第三章 塀の外へ (その6)
華弥は眼前の光景を信じられずにいた。
幻かと思った。
だが目の前にいるマサトは確かに存在している。幻であれば華弥の両手足にはめられた手錠を、こうして外す事などできるはずがない。見れば、どこで手に入れたのかマサトは手錠の鍵を持っていた。
「さ、華弥さん早く」
マサトが華弥を立ち上がらせようと手を伸ばす。
華弥は自分でも判らないうちに、それを払いのけてしまった。マサトが呆気に取られたように目を見開く。華弥も自身の手を見つめ不思議に思う。
だが理由は簡単だった。
助かったと思った途端、思い出したのだ。
この少年が、自身の友人を撃ったという事を。
「マサトくん、どうして?」
「え? いや、助けようと――」
「違う。違うよ。どうして、どうして?」
華弥はつっかえながら、言葉をひねり出す。
「どうして、一志さんを撃ったの?」
「皆を助けるには、ああするしか無いと思ったんだ」
「助ける……?」
「うん。一志が着てたジャケットがあるだろ? あれって防弾チョッキみたいなものらしいんだよ」
マサトの言葉がよく飲み込めない。まだ思考が上手くまとまらない。
華弥の事情を察したのか、マサトは少し考えてから付け足した。
「一志に死んだフリをしてもらおうと思ったんだ。一志なら、僕の意図を察してくれるだろうし。あのジャケットが防弾チョッキなら本当に撃っても死なないし。……正直、賭けだったんだけどね」
そうマサトは苦笑する。
それでも、華弥はまだ信じられない。
「一志さんから、聞いたの? 防弾チョッキの、こと」
「いや違う。デカチーからだよ」
あの――剥製にされた僕の友達だ。とマサトは言った。
マサトは少し言いづらそうに、デカチーが一志について調べあげていた事を話した。要は本人に隠れてストーカー行為に及んでいたのだと。それをデカチーは、マサトの素顔を知ってしまった代償として教えてくれたという事だった。
「友達を『あんな化物』って言うのは嫌だったけど。……死ぬよりは、マシだろうからさ」
「じゃあ……じゃあ、」
考えがまとまらない。
どうやらマサトは友達を裏切ったわけではないというのは判った。あの廃墟での行動は全て演技で、友達を助ける為に仕方なく取った行動なのだと。
しかし、
とにかく信じるのが怖かった。この少年を信じて、頼りにして、またあの時みたいに裏切られたくなかった。だから全ての疑いを晴らしておきたい。
おきたいのだが、その『疑い』がなんだったのか華弥は思い出せない。
華弥は何度も「じゃあ」を繰り返す。
そしてマサトは辛抱強く、華弥の言葉を待ってくれた。
「じゃあ、どうして私を助けに来たの? 私の事はどうでも良かったんじゃないの?」
出てきた言葉はそれだった。
二週間以上も座敷牢に監禁されたからだろうか。早く助けて欲しいと願い続けてきたからだろうか。どうしてもっと早く助けに来てくれなかったのかと。あの廃墟でどうして私を連れて逃げてくれなかったのかと。そんな身勝手な思いを言外に訴えていた。
だが、そんな理不尽な責めにもマサトは笑って答えた。
「ごめん。あれからすぐには塀の外に出られなかったんだ。本当はもっと早く来るつもりだったんだけど、僕に力が無かったせいだ。本当に、ごめん」
マサトはゆっくりと、華弥の手を両手で包み込むように握った。
「華弥さんはその――僕にとって生きる目的そのものなんだ。だから、助けに来た」
頭が真っ白になった。
何も考えられない。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、嬉しかった。
「うぁぁ――ぁあああああっ……」
嗚咽と涙がいっぺんに溢れてきた。
マサトに倒れ込むようにして泣き喚いた。それを自分よりも二回りも小さい少年の身体が支える。そっと、優しく抱きしめられた。
それが華弥は情けなくて、けれど嬉しかった。
「さあ、華弥さん。早く逃げよう」
華弥が少し落ち着いたのを見計らって、マサトが立ち上がった。華弥はマサトの腕を名残惜しく追ったが、それが恥ずかしくなって慌てて手を引く。二週間以上、立ち上がる事がなかったせいで両脚の筋肉が強張りふるふると震えながら、華弥は一人で立ち上がる。
マサトは華弥を見上げて微笑んだ。
その笑顔が、
「どっこに行くのか――なッ!?」
横へ吹き飛んだ。
横合いから投げつけられた何かが、マサトのこめかみに直撃したのだ。
たまらず倒れるマサト。頭を押さえ立ち上がろうとするが、それよりも早く何者かがマサトに飛びかかり押さえつけた。
柳瀬十河だ。
「まったく、やってくれるね君は。何か企んでるとは思ってたけど、随分と早いじゃないか。三日坊主はよくないなあ、マサトぉッ!」
十河が振りかぶったのは、暖炉の火掻き棒だった。
座敷牢の上に建つ洋館から持ってきたのだろう。先端には僅かに赤黒いものが付着している。先ほど投げつけたのはコレだったらしい。再び、これがマサトの頭へ振り下ろされれば、無事では済まない。
「やめ――ッ」
華弥は、十河が振りかぶる火掻き棒へと飛びつく。
しかし十河は華弥の体重など意にも介さず、火掻き棒を振り下ろした。
プラスチックの箱を潰したような音と共に、赤黒い何かが飛び散った。
華弥の口へ、その何かが飛び込んでくる。
思わず、飲み込んでしまった。
鉄っぽくて、少ししょっぱくて――赤黒いムースのような何かを。
「げぇ――、げほっ、おろげぇ――っ」
華弥は十河から飛び退き、その何かを必死に吐き出そうとした。四つん這いになり、ひたすらに殆ど空っぽの胃の中身を吐き出し続ける。何かの正体は考えない。考えてはいけない。
ただ、飲み込んでしまった何かは吐き出さなくてはならない。
「うわあ……汚いな」
十河の影が立ち上がった。
華弥は声のした方向へと視線を向ける。前髪の間から覗く座敷牢は薄暗くて、十河の姿はよく見えない。
それでも、何かが十河の足元に転がっている事だけは判った。
華弥は慌てて周囲を見回した。そして座敷牢にもう一人転がる人影を見つける。首には小刀。つまりあれは私を買ったと言った警察官の死体だ。再び、視線を十河の足元へ戻す。
つまり、あそこにある人影は、あの警察官ではない。
では誰の人影だろうか。暗くてよく見えない。黒い影にしか見えない。頭があるはずの部分が、割れた卵のように潰れているのは何故だろうか。
そういえばマサトは、何処へ行ったのだろう。
「あーあ。もう、買い手を殺しちゃってどうするんだい」
十河が華弥の横にしゃがみ込んで言った。
「お前が生きてるのは、彼のお陰なんだよ? 本当ならバッサリ縁切り――というか、いなくなって貰って良かったんだ。それを――はあ……。こんな大きくなってからじゃ、ろくな買い手がつかないじゃないか」
顔を横へ向けると、十河の顔がそこにあった。返り血を浴びて、顔の半分が鮮やかな赤に染まっている。
「どうしようかな。ここで殺しちゃった方が、まとめて処理出来るから効率がいいか。片瀬も来てる事だし、その方がいいな」
よっこらしょ、と気の抜けた声と共に立ち上がり、十河は火掻き棒を振りかぶった。
華弥は断頭台に乗せられた囚人のような気持ちで、火掻き棒を見上げる。
逃げようと思えば逃げられそうだった。
しかし華弥には逃げようという気持ちはおこらない。
振り下ろされる鉄の塊。
「――待、て」
それが、半ばで掴み取られた。
十河の横に、マサトが立っていた。
こめかみから滾々《こんこん》と湧き出す血をそのままに、十河の持った火掻き棒を掴んでいる。
「ありゃ?」
十河が意外そうにマサトを見下ろす。
「え、なんで生きてるの?」
「知らないよ、そんな事」
「……そ。じゃあ、もう一回死んでください――なっ」
火掻き棒に絡むマサトの手を振り解いた十河が、三度、マサトへ火掻き棒を振りかぶる。
しかし、
「そう何回も――」
十河の動きが止まった。
マサトが十河の身体に寄りかかるようにぶつかった途端に、だ。
見れば、マサトの手には小刀が握られていた。
それは十河の腹に半ばまで刺さっている。
「殺されてたまるか、この人殺しが!」
十河が火掻き棒を取り落とす。
マサトが小刀を引き抜くと、十河は腹を押さえてヨロヨロと後ずさった。
「……え? なんだ、これ」
「長々と口上垂れてるからだ。普段のあんたなら気づいただろうに……」
十河が華弥に気を取られているうちに、マサトは警察官の男の首に刺さった小刀を抜いていたらしい。確かに、十河がそれに気づかなかったというのは不思議だった。華弥の中にある十河のイメージとは合わない。
何か動揺するようなことが、あった――のだろうか?
「華弥さん、行こう」
マサトが差し伸べた手を、華弥は縋りつくように両手で掴み取る。
死んだと思ったのだ。
あんな風に頭が半分もへこんでいたら誰でも死んだと思う。でもきっと見間違いだったのだろう。口に飛び込んできたものも血以外の何かだと思ったが、突然の事で勘違いしたのだ。
そうに違いない。
勘違い――勘違いなのだ。
良かった。勘違いで本当に良かった。
華弥はマサトに手をひかれ、座敷牢を後にする。
マストは座敷牢を出ると、牢の柵を閉じて鍵をかける。鍵は柵のこちら側の隅に投げ捨てた。
「てめえ……」
腹を押さえてうずくまる十河が、こちらを睨みつけていた。
視線だけでマサトを殺そうと力んでいるように見える。
「人間モドキが――ッ! ちくしょう、殺してやる。ボクは柳瀬十河だぞ。人間モドキなんか全部壊してやる」
「…………華弥さん」
マサトは十河の恨み言を無視して、華弥の手を引いて地上へとあがる階段へと向かう。
華弥が振り返ると、未だ十河がこちらを睨みつけていた。
だが、口から漏れる言葉はマサトや華弥に向けたものではなかった。
「ボクは、死なない。死ぬわけにはいかない。でなくちゃ、アイツが死んだ意味が……」
◇ ◇ ◇
座敷牢の上には小さな洋館が建っている。その周囲には洋館とは不釣り合いな漆喰の白塀が巡らされていた。まるで洋館の存在を隠すような高い塀。
華弥はその塀を見て、母親と暮らしていた屋敷の事を思いだした。嫌な思い出が甦る。
「お早い帰還で」
唐突に声をかけられ、華弥は身をすくめた。
声の主は、眼鏡をかけた、黒いスーツの男。
片瀬だった。
華弥は思わず逃げようと後ずさる。だがそれを、マサトは「大丈夫」と手だけで制した。
「片瀬さんは味方だよ」
「みか、た?」
華弥は呟き、片瀬を見つめる。
眼鏡の向こうの視線は相変わらず感情を映していない。なのに、口元だけは華弥を安心させるようにほのかな笑みを浮かべている。
「片瀬さんが、ここまで連れてきてくれたんだ」
牢の鍵も、小刀も、用意してくれたんだ。とマサトは笑う。
華弥はマサトと片瀬が、テレビ画面の向こうにいるような疎外感を覚えた。
なんだろうか。これは。
「ところで、マサト坊ちゃま」
華弥の思考を阻害するように、片瀬がマサトへ声をかける。
「旦那様は、どうなりましたか?」
「生きてるよ。そんな急所を狙ったわけじゃないから、十河がちゃんと止血すれば助かるんじゃないかな。もし十河が死にたいと思ってるなら、傷口を広げるなりすれば良いし」
「……生きてるのですか?」
「うん、死ぬにしても苦しんで死んで欲しいし。そもそも殺したら、その死を背負わなきゃいけないじゃないですか。他の誰かならともかく、十河の死だけは背負いたくないですよ」
途端、片瀬の目の色が変わった。
眼鏡の奥の瞳に、初めて感情の色が灯ったのだ。
「何故、殺さなかったのですか?」
「いや、だから――」
「何故、殺してくださらなかったのですか? 何故、殺してくださらない。何故?」
「……?」
マサトも片瀬の異変に気づいたらしい。
眉をひそめて、華弥を護るように一歩後ずさろうとし――その両肩を片瀬に掴まれた。
身構えるマサトに、片瀬は普段の冷静さなど欠片も感じさせない程の狂乱ぶりで叫ぶ。
「何故殺して下さらない!? 何故、旦那様を救ってくださらない!? 貴方のような者でなければならないのです、貴方のように『心が死ぬくらいなら肉体の死を選ぶ』と言える者でなくては、旦那様を殺して差し上げられない。――いや」
そして片瀬は湧き上がる感情を、言葉に変える。
「旦那様を救う事などできないのに!!」
「離してください」
「どうして! どう――」
片瀬の言葉が止まる。
マサトが片瀬の首筋に小刀をそっと添えたのだ。
「片瀬さん。貴方が連れてきたんですね、十河を」
「……ええ、それが?」
片瀬はさも当然だと言うように認めた。
「言ったでしょう。『くれぐれも気を抜かないように』と」
「騙したんですね、僕を」
「騙してなどいません。貴方が勘違いしただけでしょう? 私は旦那様の事を裏切った覚えはありませんし、これからもしません」
「嘘は言ってないから騙していない、というわけですか。詭弁じゃないですか、それは」
「言ったでしょう。大人とはそういうものだと。旦那様が救われる為には手段など選んでいられません」
「救われる?」
「そうです!」
片瀬は首筋の小刀のことなど忘れたかのように叫ぶ。
「旦那様が『心を殺して実利を取る』ことを選ばざるを得なかったあの日。緋衣様を追放したあの時に旦那様の心は死んでしまった。自分が選んだ道を肯定し続ける為だけに生きるようになってしまった。どんなに苦しくても、旦那様は金と権力と名誉を得るためだけに生きなくてはならなくなった! 死ぬことも自身に許せないほどに!」
華弥は驚く。
母を追放したのは十河だとは聞いていた。だが、その事に十河が心を痛めていたとは思いもよらなかったのだ。小さい頃からろくに会ったこともなかったし、もちろん会話などしたことがなかった。今更そんな事を言われても困る。私にどうしろと言うのだ。
片瀬は続ける。
「旦那様を苦しみから解放できるのは、旦那様を否定できるのは――『心が死ぬくらいなら肉体の死を選ぶ者』だけッ! その者に殺されなければ旦那様は救われないのですから!」
「じゃあ、貴方が殺せばいい」
「私じゃダメなんです。私が殺しても、旦那様は救われない。私のように胸が空っぽな人形では。――実の娘である華弥お嬢様ですら、心が空っぽのままでは何も出来なかったのですから」
そこで片瀬は華弥へと視線を向けた。
「せっかくお母君の墓を教えて差し上げたというのに、お嬢様は自殺しようとなさいましたね。そうじゃない、そうじゃないでしょう! そこは旦那様への怒りを燃やし、復讐の為に動く所でしょう! これだから人間モドキは使えないッ!! ――――まあ、でも、あの狼の少年と知り合った事は上出来です。でなければ暗示などかけず、さっさと処分する所でした」
華弥は、片瀬が行った洗脳紛いの暗示を思い出した。
そうだ。あの時だけは、片瀬の眼にも感情が見えた。その熱気に押し潰されるように、私は十河を殺さなければと思い込んだのだ。そしてその方法まで、片瀬が言う通りにしたのではなかったか。
「そうですか。でも――」
マサトが、小刀を持たない左手で片瀬の腕を振り払った。
たたらを踏み、後ずさる片瀬の胸をマサトは正面から蹴り飛ばす。
「僕には関係ないです」
呆然とした面持ちで、片瀬が華弥よりも小柄なマサトを見上げていた。
その視線を切り捨てて、マサトは傍に投げ捨てられていたナップザックを拾い上げた。
華弥へ振り返り、
「当然、華弥さんにも、関係ない」
と笑った。
その笑顔が自身の中の何かを断ち切った事を、華弥ははっきりと感じた。
そして、マサトは片瀬を見下ろす。
「そんなに死にたければ、多神原へ行けばいい。あんた達を殺したい連中がやまほどいるはずだ。良かったじゃないですか。努力は報われますよ」
「あんな風に塀の中で飼育されている生き物では、旦那様を救えません」
「大丈夫。――あんた達もそんな上等なもんじゃない」
そう言い捨てて、マサトは華弥の手を取った。
だが、ふと何かを思い出したように「あともう一つ、」と口を開いた。
「誰かに認められなくても、僕等は自分が人間である事を知っていますよ」
さ、行こう。
微笑むマサトに手を引かれ、華弥はその場を後にする。
自身を縛り付けていた男たちを振り払い。
このマサトという名の小柄な少年と共に。
華弥は塀の外へと、駆け出した。