第三章 塀の外へ (その2)
そしてマサトは目を覚ました。
巨大な風車の風切り音が、耳を聾している。この音で起きてしまったらしい。
マサトは上体を起こして大きく伸びをする。固いコンクリートに寝そべっていたせいで身体のあちこちが痛かった。立ち上がって更にストレッチ。骨たちがパキパキと音を鳴らし、滞っていた血液がじわりと流れ始める。
徐々に思考がクリアになり、自分がどこにいるのか理解できるようになった。
眼前には、多神原の全景が広がっていた。
マサトが住んでいた東部の住宅街も、南部の多神原湖も、西部の森林地帯も、北部の闇市や廃墟群も。その全てが眼下に広がっている。朝陽に照らされた多神原は、どこか神秘的ですらあった。
と、同時に『ここは視界に収まる程度の世界なのだな』と寂しく思う。
この光景は地上365メートルの高さからでなくては見えない。
マサトがいる、この多神原の塀の上でなければ。
「――――マサトくん」
いつの間にか、背後に白衣姿の男が立っていた。風音が男の足音を隠してしまったらしい。
男の名は『河村』と言った。
彼は塀の内部――文字通り塀の中をくり抜いた空間――にある《国立特定傷病研究所》に所属する研究員の一人。
この二週間――マサトの健康診断を担当していた男だ。
つまり、ここでのマサトの立場は『人類で唯一、《変貌症》に耐性を持つ者』ではないのだ。
マサトは多神原でのボランティア活動中に日射病で倒れた少年、という事になっているのだという。そうして『多神原に住むマサトという少年』の存在は今のところ秘匿されている。柳瀬十河が河村の研究チームを買収し、マサトの存在を隠すよう指示したらしい。そう河村が教えてくれた。
マサトとしては、もっと騒ぎが大きくなる事を期待していたのだが。仕方がない。
河村がマサトの横に立つ。
「検査の後はいつもここに来るんだね」
「……」
特に答えは返さなかった。
河村も返答を期待しているわけではなかったらしい。マサトの隣に立ち、風に白衣をたなびかせて話し続ける。
「でも今日くらいは大人しく部屋で待っていて欲しかったな。探したよ」
「――仮面は?」
「え? あ、ああ。そっちはもう向こうに届いてるはずだよ。通常の浄化作業だけで済んだからね。……あれ、大事なものなのかい?」
マサトはコクリと頷き「あれ以外、僕が誰かを示す物がないので」と返した。
その言葉を聞いて河村は少しだけ悩む素振りを見せる。何かを言うべきかどうか、迷っているようだった。
「……マサトくん。君は本当に記憶喪失なのかな?」
驚いて、マサトは河村の顔を見る。
河村は無精髭の伸びた顎に手を当てて続ける。
「いや、別に嘘吐き呼ばわりするつもりじゃないんだ。そもそも、ここの設備なら嘘を吐けば脳波ですぐに判るし。でも君はあらゆる質問を受けても脳波に特定の変化はなかった。脳に損傷があるわけでもない。とすると君の記憶喪失は心因性のものという事になるわけだ」
それはぼくの仕事じゃないし、と河村は笑った。
「けど君の場合、トラウマがあるという訳でもないらしい。嘘を吐いた時もそうだが、封印されている記憶に関する単語を聞いた時も、人の脳波には変化が現れる。けど君は《変貌症》や《多神原》の事を聞いても脳波を変化させなかった。――これってどういう事だろうね?」
河村はニヤニヤと笑いながら、マサトを見下ろしている。
「多神原の中にいれば、変貌症や多神原を囲うこの塀について嫌でも知る事になる。君が友達から聞いたようにね? また、塀の外にいたとしても、それはそれで義務教育で教える常識を知らないのはおかしい。そもそも現代社会に関わる限り《変貌症》という言葉に触れずにいられるわけがない。それを知らないという事を説明する論理的帰結は《記憶を封印している》か――」
「いる、か――?」
「目を覚ますまで、変貌症や多神原だけではなく自身の名前を含めた全てを知らなかった――という事にならないかな?」
そう言って、河村は視線でマサトに同意を求める。
マサトには返す言葉がない。
その姿を見て河村は「冗談だ」と、無邪気な笑みを浮かべた。
「ま、気にするな。そんな事より、君はこれからの事を考えるべきだ。そうだろ?」
そう言って、河村は小さなカードを差し出した。
そこに記されているのはマサトの写真と十数桁の番号の羅列。そして《柳瀬マサト》という新しい名前。塀の外に出る為の、身分証だった。
河村は無邪気な笑みのまま告げる。
「君があの柳瀬十河氏の傀儡で終わるのか、それとも何かを成し遂げられるのか。楽しみだ」
◇ ◇ ◇
迎えに現れたのは黒いスーツを着た男だった。
メガネをかけた中年の男だ。もうすぐ老齢に差しかかるだろう事が、整えられた頭髪に混じる白髪から見て取れる。しかし無駄なく引き締まった身体と鋭い眼光が、年齢による衰えを感じさせない。
男は『片瀬』と名乗った。
華弥を多神原へ連れ出した男の名前だった。
特に言葉を交わすこともなく、マサトは黒塗りの高級車に乗せられる。その中で用意されたシャツとスラックスに着替えさせられた。袖を通すだけで心が洗われるように心地よい。多神原では決して目にかかる事のない上質なものなのだろう。
「こちらです」
日が傾きはじめた頃、マサトはその屋敷へと到着した。
マサトには屋敷の価値など判断できないが、それでもなお身が引き締まるような重々しさを感じた。歴史ある屋敷なのかもしれない。片瀬に屋敷内部の案内を受けたが、優に二、三家族は暮らせそうな広さがあった。だが普段ここを利用している人間はいないらしい。柳瀬十河もたまにしか屋敷にはやってこないそうだ。
大広間で一人、並べられた料理を前にしてマサトは問う。
「つまり、僕は十河さんとは別々に暮らすのですね?」
「はい、坊ちゃま。身の回りの世話は私と、部下がさせて頂きます」
慇懃に、片瀬は頭を下げて答えた。
片瀬からの説明によれば、マサトは柳瀬十河の養子として迎え入れられるらしい。恐らく、身内にしてしまった方が『唯一、《変貌症》に耐性を持つ人間』であるマサトを有効に使えるという判断だろう。すぐに発表しないのは、利益を独占する為の根回しが必要だからだろうか。
――もしそうなら、暫くは余裕があるはずだ。
「わかりました。食事が終わるまで外して頂けますか? 考え事がしたいので」
「承知しました」
「あと、」
「はい」
「この屋敷には、僕の他に誰かいますか? 例えば……お嬢さんとか」
「私は存じ上げませんが」
では、と片瀬は大広間から退室した。
マサトは一人、料理を口に運ぶ。
大広間に食器同士がぶつかりこすれる音が響き、吸い込まれていく。
マサトは黙々と、食事を続けた。
◇ ◇ ◇
食事が終わった後、マサトは二階にある小さな洋室へ連れて来られた。『小さな』とは言っても屋敷の広さから比べればという話で、多神原でマサトが生活していた六畳1Kのアパートの倍は広かった。
そこがマサトの自室だという事だった。
「それでは」
片瀬が部屋の扉を閉じる。
マサトは閉じられた扉を見つめたまま、少し待つ。やがて片瀬が立ち去る足音が耳に届いた。
どうやら外から鍵をかけられるような事はないらしい。
閉じ込められるものだとばかり思っていたが、割合、自由が確保されているようだ。もちろん『屋敷から出る際には旦那様の許可が要ります』と片瀬から釘を刺されてはいる。逆に言えば屋敷の中に限れば自由にして構わないという事だった。
マサトは部屋を横切り、窓際の椅子へと腰を下ろす。部屋には様々な調度品が揃えられているが、多神原で目にした事が無いものも多い。特に、四角い薄い箱にガラスが貼られたもの用途が意味不明だ。黒いガラス面にはマサトの素顔が映り込んでいるが鏡にしては映りが悪いし、そもそも鏡は別に用意されている。暫くその箱をマサトは観察していたが、やがて諦めた。明日、片瀬に聞いてみればいい。――それくらいなら教えてくれるだろう。
窓の外を見下ろす。
屋敷の塀沿いに黒服の男が歩いていた。片瀬の部下だろう。マサトに視線に気づいたのか、ちらりと見上げてきた。その目からは『感情』というものが感じられない。やがて男はマサトから視線を外して、どこかへ消えた。
つまりはそういう事だった。
ここはかつて、華弥が監禁されていた場所なのだ。
マサトは食事の際、袖の中に隠した銀ナイフを取り出した。
曇りひとつ無いほど磨かれた銀ナイフに、マサトの顔が映り込んでいる。
自身でも驚くほどの無表情だった。
マサトは思う。
僕は多神原に感情を忘れてきてしまったのだろうか。
それとも元々、自分一人では感情というものを持てない人間だったのだろうか。