏の為に、この少女を変えてしまわねばならない。
それが――マサトが見つけた《生きる目的》だった。
◇ ◇ ◇
「まあ、それに気づいたのは、華弥が『十河が死ぬ所を見たい』って言った、時だったんだけどね」
マサトは淡々と、自身の《目的》について語った。まるで他人事のように感情が抜け落ちた語り口調。それは自分の恥部を晒しているとマサトが感じている故のものだろう。
他人事のように話さねば、恥で口が止まってしまう。
「華弥は……あの時、自分自身を知ろうと、していた。――総毛立ったよ。全身に電流か何かが走り抜けていくみたいだった。脳みその奥の方が泡立ってさ。コイツは歩きだそうとしている。あと少し、背中を押すだけで歩き出せる。なら押してやろうって」
「だから……私を、助けに来たの?」
「ああ。僕は華弥の行動が、許せなかった。『僕が』許せないわけだから僕が華弥を変えるのがスジだろ? だってこれ、は僕の感情で、僕の目的だから。――『僕』という存在の証明、だから」
マサトは少し悲しそうな目をした。
「――でも、僕が一志達を『どうでもいい』と思っていた、のは嫌だったな。一志やナツメやデカチーは、さ。一人で生きる力を持った人間だろ? ……だから『気に食わない』って思う事はなかった。僕は居場所を守る、ために一緒に居ただけなんだなって」
遠い目をした左眼から、パリパリと透明なものが剥がれ落ちた。その下からは、白と黒の絵の具で色を付けただけの木球が現れる。――木偶人形の目だった。
もう涙を流す事は出来ない。
「な、割と僕ってクズな人間だろ?」
右顔面だけに自嘲する笑みが広がる。
「多分さ。僕って人間は、他人よりも優れていると思いたかったんだと、思う。自分が不確かだから、誰かより優れてて、誰かに手を差し伸べる人間なんだって、思って、心の平穏を勝ち取ろうと、したんだよ。――だから、一志達には何の興味も抱けなかった。手を差し伸べる余地がない、から」
それはおかしい。
どうして、そういう結論に至るのか。
華弥はふと、自身の腹の底へ熱いものが落ちる感触を覚えた。
「――華弥はもう一人で歩けるし、生きられる。だから早くどっか行って、くれ。僕みたいなクズな人間は放っておいてくれ」
「――クズな、人間?」
「そうだ。……華弥、もういいだろ。早くどこか、」
マサトの言葉が途切れる。
唐突に華弥が立ち上がったからだ。
腹に落ちた熱いものが、全身を駆け巡り焦がしていくような感覚があった。その証拠に両手は拳を握り震えている。
その熱が首から上へ。脳髄の奥まで辿り着いた時、華弥の口から怒りが溢れた。
「このぉ…………大馬鹿者ッ!!」
華弥の叫び声で、廃マンションの窓がビリビリと震えた。
ベッドに横たわるマサトは、呆然と長身の華弥を見上げている。華弥が何に怒っているのか理解できない様子だった。華弥は多神原でナツメという少女に殴られた時を思い出す。ああ、彼女はこんな気持ちだったのだな。もう一度会う事があれば、改めて謝ろう。
けれど、今はこの大馬鹿者をどうにかしなくちゃいけない。
「ばか! 大馬鹿者ぉ! 自分の事なんか結局、欠片も理解してないじゃない!」
「僕、が?」
「そうだよっ、このばか! あほ! いい? これから私が貴方の正体を説明してあげる」
見下ろしたマサトは、怪訝そうに華弥を見上げてくる。
腹が立った。本当、なんて馬鹿なのだ。
「私を見て――自殺しようとする私に腹が立ったって言ったわね? 生きたいくせに死のうとしている私に腹が立ったって。私を見ると癪に障るし、虫酸が走るし、身の毛がよだつって、貴方言ったわよね?」
「あ……ああ」
「それで『こんな胸糞悪いものを早く消してしまいたい』って思ったのよね!?」
「……そうだ、だから」
「ばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」
本当は殴り飛ばしたいほどだったが、今のマサトにそんな事をすれば本当に死んでしまう。
仕方がないから、腹の底から怒鳴りつけるだけにしてやった。
「そんな風に思ったなら、どうして私を手助けしようなんて考えになるのよ! おかしいでしょ? 嫌なら私が死ぬままにして放っておけばいいじゃない! 自分の手でどうにかしたいなら、マサトの手で私を殺せば良かったじゃない! クズな人間なら、そうしてなきゃおかしいでしょう!?」
「そう、なの?」
「そうよ!! いい? マサトはね、そんな癪に障って虫酸が走って身の毛がよだつものを見ても、『殺してしまおう』なんて考えは欠片も浮かばない人間なの! 十河のことだってそう! 親友を殺した相手の命だって『殺したらその死を背負わなきゃいけない』って思うようなお人好しなのよっ。そんな奴がクズなんてどうして言えるのよ!?」
「でも……僕は、一志たちを――」
「それも違うっ! どうしてそうなるのよ! 一志さん達と一緒に居た時には、感情が波打つことはなかったって? 当たり前じゃない! ――信頼できる人と、笑い合える人と一緒に居たら、心穏やかな気持ちになるに決まってるじゃないっ」
マサトの目が、驚愕するように見開かれた。
考えもしなかった事なのだろう。
そんな誰でも知っているような事すら、マサトは知らなかったのだ。
「貴方が許せないのは『他人の不幸』。人の幸福が妬ましいのなら、一志さん達にこそ『気に食わない』と思うべきだし、私が自殺しようとするのを見て歓喜すべきよ。違う!?」
「ちが、わない……かな?」
「ちがわないの!」
華弥が叫ぶと、マサトは右顔面を歪ませ、嬉しそうに微笑んだ。
そして小さく「良かった」とだけ、呟いた。
「ねえ……マサト」
叫び疲れ、華弥は床にへたり込む。再びマサトと同じ視線で、マサトの木偶人形になった右手を握った。
「私も、マサトと一緒にいると心が安らぐよ? それは、マサトが、信頼できて、一緒に笑い合える人だから。一人じゃ何も出来ないからって、そんな損得勘定で一緒にいたいんじゃないの」
「……うん」
「一緒に笑いたいから一緒にいるの。一緒に歩きたいから一緒にいるの。一緒に生きたいから一緒にいるの」
「うん」
そこから先を言うのには、少しだけ勇気が必要だった。
しかし華弥は、はっきりとその言葉を口にする。
「マサトの事が大好きなの。――だから、一緒にいたいの」
マサトは微笑み「ありがとう」とだけ呟いた。
華弥はふと思い至る。
もしかしたらマサトの笑顔を見たのは、処世術でも自嘲でもない笑顔を見たのは、これが初めてかもしれない。
「マサト、一緒に多神原へ行こうよ」
華弥はマサトの右手を握り締め、まだ人間の瞳を保っている右目を見つめて言った。
「多神原で一緒に暮らそうよ。多神原なら、十河の追っ手もそうそうやって来ないと思うし、隠れる場所だってたくさんある。一志さん達だって助けてくれるだろうし、」
「ダメだよ」
言い終える前に、マサトは華弥の提案を切り捨てた。
「それだけはダメなんだ、華弥。華弥は変貌症じゃない。何に変貌するかは変貌症になってみなきゃ判らないし、もしかしたら数年で死んでしまうようなものに変貌するかもしれない」
マサトは、そう強く言い切った。
だが華弥には不思議で仕方がなかった。何故そこまで私が変貌症ではないと言い切れるのだろうか。マサト自身は変貌症にしか思えないし、本人もそう言っている。
けれどマサトは、変貌した手を握り締める私には伝染しないと確信しているのだ。
さっき訊いた時には『言いたくない』と拒否されたが、やはり問わなければならない。
華弥はそう決意して、口を開きかける。
しかし、それを遮る声があった。
「おーい、お嬢さーんっ」
窓の外から響くのは、老人男性のものらしき声。
白鳥医師の声だった。
「返事をしてくれー。おーい」
華弥は窓を開けて、公衆電話の辺りを見下ろした。――が、誰もいない。白鳥医師は華弥を探して、この辺りを歩き回っているのだろう。ベランダから白鳥医師へ呼びかけるつもりで、わざわざ二階の部屋までマサトを運んだのだが。
華弥は悩む。
白鳥医師をここへ呼ぶわけにはいかない。変貌症のマサトが居るからだ。そうでなくても変貌症は患者が触れた物を介してでも伝染する場合がある。この廃マンションへ近づくだけでも危険だ。事情を説明して帰ってもらうしかない。
「待ってて、マサト。すぐ戻るから」
「……華弥」
立ち上がった華弥に、マサトが声をかける。
「僕も……多分、華弥のことが好きだよ」
その一言で、どれだけ力が湧いてきただろうか。
相変わらず『多分』なんて余計な単語がついてきたが、そんなもの慣れっこだ。女の扱い方は、これから学んでくれればいい。私が教えてあげる。
華弥は喜びを噛みしめて、廃マンションの部屋を出た。
階段を駆け下りて、一階のエントランスへ。白鳥医師の姿を捜しながら、華弥は公衆電話がある菓子屋の前までやって来る。お婆さんは、奥へ引っ込んでしまったのか見当たらない。
「柳瀬華弥――さん、かな?」
声をかけられ、華弥は視線を右手へと振る。
そこには由美を連れ帰った時と同じスーツ姿の白鳥医師がいた。
「あ、白鳥さん――」
こっちへ来ないで下さい。そう華弥は伝えようと掌を突き出した。マサトは華弥が変貌症ではないと言い張るが、それが本当かどうかは判らない。白鳥医師を近づけない方がいい。
様子がおかしいと思ったのはその時だった。
白鳥医師は華弥が止めるまでもなく、こちらへは一歩も近づこうとしない。むしろ華弥が手をあげたのを見て一歩、後退ったのだ。
まるで、華弥を恐れるような行動だった。
「白鳥、さん?」
「仕方ないんだ。すまない……仕方ないんだ」
「あの――?」
「仕方ないだろう? また、家族を失うわけにはいかないんだよ。……あんな、あんなこと、人生で二度も経験したくないんだ。……な、柳瀬華弥さん」
あれ、と思った。
さっき電話した時は気にも留めなかった事が、今ようやく引っかかった。
「白鳥さん……私、名前って教えましたっけ?」
「…………」
白鳥医師は答えない。
その代わり、物陰から黒いスーツを着た男が現れ、白鳥医師の肩を叩いた。
「白鳥正行さん。ご協力、ありがとうございます」
遊園地で、華弥を追っていた男だった。柳瀬十河の手先。
ようやく華弥は、自分が罠にはまった事に気づいた。慌てて見回してみれば、周囲から続々と同じような黒服が集まってくる。総勢五人。華弥とマサトが何処に潜伏しているか判らず、この公衆電話で待ち伏せする事に決めていたのだろう。恐らく仲間が周囲に散らばっているに違いない。
「柳瀬華弥、そこから動くなよ」
華弥の想像を肯定するように、黒服達は誰かを待つようにその場から動かなかった。一定の距離を保って、華弥の一挙手一投足を警戒している。
逃げるなら今しかない。そう華弥は判断する。まずは、マサトからこいつらを引き離す。
そう足を踏み出そうとした時、黒服が華弥へ問いかけた。
「柳瀬マサトはそのマンションの中だな?」
カマかけだったのだろう。
しかし華弥はものの見事にそのカマに引っかかった。
身体を硬直させ、足を止めてしまったのだ。
「――よし、そのマンションを包囲しろ。但し、まだ中へは踏み込むな」
無線を通じて黒服が指示を飛ばす。もう華弥に大した時間は残されていなかった。
このまま黒服に捕まるのだけは避けなくてはいけない。十河は、マサトが変貌症だと判ったからと言って大人しく多神原へ送り込むだけで済まさないだろう。
マサトと私が生き残る方法は一つ。
黒服達から逃げた上で、変貌症患者として認定を受けて多神原へ送られる事。
ならこの際、変貌症だという事実を利用した方がいい。
華弥は大きく息を吸い込んで、叫んだ。
「私は――変貌症ですよッ!!」
黒服達に緊張が走ったのが判った。
華弥はその内の一人に向かって突進する。黒服は華弥の言葉を信じたのか、道を譲るように後退った。そうして出来た隙間を抜けて、華弥は廃マンションへと駆け込む。エントランスにも二人の黒服が居たが、その二人も華弥の姿を認めると逃げるように通路の奥へと消えた。華弥の声がここまで届いていたのかもしれない。
もしかしたら、と思った。
もしかしたら、こうやって変貌症だとふれ回って逃げれば黒服達には捕まらずに済むかもしれない。そうやって騒ぎを大きくして、注目を集めて、そうして自衛隊にあるらしい変貌症対策部隊あたりが出張ってくれば、黒服達に捕まる事なく多神原へ逃げ込めるかもしれない。そうしたらマサトと一緒に暮らす事ができる。マサトはもう余命幾ばくもないかもしれないけど、少なくとも最期の時まで一緒に過ごす事ができる。
せめて――最期の時は一緒に。
華弥の脳裏に、小さな希望が浮かぶ。
「マサトっ」
廃マンションの二階。華弥はドアを蹴破る勢いで部屋へ飛び込み、マサトを寝かしている寝室へと入った。
しかし、そこには誰もいなかった。
誰もいない、空のベッド。脱ぎ捨てられたように残された、マサトの衣服。
「マサト? マサト!?」
一人で何処かへ行ってしまったのだろうか。もしかして、黒服達が先にマサトを連れ去ってしまったのでは。いや、明らかに変貌症のマサトに触れようとするはずがない。けれど、マサトは現にいない。どうして。
華弥はマサトを捜そうと寝室を後にしようとして、視界の端にあるものを見つけた。
木偶人形だ。
掌サイズの小さな人形だ。それがベッドの脇に落ちている。
そんなわけがない。華弥の頭の中で誰かがそう否定する。何が『そんなわけがない』のか、よくわからない。――わかってはいけない。
華弥はよたよたとした足取りで木偶人形へと近づき、拾い上げる。力なくだらりと、球体関節で繋がれた四肢が垂れ下がった。足の裏側に何かが彫られているのに気づき、華弥は人形の右足を持ち上げる。
片仮名で『マサト』と彫られていた。
途端、廃マンションの中が騒がしくなった。ドタドタと部屋へ幾人もの人間が踏み込んでくる音。ほどなくして、華弥の居る寝室へと何者かが雪崩れ込んできた。
「――柳瀬華弥、」
呼ばれて振り返る。
宇宙人がいた。
迷彩柄の宇宙服を着た男達。変貌症防護服。最新型のそれは、視界が大きく取れるようにヘルメットの大部分がクリア素材になっている。そこから見える顔は、あの黒服の男だった。
「私は自衛隊の《多神原病対策室保護班長》宇城巧己だ」
男が名乗るとその後から金属探知機の化物のようなものを持った防護服がやって来た。それが華弥へかざされると、けたたましい警告音のようなものが発せられる。
「レベルB。多神原病発症確認」
宇城と名乗った男が、華弥の手を強引に持ち上げる。
その腕の一部は何故か、鮮やかな緑色をしていた。
人の皮膚ではあり得ない。
変貌、しているのだ。
「多神原病対策法に基づき、貴女を拘束する」




