02-28 闇の中の朝
“ぴちゃん…「起きて」…”
誰かの声と、雫が落ちる音がする。
“ぴちゃん…「眼を開けて」…”
まただ。
“…ぴちゃん…「大丈夫?ねぇ、起きて」…”
水の側に居るのだろうか?だけど何だかとても暖かい。等間隔で聞こえる水の音と此方を呼ぶような声をぼんやりと聞いていた獅戸は薄っすらと目を明けた。が、目の前に何かがあって視界には何も映らない。これは夢か?と思って顔を上げて驚いた。
「うぇ!?猫柳先輩!?」
直ぐ側に猫柳の顔があったのだ。慌てて現状を確認しようと一生懸命首を回し、どうやら猫柳に抱きしめられている格好であるという事が分かった。さっきまで胸に顔をつけていたので何も眼に入らなかったのだ。
「ちょっ、ま、えぇ??な、何でこんな事に!?…えぇっと、何してたっけ?確か屋敷に行って、それで先輩を見つけて、それで、それで…」
身をよじって腕から逃れようとするが、がっちりホールドされていて抜け出せない。しかも床が変だ。…いや、床じゃなかった。まるで蜘蛛の巣のように複雑に絡まったツタに引っ掛かっていた。そのせいで密着度が高かったのだ。慌てて周囲を見渡すと、壁が結構近くにある。ぐるりと円を描いていて石造りの円柱形は何となく井戸を連想させた。上も、下も闇が続く。宙ぶらりんで何か怖い。暗い中でも視界に相手が映るのは、ボヤっと光っている苔のおかげだろう。これが無かったら、きっと自分の手すら見えなかったに違いない。
「う、ん…あれ、アンナちゃん?…ぅおぉ!?」
「お、起きました!?」
「ごめん!…あれ?確か…」
もぞもぞとしていたら猫柳も覚醒した様子、ボーっと獅戸を見ていたが、直ぐにハッとした顔をして手を放そうと動くが、変にツタに引っ掛かっているせいで距離をあけることができず、ワタワタと慌てた。と、その時声が掛かる。
「動かないで」
「…え?先輩?」
「ちがう、僕じゃないよ。一体何処から…」
風邪でも引いてるのかちょっと籠った鼻声に動きを止めた獅戸。猫柳も移動を断念して声の主を探そうとするが、いかんせん暗くて能力アップされた視力を持ってしても良く見えない。必死に首を動かしている2人の耳に、水の音が聞こえた。
“パシャ…パシャ…”
「近づいてる?」
「だ、誰ですか!?」
水の音は丁度2人の真下で止まった。此処から底までどれくらい高さがあるのか分からない。それでも暗い真下へ視線を落とした。
「警戒しないで。…って言っても無理か。俺は君達を害するつもりは無い。それより、下まで降りてきたら駄目だよ、上れなくなってしまうからね」
「上る?」
「すいません、此処は一体どういった場所なんでしょう?」
男性の声に猫柳と獅戸は顔を見合わせる。そして再び視線を落として質問をしたすぐ後で、彼とは別の声がした。
「ん~…何?もうご飯?」
寝ていた子供が起きたような台詞だが、その低音ボイスに思わず眉を寄せて猫柳と獅戸は再び顔を見合わせた。その渋い声も丁度真下から聞こえてくる。
「あぁ、起きちゃったの?ごめんね。まだ寝ていて良いんだよ」
「でも~」
「まだ眠いでしょ?」
「…うん」
「もうそろそろ朝だからね。そうしたらちゃんと起こしてあげるよ」
「分かった。…ねぇ、側に居てよ?」
「大丈夫だよ。ここに居てあげるから」
「うん。オヤスミ…なさ…」
言葉は途中で寝息に変わる。渋声は再び眠ってしまったようだ。その人を起こすのもどうかと思い、獅戸がヒソヒソ声で呼びかける。
「ごめんなさい、誰だか知らないけど起こしてしまったのかしら?」
その声に、やはり先ほどよりは声の音量を落とした返事が返ってきた。
「良いんだ。それより、早く脱出した方が良い」
「脱出って…何処から?」
「此処に出口は一つだけ。出入り口は、一つだけなんだ。だから…」
「え、上るしかないって事!?」
そういって猫柳は顔を上げる。上を見ているはずだ。しかし、天井どころか暗い闇以外は何も見えない。僅かな光も差し込まない空間に、思わず体が震える。その様子が見えているのか、いいタイミングで下の声が説明を始めた。
「怖がらないで大丈夫だよ。確かこの井戸は深さ15m程だった筈、誰かの術のせいで光が遮断されてるだけで、ちゃんと外につながっているから」
「井戸なの!?此処」
「そうだよ。もう枯れてるけどね」
「枯れてる?でも水の音がするよ。また湧き出したの?」
「…。…いいや。これは薬だよ」
「薬が湧き出してるって事?」
「そうじゃない。この薬は人為的に投入されたもの。成分は睡眠効果のあるものみたいだから、とりあず心配はいらないけどね」
「睡眠薬か。ねぇ、此処は一体何?あなたは何でこんなトコに居るの」
「此処は、この町の牢屋なんだ。枯れた井戸を使って、捕まえた罪人を落とすだけの空間」
「あなたも罪人?でも落とすだけって…それなら簡単に脱獄も…」
「アンナちゃん、15mって言ったら大体ビル5階建てくらいだ。そこから落ちたら、十分死ねるよ」
「そう。それに下の空間は半球体に広げられてい、石造りの壁は脱出されないように滑らかに磨かれている。だから、此処まで落ちた人間は自力で脱出する事はほぼ不可能だろう」
そこまで言われて目線を下からそばの壁に向けて、目の前にある井戸の壁にそっと触れた獅戸。ぼこぼこしている壁は取っ掛かりも多く、上がろうと思えば上がれなくもない。だから動くなと言ったのか。暴れて落ちたら、もう自力での脱出は不可能になるから。それにしてもツタが生えていてくれてよかった。絡まって止まらなかったら、骨折の一つや二つしていたかもしれない。いや、それで済めば良い方なんだろう。
「ねぇ、君の名前聞いても良い?というか何してこんな所に入れられちゃったのさ」
「俺はこの人を助けようとして、出られなくなっちゃったんだ」
「ミイラ取りがミイラってやつだね」
「お恥ずかしながら」
「このツタを伸ばしておろしてあげましょうか?そうすれば貴方も此処まで登れるんじゃない?そうすれば一緒に上まで行けるかも」
「…。いや、絡まったツタをほどいたら君達が落ちてしまうかもしれない。何よりこの人を1人で残すのは心配なんだ。俺よりもこの人を先に助けて欲しい。上まで上がれたらこっそり助けを呼んでくれないかな?」
「この人って、さっき寝ちゃった人?」
「そう。彼はサーロヴィッチ・スパルタク様。呪をかけられてここに放り込まれてしまった」
「スパルタク…え。スパルタク!??って事は、もしかしてあなたジノヴィさん?」
名を聞いても名乗らない彼。スパルタクとジノヴィが一緒に居るという情報は聞いていなかったが、話をしていて若い男性の声に何故か見た事のないスターニャの兄を連想させてしまった。獅戸の言葉に彼は返事に肯定も否定もしなかったが、一瞬息を呑むような間があった。
「…もしかしてノフィーさんにあったの?」
「えぇ。彼女と一緒に屋敷で働いてたのよ」
「なら尚更、早く脱出して彼女に此処の事を教えてくれないかな?」
「分かったわ。…あれ、でもノフィーさんはジノヴィさんが何処に居るか知ってるって言ってたわよ?何でその時に助けを呼ばなかったの?」
「此処に落ちたのは今から3日前の謝肉祭初日。だから彼女は知らないんだ。スパルタク様が此処に落とされた事を」
「今まではどちらに居たんですか?…ん?3日前が謝肉祭初日?」
「あれ?3日前が初日?」
サラッと流しかけて、彼の発言に疑問を感じて困惑する2人。確か自分達も謝肉祭初日の夕方にシルに呼ばれて屋敷に行ったはずだった。一体何を言っているんだ?という雰囲気でも出していたのだろう。何故か声の主が小さく謝った。
「ごめん、君達は俺達の後に落ちて来たから直ぐ起こそうと思って声を掛けていたんだけど、なかなか起きなくて。この薬が気化した空気のせいかも知れないね、強制的に眠らされてしまったんだろう。揺すろうと思ったけどそこまで手は届かないし、揺すったとしても下まで落ちてしまったらまずいと思って…」
「ちょっと待って、それよりも、3日前が初日って事は、もう2日もたってるの?って事は…今はいつ?」
「あぁ、もうそろそろ4日目の朝だと思うよ」
「そんなに!?いや、でも勘違いじゃないんですか?あなたもここに居たんですよね?何でそんな正確に時間の経過が分かるんですか?」
「それはこの植物のおかげだよ。成長力が強いから、今の季節は1日に大体1mも伸びるんだ」
「へぇ~。…って感心している場合じゃないわ!早く出ないと、皆心配してるはずよ」
「そうだね。それにスパルタクさんたちも早く助けてあげないと」
慌てて壁に手をつけて、上ろうとした獅戸だが、さすがに数日眠ったままだったせいか思うように体が動かない。握力が入り難いのも気のせいではないだろう。
「身体が…力が上手く入らないわ…」
「僕もだ。くそっ、こんな時に…」
「落ちついて。俺も急かしてしまって申し訳ない。焦る気持ちも分かるけれど、まずはしっかり体をほぐさないと。途中で落っこちてしまったら、今度は下まで落ちてしまうかもしれない」
脅しているわけではない。しかし姿の見えない彼の言葉に真剣な顔で頷いてから、ゆっくりとした動作でストレッチを始めた。
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町の外れに近い場所にある宿屋。
今日はコンテストで宿泊客も殆どが外出してしまい、残っているのは従業員くらい。情報収集を頑張るぞ!と意気込んでいた九鬼は出鼻をくじかれた気がして春色のネクタイをクルクルと弄んでいた。今は宿屋の主人が休憩を取っている間だけ店番を頼まれてカウンターに立っている。外は活気溢れた声がしているのに昼間から宿屋に入ってくる人も少ない。というかいない。城門較べの会場に殆ど行ってしまっていて宿屋の前には人影もまばら。ぼんやりと外を眺めながら退屈して肘をついてため息を吐き出した。
「はぁ。…皆大丈夫かなぁ…」
こんなに人が少ないなら、思い切って休みをもらっても良かったかもしれない。仲間が危険な事になっているかも知れないのに、何にも出来ずにただ突っ立っているだけなんて。
なりふり構わず飛び出していけるほど任された仕事に無責任にはなれず、かといって心配事を胸の奥にしまって仕事に専念できるほど大人でもない。
心配でじっとしていられずに、無駄に宿帳のページをめくって読めない字を視線で追いかけていた。
「ケイシ!」
そんな時自分の名前を呼ばれてハッと顔を上げる。声の主を探して視線を外に向けると、親友が走ってくるのが見えた。自分も慌ててカウンターから出て、近づいていく。
「キョウタロウ!無事だったんだ!天笠先輩も、心配しましたよ」
ふくよかな体を揺らしながら駆け込んできた守屋。その後ろから天笠も宿屋に入ってきて、膝に手をついて呼吸を整える様子を見てロビーにある椅子をすすめた。しかし天笠は首を振って九鬼の肩に手を置いてガシッと掴む。
「心配かけてごめんね。それよりも、皆はどこ?」
「皆?」
「お昼過ぎに俺達解放されたんだけど、その後部室に行ったら誰も居なくてさ。ナガレ先輩どうしたよ?」
「あぁ、今日は鷹司先輩が城門比べに出るっていって、雨龍さんとリヒトが付き添いで出かけたはずだよ」
「えぇ!?そうなの?舞鶴先輩は?運営本部って場所にも行ってみたんだけど、誰も居なくて…」
「多分城門較べの人数が予想よりはるかに増えて会場移動するってお客さんが言ってたから、運営と警備スタッフはそっちに移動しちゃったんじゃないでしょうか?」
「そうなの?…あぁ、確かに今年の参加者は例年の倍以上って言ってた気がする」
「じゃあサヨは?私達が働いていた売店にも寄ったんだけど、居なかったのよ」
「え!?それは俺、知りませんよ?」
「え…。…一緒に来て。探すの手伝って」
天笠に言われて頷きかけるが、自分も今は仕事でこのカウンターを任されている身だ。此処は自分の世界ではないとは分かっていても、仕事を放り出して無断で勝手に離れるのは良くない気がする。こういうところはさすが日本人といったところか。そんな時、タイミングよく宿屋のおじさんが帰ってきた。それにいち早く気づいた守屋が慌てて外に逃げる。どうやら九鬼と一緒にこの宿で働いていた彼も病欠設定だったらしい。
「おぅ、店番ありがとな。…ん?何だどうした?問題でも起きたか?」
「あ、いえ、こっちは俺の友達なんですけど…」
「すいません、彼と謝肉祭を回りたいんですけど、仕事って何時までですか?」
「友達?…あぁ、なんだそうか。今日は客も居ないしな、あがってもいいぞ」
「えぇ?良いんですか!?」
「今日くらいかまわねぇよ。だが、一晩中遊んでて明日遅刻したら承知しねぇぞ。今日中に4号室の客が帰ってこなかったら、荷物纏める作業があるんだからな」
天笠がおじさんに尋ねると何やら勘違いした様子でニカッと笑った。4号室の客というのは謝肉祭前に泊まっていたお客なのだが、荷物は置いてあるのに帰って来ず、宿泊料金も滞納されているので荷物を片付けるかどうするかと話していた人物だった。貧乏なのに見栄を張った旅人が宿泊料金を踏み倒す事は良くあるらしい。なので保険として部屋に入る前に預かる高価な荷物の処分を勝手にしても問題は無いそうだ。
九鬼は休んでも良いというその言葉に驚いただけだったが、天笠はその顔を見てピンと来た様子で、九鬼の腕を抱えるようにして抱き、側による。
「やったね。ねぇ、一緒にお店まわろうよ。今年はまだ一度も遊んで無いでしょ?」
「え?先輩?」
「あっはっは。積極的な女性だね。いいなぁ、俺も、もちっと若けりゃなぁ…」
「おじ様も十分魅力的だわ。こんな優しい人のところでお仕事できるなんて…私も今の職場やめてこっちに来ようかしら」
「可愛子ちゃんならいつだって、歓迎するぜ」
「…職場恋愛は禁止だよ」
今更ながら天笠が自分の彼女に間違われたと察した九鬼が真っ赤になっていると、おじさんの背後から発せられた言葉に、真っ青になったおじさんがカバッと振り向いた。そこには遅れて帰ってきた女将さんがおじさんを睨みながら立っている。
「あ、早かったな、お前。えっとこれは…」
「…言い訳は聞かないよ!まったく、若い子を見ると直ぐに鼻の下のばして!」
「悪かった!だから箒を振り上げるな!」
「…く、九鬼君、行きましょ」
「そうだね!…じゃあおじさん、また明日。今日はお先です!」
あっという間に修羅場と化したカウンターの側を離れて、外に逃げた2人。おじさんが助けを求めた気がしたが、きっと気のせいだ!
外で様子を伺っていた守屋と苦笑いを浮かべて、とりあえず城門較べの会場を目指すことにした。




