バケツ
「海斗、お疲れ」
渡り廊下で太一とすれ違った。
すっかり落ちてしまった枯葉が、かさこそと風になびいている。
掃除時間が終わる音楽が学校中を奏でていた。『愛の挨拶』という結婚式で使われる切ないメロディーだ。
「先輩、お疲れ様です」
クラスを受け持っていない海斗は身軽だ。
自分の掃除場所を点検してから、職員室に戻るだけであった。
「部活は休みだ。一緒に帰ろうぜ」
太一は話をするのが好きで、よく愚痴に付き合わされる。
海斗はこくんと頷いた。
「お? どうした」
その時、太一が海斗の背後に目をやった。
海斗が振り向くと女子生徒が立っている。手には掃除用具のバケツを持ったままだ。
重たそうにその手を震わせていた。
「どうしたの? 重いの?」
優しく声をかけると、少女はいきなりそのバケツを持ち替えた。
「え?」
勢いをつけて、少女が思いっきりバケツをぶちまけた。
しかも、海斗の顔めがけて。
ばしゃーんと茶色い水が地面に落ちて大きな音がした。
「おいっ」
太一が怒鳴った。
海斗はきょとんとしたまま、何が起こったのか分からず立ち尽くした。
「バーカ」
女子生徒は舌を出すと、からっぽになったバケツを持って駆け出した。
「待てっ」
太一が追いかけようとしたが、呆然としている海斗に気付いて舌打ちをした。
「来いっ」
腹立たしげに言って海斗の腕を引き寄せた。
「先輩……」
少女の顔に見覚えがあった。
伊吹の彼女だ。
どうしてあの子が……?
ぐいぐいと腕を引かれる。
どこに連れて行かれるのかと思いきや、太一はポケットから鍵を取り出すと、部室のドアを開けた。
「さっさと脱げ。お湯が出るから温まってこい」
突き飛ばされてシャワールームに入る。
海斗はもたもたと肌に張り付いたシャツを脱いだ。
蛇口をひねって熱いお湯が出たのを確かめて全身に浴びた。
一気に血が駆け巡っていくのが分かる。
体が温まるとタオルを受け取って太一にお礼を言った。
「先輩、ありがとうございました。風邪を引くところでした」
「のんきにお礼なんか言ってんじゃねえよ。あの生徒に覚えはあるか?」
海斗は無言で首を振った。
「隠すとろくな事にならねえぞ」
「…知りません」
「庇う事はないぞ。停学処分にできるくらいの事したんだからな、お前が黙っていても、俺は目撃者だから、見つけ出して処分してやる」
「先輩っ」
海斗は悲痛な声を出した。
「やめて下さいっ。何か理由があったのかもしれないっ」
「バカっ。人としてどうかと言う事をしたんだぞ。教師が黙認してどうする。生徒のためにもならないじゃないかっ」
どやされて海斗は口をつぐんだ。
「僕が彼女に言います。ちゃんと注意しておきますから、先輩は何もしないで下さい」
「約束するか? ちゃんと約束するならいいぞ」
「約束します」
海斗は唇を舐めてから、頷いた。
「ちゃんと生徒と話をします」
ショックを受けていた心臓がようやく動き出した気がした。