第三章 塀の外へ (その3)
『――から既に二十年の時が過ぎました。《多神原型進行性全身変異症候群》――俗に《多神原病》として知られるこの病の治療法は、未だ確立されておりません。当時の政府は多神原そのものを隔離し《多神原保護区》とする事でこの不治の病を封じ込めました。ですが、結果として多神原病患者への偏見や差別を生むことにつながりました。それは多神原保護区が隔離されているが故に、多神原病に対する知識とその理解が遅れていることに原因があります。それは今日に至っても改善されてはおりません』
四角い箱の中で身なりの良い男が、神妙な面持ちで語っていた。
これが《テレビ》というものだと、マサトは既に片瀬から聞いて知っている。
『本日は《多神原病》に対する理解を広める為、局の総力を結集し、特番を送らせて頂きます。司会は私、真藤忠彦。コメンテーターにはT大学名誉教授である――』
マサトはぼんやりと、そのテレビ番組を眺めていた。
それ以外、する事がないのだ。
この屋敷に来て既に三日。
柳瀬十河は一度も顔を見せていない。
屋敷の中も探索し終えてしまった。屋敷の外に出る事は許されない為、それ以上は何も出来ない。黒服の男たちが皆、拳銃を携帯している事がわかってからは、屋敷の門扉へ近づく事もやめた。
代わりにマサトは、こうしてテレビを眺めている事が増えた。
その方が様々な情報が得られるからである。
何故、こんな便利なものが多神原には無かったのだろうか。
『――ということでしたが、栗屋先生。《多神原病》は、一体どのようにして進行するのでしょうか?』『そうですねえ……病魔進行のイメージとしては癌などの悪性腫瘍が近いかもしれません。肉体の変貌が徐々に他の場所へ転移していくわけですし』『なるほど』『もちろん細胞異常などでは説明出来ない変化が起こりますから、あくまでイメージです。癌のように変質した細胞の切除などでは《多神原病》に効果がありません。それどころか「変貌した腕を切除した所、新たに腕が生えてきた」などの報告もあります』『なんと。まるでトカゲの尻尾ではないですか』『ええ。《多神原病》の大きな特徴は発症者の肉体の損傷を《変貌》によって治癒してしまうという所にありまして――』
お陰で色々な事を知った。
この媒体の便利な所は、あらゆる分野の大雑把な情報を得られる事だ。もちろんテレビの向こう側にいる人間の感想なども混じるし、単一の事柄について大げさに表現してしまうきらいもあるが、その辺りは自分で見極めればいい。番組の全体の流れを把握すれば、それも割合簡単にできる。
他にも『コマーシャル』というものが、マサトは気に入っていた。
なんというか夢があるのだ。流石、塀の外。流石、未来都市。そういうものが沢山ある。多神原では治安維持隊くらいしか持っていない自動車にも様々な種類があって、それらの殆どには「こんぴゅーたせいぎょ」で「おーとどらいぶしすてむ」なるものが搭載されているらしい。
意味はわからないが、なんとなく未来っぽくて好きだった。
テレビの向こう側で栗屋教授が『同感です』と笑った。
『つまり即死に至るような肉体の損壊さえ無ければ、不死身とも言えるわけです。毒物を浄化し、病魔を駆逐する。これだけの事を出来る《変貌症》を解明できれ……失礼』
栗屋教授が、自らの失言を取り繕うように咳払いをした。
塀の外では《変貌症》を《多神原病》と呼ばなくてはならないらしい。
テレビが言うには《変貌症》と呼ぶのは人権に配慮が足りないのだという。塀の外ではそういった事に敏感らしく、家族が多神原に住んでいる――つまり身内に変貌者がいるだけで政府から補助金というものが出るのだという。それも『配慮』の一つだとか。
もちろんそういった特別扱いには反感を持つ者も多くいて、補助金制度の取り止めを求める運動もある。その上、身内に変貌者がいる人の住所を勝手に公開し嫌がらせを煽る者もいるのだという。逆に、そういった『嫌がらせ』を諫める団体も数多く存在する。
『――つまり多神原病研究者の間では《t要因》と仮称される……ああ「t」は|transformationの略です。ともかくその「何か」が多神原保護区には存在し、人間などの生物に限らず無機物にも影響を与え続けているわけです』『無機物というと……つまり私が今使っているマイクなども変貌するという事ですか?』『ええ、可能性はあります。まあ今のところ――』
何にしても、変貌者自体の処遇に関しては特に不満はないのだろう。
いや、あえて触れないようにしているのかもしれない。
《変貌症》は不治の病。進行を遅らせる事すら不可能。原因も不明。発見から二十年経った今でも感染拡大を防ぐのがやっと。患者に触れただけで感染し、多神原においては防護服なしで一秒でも過ごせばアウト。
未だ《変貌症》という病は、塀の外の人間にとって恐怖の対象なのだ。
穿った見方をすれば――《多神原病》などと言い換えるのだって「あれは多神原にしかない病気であり自分達には関係ない」と彼ら自身を誤魔化したいからなのかもしれない。
『――多神原ではあらゆる物に《t要因》が蓄積するにも関わらず、何故、人間や動物だけが《多神原病》を発症するのでしょうか?』『それには生物が持つ「脳」が関係しています。先ほどのVTRにもあった通り、物質は一定の期間を経てから吸収した《t要因》を放出し始めるわけです。と、同時に《t要因》は脳によって増幅される事がわかっております。物質が一度に放出できる《t要因》の量は決まっておりますから、その余剰分が肉体へ影響を及ぼし発症する――わけですね』『という事は、放出される量よりも多くの《t要因》を物質に注入すれば生物でなくとも変貌が始まるのでしょうか?』『ええ理屈では。――またその部分に《多神原病》治療の鍵があると考えられております』『と、言いますと?』『つまり放出量ないし消費量を極限まで高めれば、体内に蓄積した《t要因》が失われ変貌が止まるという事です。それどころか自然治癒する可能性も――――』
部屋の扉がノックされた。
マサトはテレビのスイッチを切り「どうぞ」と声を張り上げる。
部屋の主の許しを得て、片瀬が洋室の中へ入ってきた。
軽く腰を折って、告げる。
「坊ちゃま。旦那様がお呼びでございます」
その日、マサトは初めて屋敷から出された。
と言っても、出た途端すぐに黒塗りの車――ベンツというらしい――に乗せられ、繁華街から少し離れた場所の料亭に連れて行かれただけだ。が、外に出た事には違いない。しかしショックだったのは、窓から見える景色が普通だった事だ。せいぜい『手入れの行き届いた東部の多神原』といった感じで、そこまで珍しいものではなかった。高層ビル群も多神原の塀よりは小さいのだから迫力が足りない。
現実には夢がないと、マサトはつくづく思う。
そして、マサトにとっての現実が料亭で出迎えた。
「おお、久しぶりだなマサト。元気だったかい」
いつの間にか呼び捨てになっていた。
二週間と三日ぶりに再会した柳瀬十河はセーターにチノパンというラフな姿だった。常に笑っているような顔の作りと合わさって『人当たりの良いお父さん』といった風情を醸し出していた。
だがマサトは、切れ長の目の奥に潜む狂気を知っている。
「はい、柳瀬さん。お久しぶりです」
「なんだマサト? もうボク等は家族なんだから、そんなかしこまる事はないんだ。もっと気楽に――そうだな、ボクの事は『お父さん』と呼びなさい」
どうだ? と笑う十河。
マサトもそれを真似て笑った。
「はい、お父さん」
「うんそれでいいぞ。さあ、こっちだ。美樹が待っている」
ミキ――? 誰だろうか。
その答えはすぐに出た。
「初めましてマサトくん、西原美樹です」
料亭の個室で、その女性にマサトは握手を求められた。
マサトは笑ってその手を握り返す。――誰だろうこの人。
そう思って十河を見ると「ああ、忘れてた」とわざとらしく言った。
「今度、ボクはこの人と結婚するんだ。だからまあ……君のお母さんになるわけだ」
ああ、なるほど。
マサトは状況を理解した。要は顔見せに呼ばれたらしい。僕は十河の養子として迎え入れられている。十河の事だから『可哀相な子供を養子に迎え入れる器量』をこの女性に見せるつもりなのかもしれない。そうマサトは推測する。
そして実際、その効果はあったらしい。
「マサトくん。……これまで大変だったと思うけど、これからは私もついてるわ。十河さんと三人で頑張っていきましょう」
料亭での昼食会の途中、西原美樹はそう微笑んだ。
あまり裏表の感じられない表情だとマサトは思った。その方が、十河としては安心できるのかもしれない。この結婚がどのような意図であるにしろ。
そして十河がマサトへ求める役割は、その幸せな家庭を演出する事にあるのだろう。
ただ、一つ気になる事があった。
「――お父さん」
「うん、なにかな?」
「この事は、華弥さんも知ってるんですか?」
「――――えっと、」
十河は相変わらず笑っているような顔で言った。
「それ、誰だったかな?」
「あら、それ誰ぇ? 十河さんの元彼女とか?」
西原美樹がそう十河を茶化すと、十河は「違う、違うって」と焦ったように誤魔化す。
とても白々しい光景だと、マサトは思った。
しかし、その白々しさに今は合わせなければいけない。
「大丈夫、違いますよ美樹さん。――お父さん、本当に覚えていないんですか?」
「えっとぉ……すまない、マサト。誰、だったかな?」
「――――――……………あ、いや、だから、」
言葉を続けるのが大変だった。
「こ、この間辞めた家政婦の華弥さんですよ。ずっと、お父さんが独り者だからって心配してたじゃないですか」
一瞬だけ、十河が満足げに口角を上げた。
「ああ、ああ! そうかそうか。いやあ、いつも『牧ノ原さん』って苗字で呼んでたからわからなかったよ。なんだそんなに心配してくれてたのか。これは結婚式にも呼ばないとな」
「十河さんたら、お世話になった人を忘れてたんですかぁ? ひどいですよ?」
「そう言うなよ美樹。……というかマサトもわざとだろ? 名前じゃわからないよ、苗字で言ってくれないと」
「はは……いや、あまりにお父さんと美樹さんの仲がいいから、ちょっとからかいたくなっちゃって」
「おお、マサト。これは後で説教だな」
料亭の個室に、楽しげな笑い声が満ちていく。