再挑戦への壁
夜の街を歩く足取りは、妙に重かった。
優里に突きつけられた言葉が、
頭のなかで何度も反響する。
「ただの情熱ではなく、具体的な行動で示して」
その響きが胸を圧迫して、呼吸さえ浅くなる。
どうすればいいのか分からない。
父から与えられてきたのは“命令”であり、“課題”だった。
だが優里は違う。
投げかけてきたのは、答えのない“問い”だった。
ふと、スマホが震える。
画面に表示された名前を見て、思わず口元が緩んだ。
「……晴人」
通話に出ると、穏やかな声が耳に広がった。
「おい蓮、また酒に逃げてないだろうな」
「……図星だ」
「やっぱりな。ちょうど近くにいるんだ、顔見せろよ」
言われるまま、待ち合わせの店に入ると、
既に晴人が席に座っていた。
広報部のネームプレートを外した彼は、
ただの友人の顔になっている。
「で? 今度は何をやらかした」
グラスを差し出されながら、俺は深いため息をついた。
「やらかしたんじゃない。……やられたんだ」
「ほう?」
「面接はまた落とされた。それどころか、あの女社長に……“具体的な行動で示せ”って言われた」
晴人は驚きもせず、淡々と水を飲んだ。
「……いいじゃないか」
「どこがいいんだよ! 俺はあの会社に入れない。御曹司としても通用しない。何もかも全部、否定されたんだぞ!」
声を荒げる俺に、晴人は冷静な目を向けた。
「それが、初めてお前が“試されてる”証拠だ」
「……試されてる?」
「今までのお前は、試される前に勝ちが決まってた。名前や肩書きが保証してたからな。でも優里って人は、それを全部無視して“蓮自身”を見てる。お前にとっちゃ、そんな相手は初めてだろ?」
グラスを持つ手が止まる。
図星だった。
父も、取り巻きも、友人ですら、
俺を“御曹司”として扱ってきた。
だが優里は違う。
ただの男として、俺を真正面から切り捨てた。
「……悔しい」
「だから、いいんだよ」
晴人は口元に笑みを浮かべた。
「その悔しさをどう使うかだ。父親みたいに権力でねじ伏せるのか、それとも、自分で何かを掴み取るのか」
俺は黙り込んだ。
胸の奥で、重い塊がじわりと動き出すのを感じる。
晴人の言う通りだ。
優里に突きつけられた言葉は、ただの拒絶じゃない。
挑戦状だ。
「なぁ晴人」
「なんだ」
「お前……面接の練習に付き合ってくれないか」
「本気でやる。だから、協力してくれ」
俺の声は震えていた。
だが、それは恐怖ではなく決意の震えだった。
晴人はしばし俺を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……いいだろう。お前がそこまで言うなら、徹底的にやってやるよ」
その瞬間、俺の中で何かが切り替わった気がした。
“御曹司”ではなく、“星野蓮”として挑む覚悟が。
「じゃあ、始めるか」
晴人はカフェのテーブルにノートパソコンを開き、
真剣な目で蓮を見据えた。
昼下がりの人のざわめきのなか、
二人の前だけが試験会場のように張り詰めた空気を纏っていた。
「本番だと思えよ。まずは志望動機から」
蓮は一度深呼吸をして、口を開いた。
「……私は、御社の……いや、優里さんの……」
途中で言葉がつかえる。
優里への想いが先に出そうになるのを必死に抑えるが、
口調はぎこちない。
晴人はすぐに手を挙げて止めた。
「ダメ。名前を出すな。社長を“個人的に”慕ってるなんて言っても、ビジネスの場では説得力ゼロだ」
「でも、俺は……」
「気持ちはわかる。でも面接官が知りたいのは“会社にとって君がどんな価値を生み出せるか”なんだ。御曹司として何を見てきて、何を学んできて、どう役立てられるか。それを具体的に話せ」
蓮は悔しそうに唇を噛む。
今までの人生、
父や周囲からは「堂々と話せ」「自信を見せろ」と求められてきた。
だが、ここでは正反対だ。
根拠と行動がなければ、言葉に重みがない。
「じゃあ、もう一回いこう。志望動機」
晴人は冷静に促した。
「……私はこれまで、父の会社で多くの経営会議や取引現場を見てきました。そのなかで、旧来の大企業のやり方では対応できないスピード感の課題が山積していると痛感しました。スタートアップのような、現場と市場に即応できる仕組みを学びたいと思い、御社を志望しました」
今度は最後まで言えた。
「悪くない。けどまだ抽象的だな」
晴人はメモを取りながら首をかしげる。
「“スピード感の課題”って何? “旧来のやり方”って具体的にどういう点? そこが答えられなきゃ、聞いてる側は『なんとなく言ってるだけ』って思う」
「……たしかに」
蓮は額に手を当てた。
言葉にすることの難しさを痛感する。
父の会社の会議室で聞き流してきた単語の数々が、
今ここで自分の足を引っ張っている。
「次、自己PRだ」
晴人の声はさらに厳しい。
「今までのキャリアは?」
「……正直、まともなキャリアはない。ただ、環境は誰よりも見てきた」
「また抽象的。たとえば?」
「海外支社で、父の代理として視察に同行したことがあります。そのとき、現場の社員が経営陣の決定に不満を持っているのを知りました。数字だけじゃなく、現場の声を拾う重要性を学んだんです」
晴人はしばし黙り、そして口元を緩めた。
「お、それだよ。それは“経験”として具体的だ。もっと掘れ。どうやって現場の声を拾った? 君はそこで何をした?」
「……正直、俺はただ聞いていただけだった。でも、それを父に伝えようとしたとき、『余計なことを言うな』と止められた」
「なるほど。そこで何もできなかった悔しさも含めて、学びにできるな。いいぞ」
晴人は手を叩いた。
「蓮、忘れるなよ。優里が求めてるのは“行動”だ。失敗でも、未熟でもいい。けど、君自身の言葉で語れる体験があるかどうか。それだけで評価は変わる」
蓮は真剣にうなずいた。
模擬面接は一時間以上に及び、
晴人は何度も厳しいツッコミを入れた。
そのたびに蓮は汗をかきながらも答えをひねり出し、
自分の言葉を少しずつ磨いていった。
最後に晴人がコーヒーを飲み干し、にやりと笑った。
「よし、まだ下手だけど、前よりは形になった。これならギリ、スタートラインには立てる」
「……ありがとう、晴人」
「礼は合格してから言え。まだ壁はこれからだ」
何度目かの挑戦の日。
蓮はまだ陽の昇りきらない早朝に目を覚ました。
寝返りを打つたびに心臓が速く打ち、
胸の奥でざわめきが止まらなかった。
「……今日か」
これまでの人生で、試験や選考の前に緊張した記憶はほとんどない。
名家の御曹司という立場は、
多くの場面で“用意された席”を当然のように与えてきた。
周囲の大人は
「君ならできる」「堂々としていればいい」と背中を押してくれた。
そこには失敗や不採用という概念すらなかった。
だが今は違う。
昨日までの模擬面接で、
いかに自分の言葉が空虚だったかを思い知らされた。
優里に突きつけられた
「行動で示せ」という試練が、頭から離れない。
俺は、まだ何も成し遂げていない。
けど、逃げたら一生このままだ。
蓮はスーツのジャケットに袖を通す。
今までなら仕立ての良さだけで自信をまとえた。
しかし今日は、その布の重みが
「責任」という言葉に変わってのしかかる。
鏡の前に立つと、自分の目がどこか硬直していることに気づく。
「……笑え」
小さく呟き、口角を上げる練習をする。
だがそれは、いつもパーティーで浮かべていた
仮面の笑顔ではなく、もっと自然な、
自分の意志を映す笑顔でなければならない。
カバンを閉じる手が震える。
ふと、昨夜の晴人の声が脳裏に蘇った。
“失敗でも、未熟でもいい。君自身の言葉で語れる体験があるかどうか。それだけで評価は変わる”
その言葉に縋るように、蓮は呼吸を整えた。
「俺は俺の言葉で話す。それしかできない」
心臓はまだ速い。
だが、不思議と足は前に出る。
初めて“自分の力で勝ち取りにいく”という実感が、
恐怖と同時に小さな高揚を与えていた。
ビルのエントランスが視界に入った瞬間、
蓮の背筋がぴんと伸びた。
昨日まで何度も不採用を言い渡された場所。
それでも足が自然と前へ出る。
まるで挑戦者を迎え撃つ闘技場の門に見えた。
自動ドアが開くと、冷たい空調の風が頬を撫でる。
受付には社員らしき女性が座っており、
蓮が姿を現すと一瞬驚いたように目を見開いた。
顔は覚えられている。
何度も落ちているのだから当然だ。
「……本日、再度、面接のご予約をいただいている星野蓮様でいらっしゃいますね」
淡々とした口調。
それでも蓮には「まだ来るのか」という
呆れが滲んでいるように聞こえた。
「はい。よろしくお願いします」
深く頭を下げる。
かつての蓮なら、相手の視線を気にも留めなかっただろう。
しかし今は、その一つ一つが自分の評価に繋がると分かっている。
エレベーターに乗り込むと、
鏡張りの壁に自分の姿が映る。
汗ばむ手をこっそりスラックスで拭いながら、
心のなかで繰り返す。
落ちてもいい。
けど、逃げるな。
優里に言われた「具体的な行動」を、
今日こそ見せるんだ。
「上へ参ります」
機械的なアナウンスが流れると同時に、
胸の鼓動がさらに速くなる。
面接室のあるフロアで扉が開いた。
そこには数人の社員が談笑しながら歩いており、
彼らの視線が一斉に蓮へと注がれる。
誰も口には出さないが、
その空気に「また来たのか」というざわめきが漂った。
蓮は立ち止まらない。
背筋を伸ばし、呼吸を整え、面接会場の扉に手をかけた。
「行くぞ」
扉の向こうに、再び優里が待っている。
会議室の空気は、張りつめていた。
白い壁、整然と並んだ椅子、机の上に置かれた水のグラス。
すべてが「試験の場」であることを物語っている。
優里はすでに席についていた。
黒髪ショートの横顔は凛と引き締まり、
その姿勢には揺るぎがない。
「……またお会いしましたね、星野さん」
その一言で、蓮の背筋は自然と伸びる。
「はい。今度こそ、証明したいと思いまして」
声が少し震えた。
だが彼は、晴人と繰り返した練習を思い出し、
胸の奥で言葉を整えた。
「あなたの会社が抱える課題は、人材の流動性だと思います。私は前職で培ったコネクションを活かし、採用活動を……」
言葉が途切れた。
優里の目が、じっと彼を射抜いていたからだ。
冷たさというより、鋭い「見抜く眼差し」。
取り繕った言葉は一瞬で剥がされ、
胸の奥がむき出しになるような感覚。
「……前職、というのは?」
「……え?」
「あなたが挙げたその実績、すべては“星野グループの御曹司”という肩書きがあったからこそ、ではありませんか?」
心臓が大きく跳ねた。
痛いところを突かれた。
晴人と何度も練習したとき、最も避けたい質問だった。
「そ、それは……」
「ここでは、その肩書きは通用しません」
淡々とした口調。
だがその言葉は氷の刃のように鋭く、蓮の胸に突き刺さった。
沈黙。
呼吸が浅くなる。
机の上の手が震える。
優里は少しだけため息をつき、椅子から背を離した。
「あなたが本気で変わろうとしているのは分かります。けれど今のあなたでは、まだこの会社には必要ありません」
宣告。
「不採用」という言葉が、またも突きつけられた。
その瞬間、蓮の耳の奥でざわめきが広がった。
「また、ダメなのか……?」
頭の中に浮かんだのは、
父の冷たい視線、世間の嘲笑、
そして自分の情けない姿。
「……ありがとうございました」
やっとの思いで言葉を絞り出し、蓮は頭を下げた。
会議室を出ると、足が鉛のように重い。
エレベーターまでの廊下が、異様に長く感じられた。
「肩書きが通用しないなら、俺に何が残る?」
胸の奥で、静かな問いが膨らんでいく。
だが答えは、まだ見つからない。
夜の街のネオンが、滲んで見えた。
酒場の扉を乱暴に開け、
カウンターに身体を投げ出す。
「……マスター、強いの。なんでもいい」
返事も待たず、琥珀色の液体がグラスに注がれた。
氷が鳴る。
口に流し込む。
喉が焼ける。
胸の奥まで熱くなる。
それでも、今日の言葉の冷たさは消えない。
「肩書きは通用しません」
「まだ必要ありません」
頭のなかで、優里の声が何度も反響する。
グラスを何杯空けただろうか。
視界が揺れる。
笑い声と音楽が遠くに霞む。
「チクショウ……!」
思わず声を荒げ、カウンターを叩いた。
隣にいた客が一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らす。
その反応すら、惨めに感じた。
「なんで俺が……。俺が、あんな女に……!」
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、心の奥にある苛立ちと情けなさを
吐き出さずにはいられなかった。
そのとき。
「……お前、またやってんな」
低い声。
振り向くと、そこには晴人が立っていた。
「は、晴人……? なんで……」
「お前の秘書から連絡があったんだよ。『また坊ちゃまが夜の街で暴れてる』ってな」
晴人は呆れ顔でカウンターに腰を下ろした。
「……あの女に、また拒絶されたんだ」
蓮は酔った舌で絞り出す。
「俺は何をしてもダメだってさ……。御曹司だから肩書きがどうとか、そんなの……。くそ、もうやめてやる! 二度と行くもんか!」
子どものようにわめく蓮を、晴人はじっと見つめていた。
やがて、ため息をつく。
「……なら、なんで今こうして、泣きそうな顔してんだよ」
「は……?」
「ほんとにやめるなら、俺にグチ言う必要ないだろ。悔しいから言ってんだろ?」
図星を刺され、蓮は言葉に詰まった。
返す代わりに、グラスをもう一杯あおる。
だが酔いでは、胸の痛みは誤魔化せない。
晴人は静かに続けた。
「俺からすりゃ、あの女社長は優しい方だと思うぜ」
「……は?」
「だってさ。普通なら、二度も三度も面接に来るやつなんか、相手にしない。門前払いだ。けど、優里さんは毎回お前にちゃんと会って、時間を割いてる。冷たい言葉も、本気でお前を見てるから出てくるんだ」
その言葉が、酒よりも強く胸に染み込んだ。
蓮は思わずグラスを置き、俯く。
「お前にはまだ分かんねえかもな。でも少なくとも、俺はそう思う」
晴人の眼差しは真剣だった。
蓮の心の奥に、
小さな火種が残っていることを、彼は見抜いていた。
翌日。
頭の奥にまだ酒の残り香を引きずりながら、
蓮は会社ビルの近くを歩いていた。
優里に会う勇気は、まだ出ない。
それでも、気づけば足がそこへ向かってしまう。
ちょうどそのとき。
ガラス張りのエントランスに、一人の男が姿を現した。
長身で、無駄のない仕草。
濃紺のスーツがよく似合う。
社員に軽く会釈をしながら、
真っ直ぐ奥へ進んでいく。
その顔は、見覚えがあった。
松本恭一。
優里の会社で古参として知られる社員であり、
彼女を支える参謀役。
蓮は、反射的に息を呑む。
そのタイミングで、スマホが震えた。
表示されたのは晴人からのメッセージだった。
《松本って人、調べてみた。
元は大手商社に勤めてたエリート。優里さんの起業に惹かれて転職。
経営の数字面では彼がほぼ支えてる。社内での信頼は厚い。
……つまり、お前のライバルだな》
ライバル。
その言葉が、心に突き刺さる。
蓮はしばらく立ち尽くしていた。
優里の会社の社員たちが
「松本さん、お疲れさまです」と声をかけるたび、
彼が築き上げた信頼の厚さを痛感する。
そして、ふと考えてしまった。
俺に、こんな背中を見せられるだろうか。
優里に、あんなふうに必要とされることがあるだろうか。
胸の奥に、再び小さな火が灯る。
嫉妬か、悔しさか。
それとも、認められたいという純粋な欲求か。
ただ一つ確かなのは、松本の存在が蓮にとって
「大きな壁」となることだった。
「……負けてたまるか」
小さく呟いた言葉は、街の喧騒にかき消された。
松本の背中が、頭から離れなかった。
社員たちに自然に声をかけられ、誰もが彼を頼りにしている。
あの落ち着き、あの信頼感。
あんな男に、俺は一生勝てないのか。
ベッドに寝転がって天井を睨みながら、蓮は歯噛みした。
金も家柄も、ここでは何の意味もない。
なら、俺には何が残る?
スマホが震えた。
《生きてるか?》
晴人からの短いメッセージ。
《お前にはお前の武器があるだろ》
《御曹司として甘やかされてきたからこそ、普通のやつが経験できないこともしてきたはずだ》
「……武器、か」
呟いたその言葉は、胸の奥にひっかかり続けた。
考えれば考えるほど、
これまで「強み」を意識したことがなかったと気づく。
ただの金持ち。
取り巻きと遊んでばかり。
それが俺、星野蓮のすべてだった。
けれど。
優里に「具体的な行動で示せ」と突きつけられたあの日から、
何かが変わり始めている。
「俺にしかできないこと……それを見つけなきゃ」
決意の言葉を口にした瞬間、心に小さな火が灯った。
それはまだ頼りない火種にすぎない。
けれど、確かに、次の一歩へと繋がる光だった。




