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ヒトになるまで待ちましょう  作者: 忍野佐輔
第三章 塀の外へ
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第三章 塀の外へ (その5)

 華弥かやが繋がれていたのは、座敷牢ざしきろうのような場所だった。

 広さ十畳の和室。しかし両手足と石壁を鎖で繋がれ、その十畳すら満足に動けないほど行動が制限されている。お陰で座敷牢のさくにも近づく事もできない。衣服は閉じ込められて以来ずっと白いワンピースのまま。風呂にも入れない為、多少は自慢に思っていた黒髪も痛んでガタガタだった。もしここに鏡があれば、伸ばし放題の前髪も手伝って呪いのビデオから出てくる怨霊おんりょうのような姿が確認できるだろう。

 流石に牢の中にはトイレがあり、糞尿垂れ流しという事態にはならなかったが、そんな事態を想定し『まだマシ』と自分自身に言い聞かせている事に華弥かやは嫌気が差す。

 もう随分と長い間、ここに拘束されていた。

 窓が無い為、時間の感覚は屋敷に軟禁されていた頃より更に薄い。一応、日に二度与えられる食事の回数から、多神原たがみはらから出て二週間以上経った事だけは判る。しかしそれ以上は何もわからない。座敷牢ざしきろうの唯一の灯りは小さな電気ランタンだけ。毎度食事を運んでくる人物の顔すら見えなかった。

 しかし何も判らなくとも、考える時間だけは沢山あった。

 考えたくもないのに、思い出すのだ。

 華弥の脳裏には何度も多神原たがみはらでの出来事が浮かび上がる。父親を殺す為、巨大な犬の背中に乗って駆け回り、スーパーの廃墟に忍び込んで、そして捕まった。あの時『自分の気持ちを知りたい』などと言わなければ、こんな事にはならなかっただろうに。

 確かに知った。自分の気持ちは知った。

 私は――柳瀬やなせ十河とうごを殺したいなどと思ってはいなかった。

 そこまでの興味を、柳瀬十河に抱いてなどいなかったのだ。

 実感が湧かないのだと思う。父親が、母親を死に追いやり娘を屋敷に閉じ込めるなど。それを実行した姿を見たわけでもない。実行したのは十河の部下達だった。

 そして何より、ろくに会話もした事がない相手を恨むなど出来なかった。

 今ならわかる。私は『十河を殺したい』と思わされていたのだ。

 執事の片瀬かたせに何度も言い聞かせられた。

『柳瀬十河はひどい男だ』『彼は誰かが殺さなくてはならない』『彼を殺すのは彼に恨みがある人間であるべきだ』『君は母親を死に追いやられた。君は柳瀬十河を殺すべきだ』『母君のかたきを討つんだ』『母君も君に復讐して欲しいと望んでいる』『どうして行動しない。どうして柳瀬十河を殺さない』『同じく柳瀬十河を殺したいと思っている者が多神原たがみはらにはいる』『彼らに協力を頼むんだ』『皆で柳瀬十河へ復讐するんだ。それが人間として正しい在り方だ』

 ――さあ、早く殺すんだ。

 思わず華弥かやは両手で耳を塞いだ。

 また、耳元で囁かれた気がしたのだ。私を――私自身を奪われたくない。あんな滑稽な事なんて他にない。もう自分自身を失いたくない。

 と、

 華弥の胸に一つの疑問が湧き起こる。

 じゃあ、私って何? 私は何をしたいの? 何を望んでいたの?

 問いかけるが――――答えは返ってこない。

 シャラリ、と鎖の音が座敷牢ざしきろうに小さく響いた。

 華弥は自身の腕にめられた手錠と鎖を眺めて思う。

 誰か教えて欲しい。私が誰なのか。

 華弥の脳裏に一人の少年の姿が浮かび上がった。

 マサト、と名乗った少年。

 友人を化物と呼んで殺し、柳瀬十河に取り入った少年。

 そして――私の自殺を止めた、あの少年。

 彼なら教えてくれるだろうか。私が誰なのか。

 そこまで考えて、華弥は自分の思考に戦慄せんりつする。

 あの少年は、自分の友人を殺したのだ。目的の為なら手段を選ばない、冷徹れいてつで心の無い少年なのだ。そんな少年を、私はまだ頼りにしているのか。

 そう問いかけると――今度はすぐに答えが出た。

 頼りにしている。

 助けに来て欲しいと願っている。

 あの少年を欲しているのだ。理屈ではない部分で。

「――ふふ、あはは」

 笑いが込み上げてきた。

 これは自嘲じちょうというものだろうか、と華弥は思う。初めて知る感情だ。自分の愚かしさをわらった事など初めてだ。なんだか凄く楽しい。

 と、

 遠くから光が射し込んできた。

 座敷牢へと続く扉が開いたのだ。

 華弥は気にも留めない。少し早いが夕食の時間なのだろう。餌を与えなければペットは死んでしまう。ただそれだけの理由で与えられる食事だ。与える側も、単なる作業としか思っていないのだ。

 だから、

「楽しそうだね、華弥かやさん」

 その言葉を聞いた時は驚いた。

 途端、座敷牢の外で灯りが点った。華弥は顔を上げる。だが暗闇に慣れた目では逆光の中に立つ何者かの姿は黒い影にしか見えない。誰だろうか。半ば思考を停止させたまま華弥は声の主を見つめる。

 そして、何者かは座敷牢の柵を開けて、中へと入ってくる。

 まだ姿は見えない。だが、自分を『華弥さん』と呼ぶ人物はそう多くない。

 華弥は自身が期待しているのを感じた。

 もしかして――。

「久しぶりだね」

 そして目の前に現れたのは、見覚えの無い中年の男だった。

 グレーのスーツを着た、恰幅かっぷくの良い男だ。人の良さそうな顔で華弥を見つめている。華弥の目の前で膝をつき、こちらの顔を覗きこんでいた。

 優しげに微笑んでいる。

 なのに、何故か嫌悪感けんおかんを覚えた。

「覚えてるかな? 四、五年前に一度だけ会ったよね?」

「……?」

「あー、忘れちゃったかあ。ま、それならそれで良いんだ。改めて自己紹介をしようか」

 男の手が、華弥かやの長い黒髪を愛おしそうに梳いていく。痛んで絡みあう髪は丁寧に少しずつほぐし、それを終えると華弥の頬に手を添えて肌の弾力を楽しむようにもてあそんだ。

 そして顎を軽く掴んで上へ向けさせた。

 男が唇を近づけてくる。

「い、ゃッ」

 華弥は反射的に顔を逸らし、男を押し返そうと両腕を突っ張った。

 途端、男の表情が急変する。

「言うこと聞けよこのアマ!!」

 思い切り、頬を殴られた。平手などではなく、拳だった。

 倒れた華弥の身体を追って、鎖がジャラジャラとけたたましい音を響かせる。鼻の奥からツンとする刺激を感じ、遅れて頬に焼けるような熱さを覚えた。揺れる視界がまともな映像を映し出したのはその後だった。

「あ、ああああ……。すまん、ごめんよ、華弥さん。何処か怪我はしていないかい?」

 男はねこなで声を出して華弥を案ずるような事を言う。何を言っているのだろうと華弥は思った。自分でやったくせに、何が『怪我はしていないかい?』だ。わけがわからない。怒りよりも疑問の方が先に立つ。

 男は四つん這いになって、畳の上に倒れる華弥へと近づき、そのまま覆い被さった。

「綺麗になったねえ、華弥さん。ついこの前まで小学生だったと思っていたけど、もう立派な大人の女じゃないか」

 男の手が再び頬を撫でる。

 だが、華弥は抵抗する事が出来なかった。

 また殴られると思った。あの痛みがまた襲ってくると思うと、何も出来なかった。

「さあ、こっちを向いてくれ華弥さん」

 震えながら、華弥は男の顔を見据える。

 とても楽しそうな笑みを浮かべていた。

 ようやく思い出した。この男は、まだ華弥が屋敷で軟禁されていた頃に一度だけ訪れた警察官だ。恐らく、交番にいるような下っ端ではなくもっと上の立場に居る官僚か何かだろう。でなければ十河がわざわざ連れてくるはずがない。

 男は華弥の頬を、うなじを、肩を、胸を、腰を。ゆっくりと形を確かめるよに撫でまわす。

「可愛いねえ華弥さん、本当に可愛い。ここを逃げ出したと聞いた時には焦ったものだけど、良かったよ十河さん自ら連れ戻してきてくれて。僕の可愛い華弥さんを」

「あ、なたの?」

「そうだよ。僕が買ったんだ。十河さんに『純潔を保ったまま欲しい』と何年も前に頼んでね。十河さんは流石だ。ちゃんと君が大きくなるまで屋敷から出さずに育ててくれた。まあ、その養育費は僕が出したんだけどね。でも……それだけの価値はあったみたいだ」

 男の手が、華弥の衣服を脱がしにかかる。

「や、やだ――やめ」

「大丈夫だよ、まだ本番はしない。それは帰ってからだよ、華弥(かや)さん」

 助けて。

 マサトくん、助けて。

 もうどうでも良かった。友人を殺した事も十河に取り入った事も。それは些細な事だった。

 助けて。助けて。助けて。

 早く、マサトくん。

 私を助けて。

 男の手が華弥の両脚へ伸び、開かせようとする。

「さあ、見せてくれ。本当に生娘きむすめのま――」

 唐突に、男の言葉が止まった。

 それどころか男の身体から力が失われ、半ば華弥に覆い被さるように倒れる。

 反射的に華弥がその身体を押し返すと、何の抵抗もなく横へと転がった。

 華弥は状況を理解出来ぬまま、男の身体を見つめる。男と目があった――が、男は華弥を見ていない。違和感を覚えて目を凝らすと、その首には小刀が突き刺さっている。

 男は死んでいた。

 そして、

「――華弥かやさん、だよね?」

 華弥はその声を聞いた。

 何故だろうか。同じ言葉のはずなのに、彼の声で聞くと心が高揚こうようする。幸せになる。

 顔を上げ、華弥はようやくそばに立つ少年の姿を認めた。

「ああ、良かった。その目は華弥さんだね。――ゴメン、防護服ナシで会うのは初めてだったからさ」

 何度も名を呼んだ少年の姿を。

「助けに来たよ」

 マサトはそう優しく笑った。



◇ ◇ ◇



「貴方の言葉は軽すぎる」

 片瀬かたせはそう言って――拳銃をベンツへと向け引き金を引いた。

 撃ち抜いたのは、運転席左手に搭載された『自動運転機能オートドライブシステム』のコンソールだった。

 何を、とマサトが問う前に片瀬はひねりあげていたマサトの手を放す。そしてハンドルを握り、コントロールを失って蛇行だこうし始めていたベンツを立て直した。

「――でも、その歳で気づけたのなら、上出来でしょうね」

「……何故?」

「ああ、いえ、ここから先は誰にも聞かせられませんからね。まったく、盗聴器なんか誰が付けたんでしょうか……」

「は?」

「ここですよ。このオートドライブの機械に盗聴器が隠されていたんです。ま、もう何も聞こえないでしょう。どうも最近、私や旦那様の行動を探っている者がいましてね……。多分、身内だとは思うのですが……」

 そう言って片瀬はズレた眼鏡を直し、それきり黙ってしまう。

 マサトは片瀬の行動の意図を問おうとして、気づいた。

 周囲の景色が、都会のものから山道へと変わっていた。

 マサトが軟禁されている屋敷は、ごく普通の住宅街の中にある。もちろん周囲には裕福な家庭の家ばかりだったが、こんな山奥ではなく街からも近い場所にあったはずだ。もちろん料亭へ行く時にも、多神原たがみはらからやって来る時にもこんな場所は通っていない。

「今日が頃合いだと思っていたんです」

 マサトが周囲の様子に気づいたのを確認して、片瀬は口を開いた。

華弥かやお嬢様が引き取られるのは明日。貴方とお嬢様を引き合わせるとしたら、今日が最も適している」

 状況が理解できない。

 まるで片瀬は、マサトが華弥を助け出すのを手伝おうとしているようだった。

 マサトはバックミラーに映る片瀬を見つめる。

「マサト坊ちゃま。これから貴方には華弥お嬢様を助け出して頂きます。今向かっているのは華弥お嬢様が監禁されている別荘のような場所です。そこの地下室に、お嬢様がいます」

「片瀬さん、あんた……」

 最初からそのつもりだったのか。

 視線で問うと、バックミラーの向こうで片瀬がうなずいた。

 一気に力が抜けた。マサトはため息を吐いて座席へと身体を預ける。

 とんだ茶番。とんだ道化だ。

 これでは僕が馬鹿みたいではないか。甘い、と言われても仕方がない。

「これをお返ししておきましょう」

 片瀬はダッシュボードから何かが詰められたナップザックを後部座席へと放る。

 受け取ったナップザックを開いてみると、中には鬼の仮面と朱色の小刀があった。他にも細々としたものが入っている。その中の一つは財布で、かなりの額の《にほんえん》が入っていた。

「説明はしません。ご自由にお使いください」

「……はい」

「そして、くれぐれも気を抜かないようにして下さい。《《くれぐれも》》、ですよ」

「ええ。――でも片瀬さん、こんな事していいんですか? こんな十河を裏切るような事して」

「何を言っているんですか? 私は旦那様の事を裏切った覚えはありませんよ」

 大穴の空いた『自動運転システム』のコンソールを指して、片瀬は笑った。

 誰にも知られていなければ、裏切っていないのと同じ。そういうことだろう。

「ずるい、ですね」

「大人とはそういうものでしょう」


 マサトが座敷牢へと踏み込んだのは、それから十数分後のことである。

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