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ヒトになるまで待ちましょう  作者: 忍野佐輔
第四章 そして得たモノ
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第四章 そして得たモノ (その9)

「マサト、もう大丈夫だからね」

 華弥かやがやって来たのは、住民が逃げ出したまま残されたマンションの一室だった。白鳥しらとり医師へ連絡した後、苦しむマサトとその場で待つよりは、一度マサトを横にさせて少しでも身体を楽にさせようと思ったのだ。

 華弥はそっとマサトをベッドへと横たえる。

 かけたはげましの言葉がマサトへ届いた様子はない。華弥もそれは理解している。半分以上は自分自身を励ます為に言ったものだった。

「もうすぐ、お医者さんが来るからね、マサト」

 言いながら、華弥はベッドの横へしゃがみ込み、マサトの手を取ってそっとでる。

 マサトの体調は悪化の一途を辿っている。意識がないのは勿論もちろんのこと、顔色も悪く、呼吸も弱々しい。一刻も早く医者に診せなくてはならないと思った。だが救急車を呼ぶわけにもいかない。十河とうごの追っ手と思われる黒服達に居場所を教えるようなものだし、そうでなくても大きな病院には十河の手が伸びているはずだ。

 でも、それならどうすればいい。

 そう考えていた時に見つけたのが公衆電話であり、ポケットの奥にしまい込んでいた白鳥医師の名刺だった。

 白鳥医師はありがたい事に、華弥が公衆電話がある住所を伝えても、嫌がる事なく往診を了承してくれた。《日乃出町ひのでちょうスラム》というだけで普通は尻込みしそうなものだが、白鳥は何も追及せずに「三十分くらいで向かう」とだけ告げて電話を切ったのだ。

 あれからもう十分ほど経った。

 華弥がいる廃マンションは、公衆電話のあった菓子屋の向かいにある。心配しなくても白鳥医師が来ればすぐに判るのに、華弥は何度も窓の外から菓子屋の様子を覗った。

 マサトの手が冷たいのだ。

 その冷たさが恐い。

 まるで死人だと華弥は思った。固く強張り、とても生きているように思えない。でもマサトは確かに生きている。弱々しく繰り返される呼吸が、それを証明している。

「マサト……」

 華弥はマサトの右手を胸に抱き締める。少しでも温めようと思ったのだ。意味のない自己満足だと理解している。けれどせずにはいられなかった。

 力を強く入れ過ぎてしまったのだろう。

 ――ズルリ、と何かが、マサトの右手からがれ落ちた。

「え、」

 まるで熟したトマトの皮を、指でぎ落とすような感触。

 華弥は湿った音を立てて床に落ちた何かへと視線を落とす。

 それは、人間マサト皮膚ひふだった。

 まるで脱ぎ捨てた手袋のようにハッキリと指の形まで残っている。ヘビの脱皮のようだった。意味がわからず、華弥は抱き締めているマサトの右手へと視線を移した。

 既にそれは人間の手ではなかった。

 木偶でく人形の手だった。

 人の手をしてなめらかに削り出された木材を球体関節が繋いでいる。まだ人間の皮膚が残っている部分を触ってみると、途端にズルリと剥がれ落ちた。その下からはやはり、丁寧に紙鑢かみやすりをかけてニスを塗ったような木目が現れる。

 人間の皮膚の下にこんなものがあるはずがない。

 

変貌症へんぼうしょう》の症状としか、思えなかった。


 だが、一体いつ?

 マサトはいつ、どこで《変貌症》にかかったのだ。多神原たがみはらから出てくる時に検査を受けていたのでは無かったのか。華弥かやの脳内を疑問符が埋め尽くしていく。

 と、

「ああ……。見られ、ちゃったか」

 顔を上げると、マサトが目をましていた。

「マサト……これ、」

「ああ、大丈夫だよ。……コレ、華弥には伝染うつらないはずだから」

《変貌症》が伝染しない? どういう意味だろうか。

 いや、華弥が訊きたいのはそういう事ではない。この期に及んで、まだ私の心配なんてしなくていい。貴方は、貴方の身体は大丈夫なのか。そう問いたいのに、華弥の口は上手く動いてくれなかった。

 そのうちにマサトは「よっこいしょ」と言いながら身体を起こし――が、バランスを崩して再びベッドへ倒れ込む。身体が思うように動かないようだった。

「情けないなあ……。というか、もう足の感覚も無いよ。いよいよ駄目だね」

「ずっと、隠して――?」

「ん? あ、いや。僕もさっき気づいたんだ。そしたら一気にガタっと来てさ、なんか上手く歩けなくなって、ようやく待ち合わせ場所に着いたと思ったら……気、失っちゃって」

 マサトは華弥を安心させようとしているかのように、優しく微笑んだ。

 しかし笑顔の左半分は固まったかのように動かず、結果、いびつな笑顔になってしまっていた。

 おかしい。

 どうしてこんなに進行が早いのだ。《変貌症へんぼうしょう》は、一生をかけてゆっくりと肉体が変貌していくと聞いていた。変貌者へんぼうしゃの子供であれば、生まれた時から多少の変貌はしているらしい。デカチーのように若くして変貌が完了することもあるだろう。だが、いくら多神原出身であるマサトとは言え、ついさっきまで元気だった人間がこんなに早く変貌するものなのか。

「華弥……追われているんじゃないの?」

 マサトは案ずるような瞳で、華弥を見つめていた。

「僕の事は置いていってくれて良いからさ。早く逃げた方がいい」

「だ、大丈夫だよマサト。ここ、《日乃出町スラム》なの。私達は、隠れてるの」

 華弥の言葉を聞いて、マサトはようやく自分が何処にいるのか認識したらしい。ギギギ、と音でもしそうなぎこちなさで周囲を見回し、呟く。

「日乃出町……? どうやって?」

「私が、連れてきたの。マサトは車椅子に乗せて。だから大丈夫」

 遊園地からここまで、黒服達から逃げる為にした事を華弥は話した。マサトは興味深そうに目を細め、華弥の話に耳を傾けると、最後に「やるじゃん」と微笑んだ。

 そして、息も絶え絶えに告げる。

「でも、やっぱり逃げるんだ……華弥。今すぐ」

「――え、」

「追っ手が僕等を見失っている今が……チャンスなんだ。少し、考えれば……奴等も気づく。そうそう逃げ場所なんて、多くない。――し、かも。意識のない人間を、連れているんだ。逃げ回るんじゃなくて、どこかに身を潜めようとする事、くらい、見抜かれてる」

 早くしなければ《日乃出町スラム》全体を包囲されてしまう。そうなれば最期。逃げようがない。そうマサトは締めくくった。

「華弥ひとり、なら逃げられる」

「…………逃げても仕方ないよ」

 華弥は握り締めたマサトの腕を――木偶人形の腕へ視線を落とす。

「これ《変貌症へんぼうしょう》なんでしょう? だったら、もう私にも《変貌症》が伝染してるはずだよ。逃げ回って、あちこちに《変貌症》を撒き散らすようなこと、したくない」

 《変貌症》は、患者へ文字通り『接触』する事で感染する。これまでずっとマサトと過ごしてきた華弥が感染していないはずがなかった。

 しかし、

「ああ、それなら、大丈夫」

 マサトは、まるで華弥が見当違いの事を言ったかのように笑った。

「確かに、さ。僕は《変貌症》だけど、でも、これは華弥には伝染らないんだ」

 確信している声だ。マサトは華弥へ《変貌症》が伝染しないと、そんな事があるわけがないと考えているらしい。華弥は《変貌症》であるマサトへ密着しているにも関わらず、だ。

 華弥は「どういう事?」とマサトへ確信する理由を問う。

 しかし、

「――そうだな。理由は……言いたく、ないや」

「え?」

「話すと長くなる、し。あと、出来れば知らないで、欲しい。……特に、華弥には」

 誤魔化すように、マサトはいびつな笑みを作る。

 短い間とはいえマサトを見つめ続けていた華弥には判る。

 それは明確な、拒絶の意思だった。

「そんな、事より。早く逃げるんだ、華弥。……また、華弥が捕まって、酷い目に遭う所なんか、見たくないよ」

「で、でもマサト……」

「大丈夫だよ、華弥。ここまで、僕を一人で運んだんだろう? 一人で逃げる力を、華弥はもう持ってる。僕なんか、必要ないよ」

「いや……嫌だよ、」

「いいから、さっさとどっか行けよ! 電柱女、がっ」

 マサトの大声が廃マンションの部屋に響いた。頬から皮膚がズルリと落ちて、下から木目が現れる。

 罵倒する言葉に、迫力は感じられない。

 それは怒声というより、悲痛な叫びだった。

 マサトは小さく咳き込み、苦しそうにベッドへ身体を預ける。もう華弥の方へ首を回すのも辛そうだった。もう一度、あんな大声を出す余裕はないのだろう。視線だけで「去れ」と訴え続けている。

「ねえ、マサト……」

 悲しかった。

 けれど、それ以上に不可解だった。

 華弥はずっと胸の奥へしまい込んでいた疑問を投げかける。

「マサトの《生きる目的》って何なの? 私は貴方の《生きる目的》そのものなんじゃ、なかったの?」

「…………」

「一体――何を思って、私を助けたの?」

 返答があるまでは、随分と時間がかかったように思う。

 華弥にとっては気の遠くなるような時間の果てに、マサトは答えた。


「……自己満足のためだよ。君は、その、道具だ」



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