決戦
駆け出したのは同時だった。
そして、シュッと風を切る音が重なり、硬い悲鳴のような衝撃音が空を破るように広がる。ふたりの剣がぶつかり合った音だ。
重い……。
「うっ」
ジャクリーヌは、思わず息を漏らしてしまった。それでも、必死にブロンの手綱を握り、堪えようとする。
まるで、その黒鉄の鎧そのものがジャクリーヌに圧し掛かったような、そんな圧を全身に感じたのだ。
そして、剣が受けた重みに耐えきれず、押し弾かれたのはジャクリーヌだった。しかし、エヴァンの剣は思っていた以上の重みをジャクリーヌに与えたが、彼女が仰け反りそうになるところ、ブロンが彼女の手綱の動きに気づき、スピードを緩め、それを回避した。目の前を掠めた切っ先と、ブロンの流線を描くようなリズムが、ジャクリーヌに『生』を思い出させる。
大丈夫、生きてる。潰されてはいない。
直後、体勢を整えた彼女は、エヴァンを追撃する。
重みで勝てることはなさそうだ。
ならば、背後を。
狙いは、馬の揺れで時に顕になる首の隙間。
ジャクリーヌは目を凝らし、その馬のリズムを見極めた。馬は生き物である。同じスピードで走っている限り、同じリズムで走り続ける。
――今。
一瞬の隙を見逃さず、振りかぶったジャクリーヌの剣先は、しかし、わずかで躱されてしまう。すぐさま相手の次手が撃ち込まれ、ジャクリーヌの腕にある小盾を貫こうとした。その重みがまた、ジャクリーヌの腕を砕こうとする。骨の内からの震えを感じる恐怖。これは、髪を切り落とした時の絶望にも似ていた。
どうしようもなく、勝てない……。
もし、ブロンの温かな振動がジャクリーヌに伝わっていなければ、ジャクリーヌは時間を止めてしまっていたかもしれない。
天を仰いでいたかもしれない。
あの時のように、どうしようもない思いに潰されていたかもしれない。
しかし、そんな彼女を嫌がりもせずに乗せ続けているブロンを傷つけるわけにはいかない。その思いで、ジャクリーヌは面の中、敵を睨み付けた。
「ブロン」
彼女の言葉に、ブロンが走る方向を変え、彼と距離を置く。
一方で黒に身を包む遠ざかる彼は、恐怖すらまったく感じていないように見えた。まるで聳え立つ山のように不動で、黒い意志はダイヤモンドよりも硬くあるような。
だが、彼――セファゾドール第三王子エヴァンには後がないはずなのだ。
例えこの決戦に勝利しても、帰るべき国すら存在するかも分からない。
それなのに、どうしてこれほどに、不動であり続けられるのだろうか。
エルバーグリークに捕らえられた残兵からの言葉で、彼を悪く言う者は誰もいなかった。誰も裏切らなかったとも言い換えられる。
『俺たちは戦いたかった。だけど、エヴァン様に生き残る道を探れと言われた』
――そうしないと、エヴァン様がきっとお怒りになるから。
彼らはあんなひどい処遇の中でも笑い合っていた。エヴァンのために盾になり、そして、今やエルバーグリークの捕虜だ。残った時点で、決まった運命。
……どうして笑えるのだろう。
ジャクリーヌには、分からなかった。しかし、敵は負けるつもりがないのだ。だから、ジャクリーヌは彼の思惑を感じ取ろうと、必死に頭を働かせていた。
エヴァンは、持久戦に持ち込む気なのだろうか。
ジャクリーヌはそんなことを思いながら、今度は背後に付いたエヴァンを考える。力の差が歴然のジャクリーヌの頼みの綱はブロンだけだった。
あの重みを受け続けることは難しい。しかし、ブロンは、わたしを落馬させたことがない。
落馬を狙えば……。その体勢を崩した一瞬を狙えば……。
勝てないじゃなく、勝たねばならない。
そうしないと、わたしは、死神ですらいられないの。
ジャクリーヌはふくらはぎで、ブロンの腹を軽く蹴って合図した。
きっと、ブロンなら大丈夫。
そんな思いがあったのだ。スピードを上げる、距離を取る。背後の様子を背で感じる。馬の足音が早まっている。エヴァンの馬もスピードを上げたようだ。
ブロン……。
相手に気づかれないように、スピードを落としていくジャクリーヌは、静かに前だけを見て、ブロンを走らせていた。あと少し。追いつかれるまで、もう少し。
砂だ。この辺りは岩場ばかりではない。草原には、泥濘を作る柔らかい場所がいくつもある。ジャクリーヌは、それを知っていた。
ブロンのスピードをさらに下げると、ブロンの足が一歩、無理なく砂にうずもれたことを、ジャクリーヌに伝わるその振動から感じた。おそらく、スピードを落とすことなく、すでに背後まで追いついてきた相手の馬は、足を取られ、バランスを崩すだろう。
そして、ジャクリーヌに手綱を引かれたブロンが、砂の上で突如振り返った。
ジャクリーヌの眼前すぐそこ。黒馬が嘶きと共に前足を大きく宙に上げる。
すぐさま、ジャクリーヌはブロンを前進させる。黒馬が足を大地に下ろす前に。
黒馬の真横。もう一度振りかぶったジャクリーヌが、バランスを崩した騎手に、剣を力いっぱい打ち付けた。
薄く重厚に引き延ばされた鉄と、硬さだけを求めた人を傷つける鉄が、ぶつかる音が、ふたりの間で大きく響く。
一瞬、驚く彼と視線が交わった気がした。
落下すると分かった彼が、馬の手綱を手放し自ら落ちていくさまが見えた。しかし、ジャクリーヌの打った衝撃が相殺されたわけではない。
そして、大地に身を落とし、ころがり続けた彼の面が割れた。
彼が止まる。何の雑音も聞こえない。
いや、ブロンの自然な並足の音だけが、空間を占めている。
両手で顔を覆うようにして、大地にうずくまった彼からは、短い黒髪と日に焼けて引き締まった顎の輪郭だけが、顕になっていた。
彼のそばでは、やはり駆け寄っていた黒馬が、気持ちを落ち着かせるかのようにして、落下した主人のそばで、前足を使って砂を掻いている。その様子は、黒毛のしっぽが激しく振り回されている状態からも興奮状態だとも言える。しかし、鼻息を荒くしながらも、主人のそばにいる。それは彼と黒馬の信頼の深さの証明なのだろう。
そんな彼らのすぐそばで、ジャクリーヌはブロンから降りた。
エヴァン・ファゾリナ・イル・セファゾドール。
それはジャクリーヌの敵の名だ。
それなのに、彼の顔に鼻を近づけた黒馬は、彼にとっての敵であるジャクリーヌに、その彼の首筋を至極簡単に明け渡した。
邪魔になるものがないジャクリーヌは、剣先をそのまま彼の顕になった首筋に向ける。
「お前に、言い遺したいことはあるか」
おそらく、頭を強く打ち付けていた彼も状況は把握したのだろう。諦めたように大の字になった彼は、天だけを見つめてこう言った。
「そうだな……」
――生き残っている家族に、伝えてくれないか。
俺は、ゆっくりとあの庭で待っているから……と。
待っているから……死に急ぐな、と。
彼はジャクリーヌを一切見ることなく、その澄んだ黒い瞳だけを空に向けて、静かにその時を待っていた。
ブロンが鼻を鳴らす。ジャクリーヌの胸が騒ぎ出す。何かが壊れそうなくらいに、体中が騒いでいる。
――人間とは……。
人間とは、死から己を守ろうとするもの。
だから、わたしは……。
わたしは……。
きっとわたしは、死を前にして他人の『生』など望めない。
きっと、逃げたくなる。相手を恨む。
人間とは、いったい何なのか……。
彼が答えを知っているのだろうか。
この衝動とともに『わたし』を壊しても、『わたし』は生きていてもいいの?
どうして、あなたは今ここにいない者の『生』を望めるの?
わたし自身も誰かに望まれる『生』を持っているの?
彼の言葉が聞こえる。
「ありがとう。感謝するよ」
と。
ジャクリーヌは無意識のうちに、彼の願いに頷いていたのだ。
それは、彼女の中で彼の言葉が、彼女の揺らぎとして根付いた瞬間だった。




