第二章 変貌者狩り (その6)
時間は僅かに遡る。
「マサトくん……お願いが、あります」
華弥がそう口を開いたのは、プチが《大食い婆さん》を駅ビル廃墟へと誘導し、そのまま北部廃墟から離脱しようとしていた時だった。プチの巨体は夜でも治安維持隊の監視網に引っかかる可能性がある。作戦を成功させる為、少しでも治安維持隊の出動を遅らせる為には、早急に西部の森へ逃げ込まなくてはならない。
「十河のいる場所へ、引き返してくだ、さい」
だから華弥のその頼みを聞いた時、マサトは思わず眉をひそめた。
「さっきも話したけど、僕等は早く隠れなくちゃならないんだ」と、そこまで言ってマサトは少しだけ考え「引き返す理由は?」と続けた。その間もプチは立ち止まらず、マサトと華弥を振り落としかねない程の速さで北部廃墟を駆け抜けている。華弥は声が聞こえないと思ったのか、マサトの肩に頭を乗せるように身を乗り出した。
「柳瀬十河が死ぬ、所を見たいんです。ど、どうしても――」
「だからその理由は?」
「私が、本当に十河を殺したかったのか、知りたいんです」
「プチ止まれッ」
マサトはプチの首筋を叩く。
プチが急ブレーキをかけて立ち止まる。マサトも振り落とされそうになるのを耐えた。不満げな表情を浮かべてプチは背中に乗せたマサトを見やる。「ごめん、」とマサトは謝ってから華弥に振り返った。
「――どういう事?」
そう問うと、華弥は衝撃でズレたガスマスク型の防護メットを直しながら答える。
「……さっき、私『《大食い婆さん》を殺したい』って思った、んです」
マサトは黙って続く言葉を待つ。
と同時にマサトは自分が期待している事に気づいた。
華弥が発しようとしている言葉に、感情に、思考に期待していたのだ。
何だろうかこの感覚は。初めて感じるものだ。
思わず息を呑んだ。
「それって初めて感じた、もので」
華弥の言葉は、マサトの戸惑いに重なるように続けられる。
「多分『殺意』とか『憎悪』とか、そういうものなんだと思うんだけど――それっておかしいでしょ? 私、十河を殺したかった、はずなのに。でも、その時が初めてだった。本気で殺したいって思ったのは、初めてで。……なら、十河への感情はなんだったのか、って」
その時、
マサトの脳裏に浮かんだのはデカチーの顔だった。
いつか交した、デカチーとの会話が甦ったのだ。一ヶ月以上前、デカチーに呼び出された時に交した言葉を、マサトは思い出しす。
そうか。そういうことか。
これが僕の――――、
「だから十河が死ぬ所を見たいんです。そうすれば、この感情が何なのか判る気がする……」
マサトは華弥のガスマスクの目元に反射する、自身の鬼面を見て心底『良かった』と思った。
顔全体を覆う鬼面のお陰で、マサトの表情を華弥に見られなくて済む。
恐らく今の僕は、とても気持ちの悪い笑みを浮かべているに違いない。
「――わかった」
マサトはプチの首筋を軽く叩いてから「戻るよ」と指示する。それを聞いた華弥が申し訳なさそうに「ありがとうございます」と頭を下げたが、マサトはわざとそれを無視する。
マサトは出来るだけ『不服そう』にプチを廃墟へと向かわせた。
自分が喜んでいる事を、華弥に悟られたくなかったのだ。
知らなかった。
自分が今まで、どんな風に一志達を見ていたのか。今、華弥をどう見ているのか。今ようやく知った。この《喜び》は、他人にバレてはいけないものだ。喜びの意味を知られてしまえば、確実に僕は居場所を無くすだろう。人間の外見をしている事など些細な事だ。
どうやら僕は、割とクズ野郎らしい。
◇ ◇ ◇
「ありがとう、君。助かったよ」
華弥の視線の先に、肩で息をする柳瀬十河がいる。
距離は十メートルもない。倒れたショーケースに身を隠し、華弥はその場面をひそかに見つめていた。隣にはマサトが身を屈めている。プチは隠れる事が出来ない為、先に西部の森へ逃がしていた。
十河を追い詰めたのに何故隠れるのかと華弥は思ったが、マサトが言うには十河に『追い詰められた』と思わせてはいけないらしい。『窮鼠猫を噛む』という事だろうか。だとしても皆で囲んでしまった方が良いと思うけれど。
華弥はマサトの鬼面を見やる。真っ白な鬼の仮面に邪魔されて、マサトが何を思っているのかはわからなかった。
それにしても不思議な仮面だと思う。大食い婆さんの家では、確かに角が伸びていたはずなのに今では元通りだ。これも《変貌症》が関わっているのだろうか。
一志が懐から拳銃を抜いた。銃口が十河の背中に向けられる。
いや、今は鬼面のことなどどうでも良い。
華弥は息を呑み、その光景を見つめた。隣にいるマサトの存在すらも忘れるほど見入っていた。世界が狭まり、視界を占めるのは十河の背中だけ。
柳瀬十河が死ぬべき男である事は間違いない。だから止めるような事はしない。
だが、自分が本当に柳瀬十河を『殺したい』と思っていたのかは確かめたい。
「いや本当に助かったよ――」
銃声。
一志が引き金を引いた。
――いや、引こうとした手を撃ち抜かれたのだ。
途端、マサトの手が華弥の口元を押さえた。華弥が驚いて悲鳴を上げるのを防ぐためだろう。実際、華弥は自身の喉から言葉にならぬ何かが漏らしかけていた。
一方、目前では一志が撃たれた右手を押さえながら背後へ跳躍する。が、着地する前に天井から降ってきた何かに押さえつけられてしまった。一志は抵抗している様子だったがビクともしない。彼の背中に覆い被さっている者は一志以上の豪腕の持ち主らしい。
「うん、本当に助かった――――予想通りに動いてくれて」
十河が組み伏せられた一志に背を向けたまま、嗤った。
それが合図だったのか一志の周囲から次々と人影が現れる。数は五人。その全てが変貌者だ。彼らは蛙や蛇、蝙蝠などに変貌しつつある。つまり隠れ潜むことを得意とする者たちだった。
一志が十河を睨みつける。
「てめえ、全部知ってやがったのか」
「いいや?」
一志の問いに答えながら、十河はくるりと一志へと身体の向きを変える。
「こういう事もあるかもしれないと思っていただけだよ。剥製作りを任せていた男が殺され、その上その剥製まで持ち出されたと聞いた時にね」十河は一志へと歩み寄る。「確信に変わったのは、君が北部の案内人として現れた時だ。君はとても人間らしかったからね。だからカシマ組の人達に頼んで、ボクを守るメンバーをもう一つ用意して貰ったんだ」
十河が傍に居たカシマ組の男に「銃をくれ」と告げた。
スライドを引き、十河は弾を装填する。
華弥はマサトの顔を見た。このままじゃ一志さんが殺される。助けないと。そう視線で訴えかけるが、真っ白な鬼面は何も答えない。静かに首を横に振るだけだった。
華弥にはわからない。
どうして――どうして友達を助けようとしないの?
瞬間、外からロケット花火にも似た音が三つ連続し、続いて爆音が轟いた。華弥にはそれが何の音かわからない。だが爆音が収まると、大食い婆さんが暴れる音も消えていた。
十河が「やれやれ、ようやくか」とため息をつく。
「あの変貌者にボクを殺させるつもりなのかと思って一瞬ヒヤリとしたよ。まったく対戦車ロケット三発でようやく仕留められる変貌者なんて、どこで見つけて来たんだい?」
せめてもの抵抗なのか、一志は沈黙を守る。十河は暫く返答を待っていたが「ま、いいけどさ」と肩をすくめる。
「ともかく君は、ボクと二人きりになる事を選んだ。流石だ。やはり復讐は自らの手で果たそうと考えるのが人間ってもんだ」
言って、十河は銃口を一志の銀髪へと向ける。
「久しぶりに良い『人殺し』が出来て嬉しいよ、君」
「やめてッ!」
気づくと、華弥は叫んでいた。
マサトの鬼面から唖然とする気配が伝わってくるが、華弥はマサトの手を振り切って物陰から飛び出す。途端、華弥はカシマ組の男たちから銃口を向けられた。
だが、構わず叫ぶ。
「もうやめて父様! 私が頼んだの、私がやった事なの、だからやめて!!」
「――――おい、」
十河が顎で華弥を指し示す。
それを受けてカシマ組の一人が華弥を即座に拘束した。華弥は抵抗するが、男の手から逃れることは叶わない。華弥は十河を睨みつけるが、それを十河はつまらなそうに受け流す。
「ボクが《変貌者狩り》に参加する事をどこで知ったのかと思ってたけど……そういう事か。まったく、片瀬の奴、遊びが過ぎるぞ」
そう納得すると、十河は「仲間が他にもいるはずだ。その娘は一人じゃ何もできない」とカシマ組の男たちに指示を出した。男たちはマサトが隠れているはずのショーケースを囲むように、ゆっくりと歩を進めていく。
「や、やめて父様……父様、お願いだから」
華弥の呟きは、十河の耳に届いていないようだった。
考えてみれば当然のことだった。
今まで一度だって、娘の声に耳を傾けてくれた事なんてない。母様とすらろくに話そうとしなかった。突然、今になって話を聞いてくれるはずがない。華弥は自分の愚かさを呪った。
ショーケースは一志と華弥を拘束する男たちを除いた三人の変貌者に囲まれた。
そして、
「――柳瀬十河、頼みがある」
ショーケースの裏側からマサトの声が響いた。
カシマ組の男たちが十河へ振り返り、指示を求める。十河は「いいよ、両手を挙げてゆっくり立つんだ」と返した。
そして白い鬼面の少年が、両手を挙げて立ち上がった。
この薄闇では、白い鬼面だけが浮いているようにすら見える。
十河はマサトの姿を見てつまらなそうに鼻を鳴らした。
「また子供か。……それで、頼みってのは?」
「二つある。――まず銃を一つ貸して欲しい」
途端、カシマ組の男たちが色めき立つ。ライフルを構え、今にも発砲しそうだった。
一体何を考えているの――!? 華弥は視線で訴えるが、白い鬼面は何も答えない。
対する十河は、防護メットの下で何かを考えているようだった。
そして数秒の後、答えを出した。
「いいよ、貸そう」
「や、柳瀬様! よろしいのですか?」
マサトへライフルを向けている変貌者の一人が焦ったように聞き返す。
しかし十河に動じた様子はない。
「うん。――だって気になるじゃないか。この状況を銃一つでどうするのか」
「ですが、」
「そんなに心配する事ないさ。ボクはこんな人間モドキに殺されたりしないよ」
「しかし万が一――」
「いいから渡しなさい」
そう冷たい声がカシマ組の男たちへ浴びせられる。最後通牒を思わせる冷たさだった。
マサトを囲むカシマ組の男たちは逡巡する様子を見せたが、雇い主には逆らえないと結論したらしく、半ばヤケクソになって拳銃をマサトへと差し出す。
それを受け取ったマサトは、ゆっくりと十河の方へ歩き始めた。
再びカシマ組の男たちが十河へ指示を仰ぐが、十河は「好きにさせなさい」と笑う。
「マ、サトくん?」
華弥の目の前をマサトが通り過ぎ、十河の前も素通りする。
そしてマサトは一志の横で立ち止まった。
銃口を一志の背中へと向ける。
心臓がある位置のように思えた。
「マサト、おまえ――」
銃声が、一志の言葉を遮った。
更に銃声。重ねるように銃声。
銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声。銃声――――。
計十五回の銃声の後、一志の身体は動かなくなった。
廃墟に沈黙が流れる。
何が起こったのか、華弥には理解できなかった。頭の中を疑問符が埋め尽くす。
マサトが一志を撃った? 殺した? 何故? 友達じゃなかったの?
同様の混乱はカシマ組の男たちにも広がっていた。特に一志を押さえつけていた男など、マサトと一志を交互に何度も見て混乱している。
「ふむ、」
沈黙を破ったのは十河だった。
「これは意外な結末だ。面白い。てっきり一か八かボクを撃つと思ってたんだけど」
「や、柳瀬様。そんな――」
「まあいいじゃないか。死んだら、そん時はそん時だろ。――しかしね、君」
十河の言葉に反応して、マサトの鬼面がそちらへと向けられる。
「ボクが楽しみにしていた『人殺し』を横から奪っておいて、ただで済むと思うのかい? 君は自分で自分を窮地に追い込んだんだよ?」
マサトの鬼面が横に振られる。
「では、何故?」
「こうするチャンスをずっと待っていたんだ」
「――ずっと?」
「十河、二つ目の頼みだ」
言って、マサトは鬼面に手をかけた。
華弥の、十河の、カシマ組の男たちの目の前で、マサトが素顔を見せる。
綺麗な顔だ。華弥は場違いな感想を抱く。
母様の墓で見た時からずっと思っていた。あの時はマサトが小刀を拾うのをただ眺めるしかできないほど、見とれてしまっていた。まるで神様が作った人形のようにも思えた程だ。
華弥にはわからない。マサトという少年から目を離せない理由が。
胸を締めつける辛いのに甘い感覚は、華弥が初めて知る感情だったのだ。
「これは、すごい」
十河が驚きを孕んだ声をあげる。
「どこも変貌していないのかい?」
マサトはコクリと頷き、
「定期検診は受けてないから、内臓までは判らないけど」
「――いや調べるまでもないさ。変貌症の変化はまず頭からだ。それで、二つ目の頼みってのは何かな?」
「僕を塀の外へ連れ出して欲しい」
再び、場が凍る。
十河はコツコツと自身の防護メットを叩く。何か悩んでいるらしい。
「説明してくれるかな?」
「見ての通り僕は人間だ」
「そうだね」
「……どうして僕がこんな化物ばかりの場所にいなくちゃいけない。塀の外に出れば人間になれる。それにあんたなら人間の中でも一番良いものを経験させてくれそうだ」
マサトはそこで言葉を句切ると、今まで溜めこんでいたものを吐き出すように言った。
「――もう化物との友達ごっこはウンザリだ」
「そ、んな……」
華弥は問わずにはいられない。
「そんな事ってないでしょう? だって……だって一志さんは貴方の事をあんなに心配してくれてたじゃない。助けに来てくれたじゃない。ナツメさんだってきっと、貴方の事を大切な友達と思ってたはずだよ? なのにずっと、貴方はずっとそんな目で見ていたの?」
マサトは、答えなかった。
沈黙が答えだとでも、言わんばかりだった。
「あっはっはっはっはっはっ!!」
突然、十河が笑い声をあげた。
娘である華弥も聞いた事がないような、心底楽しそうな声。
「いいよ、いいよ。助けてあげようじゃないか」
「――本当か?」
マサトの問いに、十河は切れ長の目を細めて大きく頷く。
「勿論だとも。君の事が気に入ったからね。モドキから人になるまて待とうじゃないか」
「……」
「なんだ、信用出来ないかな? ならば『君には利用価値があるから』と答えよう。なにせ君は史上初めて発見された『変貌症に免疫を持つ人類』だ。その発見者は多大な利益を得る事になる。というか――それが君の考えだったんだろう? 君が持つ唯一にして最高の財産だ」
マサトは、にいっと口角を上げた。
華弥が初めて見る表情だった。
鬼の仮面よりも恐ろしい顔。短い時間とはいえあんな少年と自分は共に過ごし、頼りにしていたのか。
「――柳瀬様、」
無線に耳を傾けていたカシマ組の男が、慌てた様子で十河へ駆け寄った。
「治安維持隊に動きがあるようです。あと十数分で攻撃ヘリが来ます、撤収しましょう」
カシマ組の男の言葉に、十河は頷き返す。一志を指差して、「コレは回収できる?」「いえ……装甲車が一台やられましたから死体は全部置いていくしかありません」「そ。残念だね」
そう言って、十河はマサトの肩を抱いた。
「さあ、行こうか」
十河がマサトと共に廃墟を去ろうとする。
――待って。
華弥はマサトを止めようと腕を伸ばしかけ、途端、首筋にチクリと痛みが走る。
それが麻酔を注射された痛みだと気づく前に、華弥は意識を失った。