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さよなら



 あれから伊吹は部屋に来なくなった。

 その理由を知った母は海斗をなじった。

 伊吹があまりにかわいそうだと。

 しかし、海斗にはこうするしかなかったのだと自分に言い聞かせた。

 引越しの準備は着々と進み、卒業式も無事に終わった。

 晴れ晴れとした顔の卒業生を見ながら、海斗の心は曇ったままである。

 引越しの当日、太一が手伝ってくれる事になった。

 今日もとてもいい天気だ。

 春の優しい風が吹いて、沈丁花の甘い匂いがした。

 当たり前だが、ここには伊吹はいない。母は台所で海斗のお弁当をこしらえているようだ。

 部屋から荷物をすっかり出してしまうとする事がなくなった。

 海斗は澄み切った水色の空を眺めていると、


「海斗」


 とぽんと背中を叩かれた。

 振り向くと太一が立っていた。


「これだけしかないのか?」

「はい」


 荷物はほとんどないに等しかった。

 というのも、新しい学校の近くに運良くウイークリーマンションがあり、備え付けの家具など揃っているので、そこを借りる事にしたのだ。


「呆れるくらい身軽だな」


 くすくす笑う太一は、あれから何も変わりはない。

 あの日の事について何も触れてこないし、海斗の方からも何も言わなかった。


「行くか……」


 太一の言葉に肩が震えた。


「は、はい……」


 最後に一度、伊吹の顔が見たかった。

 伊吹の家を眺める。カーテンは閉まったままだ。


「さよならぐらい言えよ」


 太一が気遣って言う。 


「いいんです」

「後悔するぞ」


 海斗は頑なに首を振ると、台所にいる母に声をかけた。


「母さん、行ってきます」

「待って、海斗っ」


 母は慌てて飛び出してきた。


「夕ご飯にしなさい。あなた外食ばっかりしそうだもの」


「ありがとう」


 重箱のお弁当を受け取る。

 一体何が入っているのか。ずっしりとそれは重かった。

 海斗は、半泣きの母の目を振り切るようにして車に向かった。

 たかが、隣の町で一人暮らしをするのに、大げさな親子だなあと苦笑する。

 だが、これから一人で日々を過ごす事を考えると、これくらいの感傷はあってもいいよな、と思った。

 太一の運転する車に乗り込み窓を開けた。

 顔を出して母を見つめる。

 色白の母の目尻には小さなしわが寄っていた。

 一人っ子の海斗が離れてしまうと、母は父と二人きりの生活が始まる。


「母さん、伊吹の事、頼むね」


 そう言うと母はハッとした顔をした。


「あんたに言われなくても伊吹ちゃんの事は任せなさい。それより、体に気を付けるのよ。週末は必ず帰ってきなさい。食事は絶対に自分で作るのよ。外食しちゃダメ」


 海斗は笑った。


「分かったよ。じゃあね、行って来ます」


 母が泣きそうな目をする。海斗は目を細めると手を振った。


「じゃあ、車動かすぞ」


 太一がエンジンをかけた。


「はい。あ、母さん危ないから下がって」


 海斗が言って目を上げた時、


「行くな」


 いつの間にか、目の前に伊吹が立っていた。

 海斗は声が出なかった。

 ドアに鍵をしていなかった事に気付く。伊吹が車のドアを強引に開けると、海斗を引きずり出した。


「あっ」


 母がおろおろしながら後ろに下がった。


「伊吹……」


 ずっと声を聞いていなかった。

 顔も見るのも久しぶりで海斗はうれしさに胸が詰まった。


「てめえ、絶対に行かせないからな」


 唸るような声に海斗は我に返った。


「は、離せ……」


 喉から声をしぼり出すように言うと、伊吹は目を吊り上げ、海斗の腕を引いて家に向かった。


「や、やめろよっ」


 海斗が足を踏ん張る。


「もう子どもじゃないんだから、ダメだ」


 言い聞かせようとしたが、伊吹は言う事を聞かなかった。

 強い腕はしっかりとつかんだままで離そうとしない。途方に暮れかけた時、


「伊吹? 何やってんのぉ?」


 と言う少女の気の抜けた声がした。瞬間、腕の力が弱まった。

 海斗はさっと腕を引き抜くと車に戻った。ばんっとドアを閉めてロックをする。


「先輩、出してっ」


 太一が慌ててアクセルを踏んだ。


「海斗っ」


 伊吹が慌てて追いかけて来た。


「待てよっ」


「止まるか?」


 太一が横目で見ながら聞いた。


「海斗っ。行くなよっ」


 伊吹が追いかけてくる。海斗は口を押さえると膝に顔をうずめた。


「止まらないで行って下さいっ」


 伊吹の声が聞こえないように耳を塞ぐ。

 最後に伊吹の悲痛な声が聞こえた。


「海斗っ。待って……っ」


 振り返ってはいけない。


 海斗は白くなるくらい唇を噛み締めた。

 泣いちゃいけない。泣いたら伊吹が困るから。泣いてはいけない。

 目頭が熱く、泣きたいと悲鳴を上げているようだった。しかし、海斗は泣かなかった。

 さよなら。

 どんどん遠ざかる伊吹の姿を見まいと、海斗は目を閉じたまま唱えた。

 さよなら、伊吹。





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