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春うらら




 麗らかな春の日。

 優しい日差しが梅や椿を包み込む。しかし、職員室に迷い込む風は冷たく、空気の入れ替えをしていた教頭は慌てて窓を閉めた。

 それをぼんやりと眺めていた秋月あきづき海斗かいとはため息をついた。すると、


「おい、ぼうっとするな。気になって採点ができねえ」


 と、隣の教師に叱られた。


「はあ…すみません」


 海斗は軽く頭を下げると、隣に座る教師、百瀬ももせ太一たいちを見た。


「何だ悩み事か?」


 太一が眉をひそめながら聞いた。

 海斗は小さく肩をすくめた。


 ここで二人の自己紹介をさせて欲しい。

 海斗は笑顔がかわいいと女子に人気がある数学教師だ。

 内面も穏やかで、怒った姿を見た事がないと言われている。

 今年の春に県立高校の教師として就任。身長は百七十センチあるのだが、痩せているので儚い印象を与える。

 一方、太一は、海斗とは正反対の容貌であった。

 百八十三センチの長身、太い男らしい声。どっしりと構えるような体格は遠くから見ても目立つ。

 水泳部の顧問をしている彼は褐色の肌をしていて、塩素で抜けた薄茶色の髪は大学生の頃からちっとも変わらない。

 二人は同じ大学で水泳サークルで知り合った。

 その後も連絡を取り合っていて、先に高校教師に就任した太一の紹介で就職する事ができたのである。

 大学時代と同様、太一には頭が上がらない。


「で? どうした」

「転勤の話、両親に話していないんです」

「はあっ? 辞令が出てから一週間だぞ」


 そうなのだ。

 入って一年目、ようやく慣れたと思ったのに年明け早々校長から呼び出された。

 何かしただろうか、と不安に駆られ校長室に向かった。

 そこで聞かされたのは、四月から隣の市の高校に赴任する事が決まった、という驚くべき話であった。


 辞令を受けて一週間。未だ家族に報告できないでいる。


「分かってます……」

「引越しの準備だってあるだろ? 間際になって知らされた方はたまったもんじゃないぞ。さっさと言えよ」

「……そうですよね」


 彼の言うとおりだが、そう簡単にはいかない。

 海斗が悩んでいるのは、隣に住んでいる幼なじみの早川はやかわ伊吹いぶきの事であった。


「あぁ、あれか」


 思い出したように太一が手を叩いた。


「お前のわがままな幼なじみ、ここの一年だったよな」


 その言葉にぎくっとする。


「あいつに言えないんだろ。たく、情けないな。二十四歳のいい大人が、十六歳のガキに頭が上がらないなんて」

「はあ…」

「海斗」


 周りに教師がいないのを確認して、太一は大学の時のように呼び捨てにした。


「いいかげん兄離れしたらどうだ。あいつだって子どもじゃないんだぞ。気になるのは分かるが、高校まで一緒にいたら、お互い気を抜く暇もないだろ」


 返す言葉もない。彼の言う通りである。


「はい…」


 小さく答えると、気落ちした肩をぽんと叩かれた。


「心配なのかもしれないが、俺から見たらあいつは放っておいても平気だと思うぞ。新入生代表で壇上に上がった時のあのふてぶてしい態度。目を疑ったね」


 太一が吐き出すように言う。

 海斗は入学式の事を思い出して顔が熱くなった。

 新入生代表に選ばれた事を面倒くさがっていた伊吹は、太一の言うように能面のような顔で祝辞を述べた。

 彼は十六歳にして身長はすでに百八十センチを超えており、肩幅も広く、足も長い。おまけに成績も優秀。切れ長の瞳、無造作に刈られた黒髪はよく似合っている。

 街を歩けばモデルにならないかと声をかけられるが、いかんせん口が悪い。ぶっきらぼうで投げ遣りな口調は誤解を招きやすいのである。

 校長の前で、ぴくりとも眉を動かさず淡々と口を動かす様を海斗はハラハラと見つめた。

 もっと愛想よくしたらいいのにと思う。


 あの日を思い出して海斗は居たたまれなくなった。


「…すみません」

「お前が謝るな」


 伊吹の家族は共働きなので、一人っ子の彼の面倒を隣に住む海斗が見てきた。あまり、しつけられていないため、自由気ままでわがままなのである。


「お前らが廊下で話している時さ、どっちが年上か分からないぞ。お前、チビだからな」

「僕はチビじゃないですよ」


 お前はチビだよ、と太一はからかってから、


「この間、かわいい女の子と一緒に帰っていたぞ。あれだけ色男だと女も選り取りみどりなんだろうな。いいなあ」


 と、そのセリフに海斗はぷっと吹き出した。


「何言っているんですか。先輩だってかっこいいですよ」

「お、マジで言ってる?」


 太一がうれしそうに体を寄せてきた。海斗はこくりと頷いた。


「ええ、先輩みたいになりたいです」

「お前はそのままでいいよ。花みたいだもんだから」

「花ですか……」


 ぽけっとして海斗が答えた。


「うん。抱え込んだらいい匂いがしそうだ」


 ふざけるように言って鼻を近付けた。その時、


「先生……」


 突然、背後で声がして二人は振り向いた。


「あ、伊吹」


 いつからいたのか、紅茶色のネクタイをだらしなく緩め、白いシャツは出したまま、紺のブレザーのボタンをすべて外し、ポケットに手を突っ込んで、ふてくされた顔で伊吹が後ろに立っていた。


「どうしたの?」


 優しく訊ねると、伊吹は太一をちらりと見て軽く頭を下げた。


「今晩、俺、夕食いらないから」

「泊まり?」

「ああ……」

「そう。向こうのご家族の方に失礼な事しちゃダメだよ」

「うるせえな。小母さんに伝えとけよ」

「うん」


 海斗が少しさみしそうに微笑むと、伊吹はぷいと顔を背けて行ってしまった。


「何だ今の」


 ぽかんとして太一が言った。海斗は苦笑した。


「伊吹の家族は共働きなので、うちでほとんど過ごすんです」

「は?」

「今日も寝ないのかな…」


 ぽつりと言うと、それを聞き逃さなかった太一が声を荒立てた。


「まさかお前ら、一緒に寝るのか?」

「はい」


 素直に頷くと、太一が大きく息を吐き出した。


「それ異常だよ。同じ布団で寝ているのか」

「一人じゃ眠れないって言うし…」

「お前が悪い。わがままも一人で眠れないのも、いいわけだろ。今すぐやめろっ」

「いけない事ですか?」


 海斗が不思議そうに言うと、太一はもう何度目か分からないため息をついた。


「それが分からないんじゃ、お前も相当イかれているな」


 そうかもしれない、と海斗は思った。

 伊吹がいないと生きていけないのは自分なのだ。


「努力します」

「お前の方が依存しているみたいだな」


 太一は呆れたように息をついて、もう言う事はない、と机に向かって採点の続きを始めた。

 海斗はまた窓の外を見た。

 校庭では学生たちがサッカーに夢中だ。

 彼らの姿を眺めながら思った。


 伊吹は今夜、帰らないと言っていた。


 夜は一人か…。

 今日にでも転勤の話をしなくてはならない。

 伊吹から離れなさいって、神様が言っているのかな。

 

 海斗は自分に言い聞かせるようにして、もう一度息を吐いた。







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