第一章 宇宙人の少女 (その1)
《キャラバン》の日から一ヶ月。
鬼の面をつけた少年マサトは、人狼の青年【一志】と、七つ眼の少女【ナツメ】、トカゲの頭に甲虫の身体を持つ【デカチー】の三人と行動を共にするようになっていた――
背後から『ベロリ』と、犬に舐められた。
それだけでマサトは全身がズブ濡れになってしまう。
それほどまでに、その犬の舌は大きく、ヨダレの量も桁違いだったのだ。幸い、鬼の仮面と顔の隙間にヨダレが染み込んで来る事はなかったが、着てきたシャツは大久利川に飛び込んだかのような有様だ。
そして舌が大きけりゃ当然、身体もでかい。
振り返って、マサトはその巨体を見上げ――ようとしたが、近すぎて顎しか見えない。
マサトは二、三歩離れてから、
「プチ……おすわり」
「わふッ」
嬉しそうに吠えただけで土埃が舞い上がった。
《プチ》が未だ二十年前のアスファルトが残る道路に腰を落とすと、それだけで『ズンッ』という衝撃波が地面を伝わる。一瞬、マサトは地面から軽く浮き上がった。
変貌症により体長が5メートルになったラブラドールレトリーバー。
それが《プチ》という犬だった。
名前と外見が一致していないのは仕方がない。きっと昔は『プチ』だったのだろう。
「おーおー、マサトも遂にプチの洗礼を受けたか」
崩れたブロック塀に腰かけて、一志が楽しそうに笑った。実際楽しいのだろう、銀の尻尾が左右に揺れている。
マサトとしては抗議しなくてはならない。
「……わかってたなら、先に言ってほしかった」
「なに言ってんだ。プチの洗礼を受けたって事は、プチに仲間だって認められたって事だぞ」
「そーそー。それに、そんなにイヤなら避ければ良かったじゃん」
一志の言葉に乗っかったのはナツメだ。
ねー、とプチの巨体に抱きついてクリーム色の毛皮に顔をうずめている。ナツメは相も変わらず、袖が余る程大きなトレンチコートにコゲ茶のキャスケットだ。もうすぐ秋口とはいえ、手袋までして暑くないのだろうか。
「無茶言わないでくれよ。僕はナツメみたいに背中に目がついてるわけじゃないんだから」
「そんなの関係ないじゃーん。プチが近づいて来て気づかないなんておかしーよ」
ねー、と毛皮をモフモフ。
いや、そうかもしれないが。そうかもしれないが……そうではないのだ。
マサトは『友達なら教えておいてくれても良かっただろう』という事が言いたいのだった。
そんな釈然としない表情のマサトを見て、一志がひと言。
「ま、とりあえず俺は見てて面白かった」
「ああ、そうだろうと思ったよ」
つくづく友達甲斐のない奴だ。
と、再びマサトの背後から何かが近づいてくる音が響いてきた。
しかし今度はプチではない。
「おーい、」
治安維持隊のジープだ。
ジープはマサト達の横で止まり、中から迷彩柄の変貌症防護服が現れた。あちこちにプロテクターが付いた治安維持隊仕様のゴツイものである。多神原の住民がよく健常者を『宇宙人』と揶揄するのは、この宇宙服のような防護服が由来らしい。
自衛官は「すまんちょっといいかな」と拝むように手で空を切りながら歩み寄ってくる。
何の用だろうか。補導されるような時間でもないけれど。
マサトが不思議に思っていると、近づいてきた自衛官は防護ヘルメットの向こうで意外そうな顔を浮かべた。
「なんだ、大友くんじゃないか」
「どもっす」
一志が親しげに片手を上げ、半壊したブロック塀から飛び降りる。そこでマサトもようやく気づいた。そういえば、この自衛官とは先週も東部の街道で会ったばかりだった。名前は『川崎』とか『横浜』とかそんな名前だったはずだ。いや『横須賀』だったかもしれない。とにかく海辺の名前だ。
「……」
下手な事は言わず一志に全部任せよう。そうマサトは決めた。
ふとプチの足元にいるナツメを見やると、えらく真剣な顔で肯かれた。
どうやらナツメも名前を忘れているらしい。
「珍しいね、こんな西部の街道まで出てくるなんて。散歩?」
「はい、コイツの」
一志は親指で隣に聳え立つ足を指す。
プチも自分の事だと分かったのか「わふ」と小さく鳴く。その息だけでも小柄なマサトは吹き飛ばされそうになる。
恐らくこの男も、あまりに大きな犬を見て危険を感じたのだろう。
そう思ってマサトが男を見ると、男はプチの顔を仰ぎ見て、
「いやあラブラドールかあ。可愛いねえ」
と破顔していた。
流石、多神原で働く男である。体長5メートルの犬くらいでは驚きもしないらしい。
「もう奇種登録は済んでるのかい?」
「ええ」
飼育している動植物が変貌症に罹った場合、管理事務局という所へ届け出ることになっている。それが奇種登録だ。疫病の心配も無い多神原で何故、届け出が必要かは誰も知らないが大抵の場合は登録している――らしい。全て、一志からの受け売りだ。
「じゃあ登録カードを見せてくれ」
「いいですけど、」一志はフライトジャケットのポケットを探りながら「なんでまた? 前はそんな事してなかったっすよね」
「ああ、それなんだが……」
男は一志が差し出した登録カードをジープに残った自衛官に渡して、
「いや最近、野生動物の変貌症罹患率が高くなってきててね。それで危険と判断された動物を駆除してるんだけど、うっかり飼い犬や猫まで駆除しちまったら問題だろ? だから、どこでどんな動物が飼育されてるか調査する事になったんだよ」
「野良の変貌症ってそんなに増えてるんすか?」
「知らなくても仕方無いさ。主に北部の廃墟での話だからね。東部や南部にはあまり関係のない話だよ」
「へえ。出島さんもその駆除に?」
マサトは心の中で『ポン』と手を打つ。そうそう『出島』という名だった。
背後で「おお」という声が聞こえてナツメの方を見ると、こちらは実際に手を打っていた。出島本人へ隠す気はないらしい。
一方、出島という自衛官は一志の質問に首を横に振り、
「いや、それが自分達にはそういう命令は出てないね」
「へえ? そうなんすか。でも『危険』って判断されるくらいなら治安維持隊クラスの装備がないとマズイんじゃ」
「ま、そういう事に税金かけたくないんだろうな。駆除は多神原の民間企業に委託してるよ。古い装備ごと貸してね。その方が安上がりだし」
「陸士長」
何らかの確認が終わったらしく、ジープの中に残っていた自衛官が出島へプチの登録カードを手渡す。受け取った出島も「ありがとな大友くん」と笑って登録カードを一志に返そうとし、
「ん? この石島兜っていうのは君?」
と、マサトの鬼面に視線を向けた。カードの氏名欄に記された《石島兜》という名から、あたりを付けたのかもしれない。多神原では外見に合わせて名前を付けるのが一般的だからだ。《七眼》など最たる例だろう。
けれど、この場合の《兜》は違う。
マサトが首を横に振ると、出島は眉をひそめた。
「じゃあ……誰かな? そこの彼女は中村ナツメちゃん、だよね」
「そうでーす、キラッ☆」
七つの目の内、左顔面の六つを閉じてウィンクを飛ばすナツメ。そしてピース。
実にあざとい。――だがそれは可愛いのだろうか。
「いやあ、いつも可愛いねえナツメちゃんは」
出島の頬は緩んでいた。流石、多神原で働く男。
でもそいつ、貴方の名前忘れてましたよ。
「飼い主は今ちょっと出かけてるんすよ。俺等は代わりに散歩してるだけっす」
一志が横目にナツメを見て、苦笑しながら答えた。
「ああ、そうなんだね。この石島君って自分も会った事あるかな?」
「もちろん。それ《デカチー》っすよ」
そう《石島兜》はデカチーの本名である。
兜の部分は、デカチーの蜥蜴頭と甲虫の身体を指しているのだ。
「ああ、なんだ。彼が飼ってるのか。じゃあまた生態調査とかで帰ってこないのかな?」
「彼……ね。まあ、そんなとこです」
「ハハ。彼の将来が楽しみだ。それじゃ、またな大友くん。ナツメちゃんと、えー……」
「マサトです」出島の意図を察してマサトは名乗る。
「マサトくん、か。また会った時はよろしくな」
軽く手を振って、出島はジープに乗り込み走り去っていった。
土煙をあげながら遠ざかるジープを眺め、一志が「さて」と口火を切った。
「そろそろ捜索を再開しますか」
マサトもナツメも黙って頷く。
捜索するのは、僕らの友人。
デカチーが失踪してから二週間が過ぎていた。