03-59 今の言葉は
最初に違和感を感じたのは、2回目に草加と月野に出会ったときだった。
水くみに行った後の大きな容器を抱えて歩いていた2人。その時強引にそれを持とうとしてふらついた月野を抱きとめてあげた。彼らはおそらくこのときが始めて自分と接触したタイミングだと思っているんだろうな。
「大丈夫?」
大丈夫、おかしくない。聞き覚えた簡単な単語だ。砂漠の言葉で腕の中の月野にそう問いかけたけど、彼女はすぐに返事を返さなかった。あれ、ちゃんと転ぶ前に助けられたと思ったけれど、やっぱりどこか痛めただろうか。加減して抱きかかえていと思うけれど、接触する時に何処か打ち所が悪かったとか?次第に不安が勝ってきて、次にどう声をかけようか迷っていると草加から声がかかる。
“せ、先輩?大丈夫ですか?何処か傷めました?”
うむ。流暢な砂漠の言葉だ。意味は分かるが、同じようにしゃべる事は今の自分には出来ないだろう。だがこれで、彼らが主に使っている言葉が砂漠の言葉であると確認が出来た。先日奴隷商と接触した晩の出来事でも砂漠の言葉を使っていたのは確認していたけれど。
あぁ、良かった。
先にこの世界に来ていた仲間である、自分(八月一日)の現状に引っ張られる事無くこの世界で生きるために必要な知識は手に入れることが出来たんだ。八月一日が山の言葉を使っているから、後から来た仲間にもそれが影響してしまうのではと考えたけれど、杞憂でよかった。
「よかった」
思わずポツリと呟いた安堵の台詞は山の言葉だった。意識したわけではないけれど小さい声だったし、懸念していた心配が確認できた条件反射のようなものだった。それにこれに反応を返してほしいわけではなかったし、返事をするとは思わなかったから。
だが、それに対して切り替えしてきた月野の言葉に思わず驚愕してしまった。
“うん、怪我もないし、あなたのおかげでどこも痛くないわ。ありがとうな、助けてくれて”
いえいえそんな…って、あれ?
大変だ。普通に理解が出来る。これは砂漠ではなく、山の言葉だ。
何故?先ほどまでは砂漠の言葉でしゃべっていたのに、何故今山の言葉が出てくるんだ。
“何?うちら、何かしてしまった…やろか?”
“こちらからは特に…何もして無いと思いますけど”
続く会話では草加も月野と同じように山の言葉を使ってくる。
何故?…考えられる理由はただ1つ、自分が山の言葉を話した事。おそらくそれが切っ掛けで、彼らの中の何かが切り替わったのだろう。
現に2人は使う言葉を変えたことに気づいていないようなナチュラルな会話を続けている。
あぁ、自分のせいだ。早く何とかしなくては。だがどうすればいい?
今考えると簡単なことだ。山の言葉をしゃべったせいで彼らの言語が切り替わってしまったならば、自分が今度は砂漠の言葉をしゃべって聞かせれば良いだけの事。
だけどあの時は同時にいろんなことを考えすぎて一瞬で頭が真っ白になってしまった。そのせいでその先の言葉を続けられ無かったが、偶然奴隷商達の会話が聞こえてきたおかげで彼らの言語は戻すことが出来たのだ。
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「こんばんは」
飼い主と奴隷の最後の別れの時間を作ってくれたのだろう。本来ならば奴隷相手に時間を作ってあげるなんて事しないはずだが、向こうにはアルトゥーロがいる。浅からぬ縁がある相手だ、感謝しなくてはな。そんなことを考えつつも部室メンバーではない人物がそばに居ないことを確認してから、シンは地下への扉を開いて階段を下りてきた鷹司と猫柳にだけに聞こえるように『日本語で』挨拶をした。
今がきっと最後のチャンス。ここを逃したらまた長期間会うことはできないのだろう。
しんみりとそんな事を考えていたシンだったが、そんな彼とは対照的に2人は階段をおりきる前に質問を投げかけてきた。
「シン、お前、人を傷つけたって聞いたが…」
「はい。間違いではありません」
「いったいなぜ…ってあれ、君ってそんな流暢に会話出来たっけ?」
ここまで言って、猫柳はシンの違和感を口にした。おかしなところに気づいた彼らの為に、シンは言葉を日本語から『山の言葉』に切り替える。
「気づいていますか?今俺が話しているのは砂漠の町の言葉ではありません」
「え、砂漠の町の言葉じゃないって…どういう事?」
素直に疑問を返す猫柳の態度で、シンが日本語と山の言葉を使い分けた事に気付いていないと分かった。きっと彼らの耳にはずっと日本語で聞こえているのかもしれない。おそらくこれは、世界を渡っていく上での便利機能の一つなんだろうと推測する。鷹司はハッとした顔をして押し黙ったのでもしかしたら思うところがあるのかもしれないけれど、今は彼らに考えてもらう時間をとっている暇がない。少しだけ申し訳なく思いながらも、シンは口を開いた。
「先ほどの挨拶から、俺は自分の生まれた場所の言葉を使っています。これは山の民が使う言葉であり、この砂漠地帯で使われている言葉ではありません」
「山?…それってもしかしてトバルスのこと?」
「はい。こちらでそのように呼ばれているとは知りませんでしたけどね」
「山の上…だば、そこの人は山の事をなんて呼んでたんだ?」
「特に名前はありませんでしたよ。山以外の場所を“谷底”とよぶだけで、下に広がる砂漠に人がいることすら知りませんでしたし。あなた方に初めて出会ったときはもしかして両方の言葉を知っているのか、と思いましたが、よくよく考えてみればその可能性は限りなく低いと分かります」
「何故?」
「山の上の世界は閉鎖的で、排他的。しかも生きて山を下りられる者はいないに等しい。だいいち此処で生きていて使っている人がいない山の言葉を覚えるなんてメリットが無いし、それに先ほどのやり取りで気付いた事があります」
日本語を使ったという事実は伏せたまま、本当のことだけを彼らに伝えていく。そして相槌を打つことも忘れて疑問のこもった視線を向ける2人から視線を落として、薄く微笑んだ。
「俺が言葉を使い分けた事に気付かなかった。なにやら特殊な生まれなのではないですか?」
「特殊…」
「それか、何か特別な道具を使用しているか、この町の領主のように不思議な力を持っているか」
「いや、俺達は…」
「話さなくても構いません。詳細を暴くつもりは無いのです。ただ、この場所の領主を見ていて思ったでしょう?珍しい力は恐怖される対象となる。だから…今自分が何を聞いて何をしゃべっているのか、それくらいは理解できたほうが良いですよ」
「…っ」
「安心してください。別に誰かに話したりするつもりはありません。もうまもなく消える命、あの世まで抱えて持って行きますよ」
結局、今自分の正体を告げる事は得策では無いと判断し、真実には気付いていない風を装って告げた穏やかなシンの言葉だったが、うろたえたような2人の気配を眼で見なくても感じられた。追い詰めたかったわけではなく、注意を促したかっただけだ。安心してほしくて続けた言葉だったが、それに反応して猫柳がシンの肩を力強くつかんだ。
「そうだ、違うよ。僕達が来たのは何もこんな風に問い詰めるためじゃない。だいいち駄目だよ!何でもうあきらめてるのさ!」
「あきらめるも何も。それがこの場所で生きるうえでのルールなら、従わなくては」
「だって人を傷つけたって、それだけなんでしょ?そりゃ、怪我をさせたのは問題かもしれないけれど、それだけで死刑だなんてひどすぎるよ」
「…どうやら勘違いをしているようですね」
「か…勘違い?」
言い募る猫柳の言葉は鷹司も同じ意見だったのか意見を挟まなかった。だがシンの訂正を聞いて疑問を口にすると、何かを感じたのか不安な様子で猫柳は肩から手を離して1歩後ずさる。シンはちらりと鷹司を一瞥した後で猫柳に視線を向けた。
「俺は殺そうとしましたよ。殺すつもりで武器を振るった」
「…え」
「そこまで聞いていませんでしたか。では俺から詳細を語りましょう」
自分が見た範囲の情報だけれど、月野が襲われそうになったところに乱入して、彼女が原因と思われる負傷をしていたガスパールにとどめの一撃を放った。それのせいでこの地下に押し込められていて、処刑が執行されるのを待っている。と、簡単に告げる。人を傷つけた事は聞いていた様子だったが、相手が誰か、容態がどうなのか、そういう情報は聞いていなかったようだ。思わず絶句してしまった2人に向けてさらに言葉を放った。
「これが俺が見て、感じ、得た情報のすべてです。この後別の人間から聞く情報は細かいところが違うかもしれませんが、これだけは覚えておいて。ガスパールの死因は俺にある。裁かれるべきは俺一人、彼女は巻き込まれたに過ぎない。だから月野さんは…守ってあげてね」
穏やかな笑みだった。死に行くと分かっているはずなのに、どうしてこうもやわらかく笑えるのかと猫柳と鷹司は思った。それと同時に理解した。
この町に裁かれないようにシンはガスパールを攻撃した。それと恐らくもうひとつ、月野に罪の意識を与えないためでもあったんだろう。意図しなかったとはいえ「お前のせいだ」といわれ続ければ平和な世界に生きていてきた月野には耐えられるとは思えない。
「…じゃあ、始めようか。刑の執行は2人のどちらかが?…あ。いや、無理だね。我慢しないで慣れてる人に頼むといいよ。…俺の事は気にしないで。ね?…『ご主人』」
生きたいと口にしないシンの代わりに、無駄と知りながら周囲を見渡して逃げ出せる場所が無いか調べてしまった猫柳。もう自分の命が終わる事を疑いもしない眼帯奴隷にやるせなさを感じて唇をかんだ鷹司。
だから彼らはまた気付くことが出来なかった。
最後の台詞で砂漠の言葉を使ったことで、2人の言葉を切り替えた事に。




