御曹司の過保護モード
優里の頬の傷は、初期の赤みが引き、
細い線として残る程度になっていた。
しかし、蓮の過保護体制は健在だった。
「優里! 今日は傷の経過観察日だ。日焼けは厳禁! この帽子を被るんだ! UVカット率99.999%、月面基地仕様だぞ!」
「いらない。」
「なっ! 俺は優里の回復を最優先しているんだ! 分子レベルでゼロだぞ!?」
「くだらない。それと、その鼻歌やめて。 気が散る」
(フッ…… 俺の愛の帽子を拒否!? これは恥じらいのサイン! 俺が隣にいると緊張しすぎるからだ! 間違いなくデレ!)
蓮の妄想回路は強固に稼働し、
優里の冷たい要求を
すべて愛情の裏返しだと翻訳し続けた。
経過観察のため、
二人は蓮の知人である
美容外科医のクリニックを訪れた。
蓮の知人の医者は、
すでに蓮の熱意と過保護っぷりに呆れていた。
「……またですか、この御曹司……」
医者はため息をつきながら手袋をつける。
優里の頬を診察すると、
経過は良好で傷跡もほとんど目立たない。
「このまま治療を続ければ、ほぼ分からなくなりますね」
蓮はほっと息をつき、安堵の表情を浮かべた。
優里は鏡で自分の顔を確認し、軽く微笑む。
「……これで、日常生活に支障はないですね」
蓮は目を輝かせて言った。
「よかった……!俺が側にいて本当に守れてよかった……!」
優里はその熱い言葉に、軽く頭を傾げるだけ。
「……もう、十分じゃないですか」
二人の間に、
いつもの冷静な優里と
必死な蓮のコントラストが戻った。
傷跡はほとんど消え、蓮は満足しつつも、
優里のクールさに翻弄される日常が再び続いていく。
診察が終わり、会計。
蓮は優里の目の前で、御曹司の本領を発揮した。
彼はテーブルに無造作に、
黒く鈍い光を放つブラックカードを叩きつけた。
「これで頼む。 金額はいくらでも構わない。 優里の傷が治るまで、全て俺が負担する」
その圧倒的な財力と、イケメンな外見、
そして必死な優里への態度に、
受付担当や看護師たちは一瞬でメロメロになった。
「あの…お二人は、モデルさんか何かですか……?」
「愛ですね…… なんて素敵な彼氏なんでしょう」
蓮は周囲からの羨望の視線を浴び、
「フッ、これが御曹司の力」と得意満面になる。
そして、優里にも最高の瞬間だと確信し、
最高の笑顔を向けた。
「優里、見たか! このカードの威力を! 俺の全ては君のものだ!」
しかし、肝心の優里は、相変わらず冷たいままだった。
彼女は受付嬢たちに向かい、
そっと耳打ちするように囁いた。
「あの……彼(蓮のこと)が欲しいなら、差し上げますよ? 押し付けがましいから」
……ズドォォォォン!!!!!
「俺の価値は、ブラックカード以下かっ!」
蓮は再び心臓を撃ち抜かれ、
その場で膝から崩れ落ちた。
「経過は極めて良好だ。 あと数ヶ月のフォローで、ほとんど目立たない傷跡に落ち着くだろう」
蓮は崩れ落ちた姿勢のまま、
優里の冷たい視線と
医者の安堵の言葉を交互に受け止める。
(付き合ってはない。雑菌扱い。あげると言われた……だが、優里の顔は治る! それでいい!)
蓮の御曹司としての戦いは、
まだ続くのだった。
優里の頬の傷が落ち着くにつれ、
蓮の過保護ぶりは
オフィスでの日常にまで広がっていった。
「今日は通勤途中、危ない人いなかったか?」
蓮は優里のデスクの周りを無駄に旋回しながら、
警戒心Maxで尋ねる。
「いや、念のためだ!」
優里は淡々と書類を整理しながら、
「……はいはい」と軽く返すだけ。
だがその横顔を蓮は目を細めてじっと見つめる。
「傷、悪化してないか? 今日の天気なら日焼け止め必須だな……」
優里にとって、蓮の行動はうざったいが、
その裏に悪意がないことは理解していた。
それでも蓮は構わない。
少しずつだが、
優里の冷たい表情の裏にある
小さな微笑みを見つけた気がして、胸が高鳴るのだ。
「……俺、今日も絶対守る」
優里はそんな蓮の必死さに、
少しずつ心を許し始めていた。
優里が小さな安らぎを感じ始めた、
その瞬間だった。
会議室のドアが勢いよく開き、
蓮に勝るとも劣らない端正な顔立ちをした
もう一人の御曹司、蒼司が
絢爛豪華な花束を抱えて入ってきた。
「優里! 私の愛しい花よ! 傷の回復は順調かい? 蓮の雑な世話では、君の美しい肌は十分なケアを受けられないだろう?」
「あ、蒼司!? なぜここに! ていうか、雑な世話ってなんだ! 」
蒼司は蓮を無視し、
優里のデスクに高級そうな最新の美顔器と
特別調合された化粧水のセットを積み上げた。
「これはスイスの山奥の修道院で満月の夜にしか採れない希少なハーブを使った傷跡治療のための秘薬だ。毎朝、私が直接塗布してあげよう!」
「な、なんだと!? 私だと!? 俺の優里に勝手に触るんじゃねぇ! 俺には自家製氷河水があるんだぞ!」
蓮は自分の椅子から飛び上がり、
蒼司に対抗するように優里の周りを旋回し始めた。
「優里! 俺が先に君と結婚するって言ったんだぞ! こいつの過保護は偽物だ! 俺の方が命がけで気絶したんだ!」
「気絶? 恥を知りたまえ、蓮。 本当に愛する女性の危機に、意識を失うなど論外だ。 私なら彼女の傷の回復のため、星野グループの株をすべて買い取って、彼女に捧げるね!」
「そ、それ、ただの買収だろ!?」
二人のイケメン御曹司による過保護マウント合戦は、
一触即発の様相を呈していた。
優里は両手で額を押さえ、
深い、深い、ため息をついた。
「……二人とも、うるさい」
冷え切った、静かな声が会議室に響き渡った。
「私、もう大丈夫だから。 私の仕事の邪魔」
優里は呆れた目で二人を尻目に、
ゆっくりとマグカップのコーヒーを飲み始めた。
「優里、今日は俺が送るよ」
その一言で、蓮の胸は凍りつく。
「……え、ちょっと待て、俺が毎日付き添って……」
蒼司は笑顔で優里の肩に手を回し、自然に腕を組む。
「蓮くん、今日は任せて」
蓮の心臓は爆発寸前。
「任せてって……お前……!」
蒼司は、蓮以上に優里を気遣い、
歩幅を合わせ、荷物も持ち、
雨が降ればさっと傘を広げる。
「……ちょっと、そっち向きすぎ……!」
蓮の妄想と嫉妬は一気にMAXに。
(結局、この人たちは、私が仕事をしている間、勝手に喧嘩していてくれるのが一番静かなのね)
優里の心は、二人の御曹司の過剰な愛情と
馬鹿馬鹿しい競争によって、
完全に平穏を取り戻したのだった。
優里の会社のエントランス。
星野グループの御曹司である蓮と、
ホテルの御曹司である蒼司が、
火花を散らして立っていた。
蒼司が颯爽と現れると、蓮の目が瞬時に鋭くなる。
「……なんでオマエ、他社のくせに優里の会社に来てるんだよ!」
蒼司はにやりと笑い、冷静に返す。
「オマエこそ、星野グループの御曹司のくせに、優里の会社にスパイとして潜入しているじゃないか。さっさと星野グループに戻れよ」
蓮の目がさらに見開かれる。
「は?誰がスパイだ!」
「スパイだろ?元々は優里の会社を買収するために星野グループがよこした人質みたいなもんだ。買収計画が白紙になった今、オマエがここに残る理由はないだろ」
蓮は手を大きく振り上げ、思わず声を荒げる。
「んなわけあるか!俺はスパイじゃない!優里を守るためにいるんだ!俺がここにいるのは……」
「俺だって優里の安全を守るためだ!」
蒼司も譲らない。
「俺の方が御曹司としての資格も立場もある!オマエは星野グループの御曹司だろうが、俺が先に優里を保護する!」
二人の声は次第に大きくなり、
周囲の社員たちが遠巻きに見ている。
優里はため息混じりに二人を見やり、肩をすくめる。
「……二人とも、本当に子供みたい」
蓮は顔を真っ赤にして蒼司に詰め寄る。
「子供じゃねぇ!これは責任感だ!優里を守るのが俺の仕事だ!」
蒼司は肩をすくめ、冷静に返す。
「責任感?それなら、俺のホテルで一晩保護してみろよ。安全度は俺の方が高い」
蓮の心臓が跳ね上がる。
「なにぃ!?オマエ……俺の優里に手を出す気か!?」
「手を出す?守るんだろ?ほら、文句あるなら俺の方が先に優里の横にいるぞ」
(……こんな奴に負けるわけにはいかねぇ……)
蒼司も同じことを考えているに違いない。
「……そこのうるさい御曹司」
優里の声に蓮は飛び上がる。
「お、俺のことっ!?」
「外出るからついてきて」
「よっしゃ!任せろ!」
蓮は、これでもかというほど
蒼司にドヤ顔して、優里の後ろをついていった。
優里が訪れた保育園は、
朝の柔らかい日差しが園庭に差し込むなか、
子どもたちの元気な声が響いていた。
園長やスタッフたちに丁寧に挨拶をしたあと、
優里は、今回提供している
保育園効率化サービスの進捗状況を確認するために
園内を見回す。
「……順調に導入されているみたい」
優里はメモを取りつつ、園内の様子に目を走らせる。
その視線の先に、蓮がいた。
彼は子どもたちに囲まれ、
無邪気に笑いながら一緒に遊んでいる。
積み木を積んだり、滑り台を一緒に滑ったり。
普段の御曹司としての威厳や冷静さは影も形もなく、
ただ純粋に子どもたちと戯れるその姿は、
周囲のスタッフさえも微笑ませるほどだった。
優里は思わず目を細め、心のなかで呟く。
(……なんだか、すごく自然に子どもたちと接してる……)
彼の指導や遊びのなかには
押し付けがましさもなく、
子どもたちの一人一人に目を向け、笑顔で反応している。
(……こんな人なら、絶対にいい父親になれる)
優里はふと、胸の奥が温かくなるのを感じた。
冷静な目線を保ちながらも、
無意識に蓮の横顔を追い、
微笑むその表情に目が釘付けになる。
しかし現実は、そんな優里の心をあざ笑うかのように、
蓮は何も気づかず無邪気に子どもたちと遊び続けている。
「……ま、いいか」
優里は小さく息をつき、メモを再開する。
仕事のチェックと同時に、蓮の姿をちらりと見ては、
心のなかで勝手に評価してしまう自分に苦笑した。
一方、蓮は子どもたちの手を引きながら、
「もっと高く積めるぞ!」「よーし、次は滑り台だ!」と
声を弾ませる。
その無邪気な笑顔に、優里はふと、
仕事の緊張や日常の駆け引きから
解放されるような感覚を覚えた。
(……ああ、こういう瞬間を見られるのも、私の仕事のひとつなのかもしれない)
優里は小さく息をつき、
再び手帳を閉じて園児たちの楽しそうな声に耳を傾けた。
そして、その視線の先で笑う蓮に、
心の奥でほんの少しだけ、
柔らかな安心と尊敬を感じていた。
蓮は子どもたちとの遊びですっかり満足した表情を浮かべ、
泥のついたズボンも気にせず、
優里のもとへ
スキップするようにやってきた。
「子どもって可愛いよなぁ。無邪気でさ。あの子たちの将来のために尽くす優里は本当に素敵だよ!」
蓮は優里の行動を、
彼女の優しさの証だとしみじみとつげた。
優里の会社が教育事業をメインにしているのは、
蓮にとって優里の愛情深さの証明に他ならなかった。
優里は手帳を閉じ、
何の感情も込めないクールな目線を蓮に向けた。
「……私、子ども苦手なの」
蓮の頭のなかで、
壮大な妄想スクリーンが爆音とともに粉砕された。
蓮の笑顔は凍りつき、
脳内では緊急事態の警報がけたたましく鳴り響く。
(えぇぇぇぇぇ!!!??)
蓮の顔は瞬間的に真っ青になる。
口は半開きになり、そのままフリーズした。
(苦手!? 苦手ってなんだ!? うちのメイン事業教育事業ですよねぇ!? あなたが立ち上げた会社ですよね!!??)
目の前の現実と、
蓮が信じてきた優里像とのあまりのギャップに、
彼の心は完全に混乱した。
優里がこの事業を始めたのは、
子どもへの深い愛情からだと勝手に断定していたのだ。
優里は蓮の白目をむきかけた顔を見ても動じない。
蓮はぽかんと口を開けたまま、思わず手を胸にあてる。
「……え、いや……でも……子どもって、ほら……可愛いじゃん……」
しどろもどろに言葉を探す姿は、
普段の御曹司としての威厳からは想像できないほど、
コミカルで人間味にあふれていた。
優里はそんな蓮を、目を細めながら冷静に観察する。
(……相変わらず空回りしてるなぁ)
でも、その横顔を見つめる目は、
わずかに柔らかくなっていた。
園児たちの笑い声とともに、
蓮の「空回りする御曹司ぶり」と優里の冷静さのギャップが、
保育園の明るい日差しのなかでひそやかに浮かび上がる。
保育園の廊下を歩きながら、
優里はふとつぶやいた。
「男の人って、子ども好きな人多いよね。私の周りだけかな…」
蓮は足を止めて、少し首をかしげる。
「……ああ、確かに、そんな気もするな」
優里は少し俯き、声を落として続ける。
「子ども好きとか、子ども欲しいって言われると、なんかプレッシャーで……」
その言葉に、蓮は真剣な顔を向け、ゆっくりと答えた。
「俺は、そんなこと言わないよ」
言葉の端々に、いつもの御曹司らしい余裕はなく、
真面目さだけが滲んでいた。
「だって、女性にはリスクしかないだろ?男は産まないからいくらだって言える。でも女性は大変なんだ、命懸けで子どもを産むんだ。そんな危険を犯すのに、気安く『産んで欲しい』とか言えたもんじゃないだろ?」
優里は少し驚いた表情で蓮を見つめた。
「……なんか、意外」
心のなかで、彼への見直しの感情が少し芽生える。
蓮はさらに続ける。
「それに、もし俺たちの子どもができたとしても、優里が子どもに付きっきりになるのは嫌だし」
ふてくされたように、小さく口を尖らせながら言う。
優里は呆れ顔で、しかし冷静に突っ込む。
「付き合うって言ってないし」
それでも蓮は少し笑みを浮かべ、
珍しく真面目な口調で言った。
「とにかく、俺は優里の意思を尊重するよ」
その言葉に、優里はしばらく沈黙する。
普段のクールで鋭い彼とは違う、
一面を見せられたことに、
胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じた。
子どもたちの笑い声が遠くから響くなか、
二人の間には、
まだ言葉にできない信頼と距離感がゆっくりと縮まっていった。
外営業を終え、
優里と蓮はいつものように蓮の車で帰路についていた。
蓮のスマホに人事部からの連絡が入った。
「蓮様、優里さん! お疲れ様です! 近くの居酒屋でチーム飲みをやってまして! もしよろしければ合流しませんか?」
「今日は直帰の予定だったんだけど…」
蓮がスマホを覗き込む。
社員たちが近くの居酒屋で飲んでいるという連絡が入ったのだ。
「せっかくだし、合流していこうか」
蓮が提案すると、優里は少し眉をひそめながらも、
「まあ、たまにはいいか」と小さく答える。
居酒屋に着くと、社員たちの明るい笑い声が迎えた。
普段は冷静で真面目な優里も、
今日は少し気を抜いて、テーブルに着く。
お酒がほとんど飲めない優里は、
端の席で静かに烏龍茶を頼もうとしたが、
チームリーダーの熱烈な勧めを断りきれず、
仕方なくカクテルを一口飲んだ。
蓮はその言葉を聞いた瞬間、
内心で小さくガッツポーズをする。
(おお…普段飲まないのに、今日は一緒に楽しもうとしてくれてる…!)
そして、その一口が運命を変えた。
数十分後。
優里の頬は普段の冷徹な白さから
柔らかな桃色に変わり、
瞳はとろんと潤んでいた。
彼女は完全に酔ってしまっていた。
普段の優里からは想像もつかない、
蕩けるような甘い声。
蓮の心臓は警鐘を通り越し、爆発寸前だった。
彼はビールジョッキを握りしめたまま、
優里に釘付けになる。
(か、かわ、可愛すぎるぅぅぅ!! 優里のデレが物理的に発動した! アルコールという名の魔法薬で、クールな仮面が剥がれたんだぁ!)
蓮の頭のなかで、
妄想のエンジンがフル回転する。
(ああ…この赤い頬…その微笑み…このまま俺の腕に倒れこんできたりしたら…いや、いやいや!いや、でも…)
彼の想像は際限なく膨らんでいく。
「俺…優里にこんな顔見せてもらえるなんて…夢みたいだ…」
優里が小さく笑うたび、
蓮の心臓は早鐘のように鳴る。
「大丈夫?飲みすぎてない?」
「ううん、平気…ちょっとフワフワするけど」
その言葉だけで、蓮はさらに妄想の渦に巻き込まれる。
(このまま二人きりで…なんて、いや、いやいやいや!社員もいるんだから、冷静に…)
しかし、目の前の優里の柔らかい笑顔と、
ほんのり赤く染まった頬を見ると、
蓮の理性はあっさり崩れ、心のなかで小さく絶叫した。
「うわああああ…可愛すぎる…!俺の優里が、俺の目の前で…っ!」
社員たちの談笑が遠くに聞こえるなか、
蓮の妄想だけがこの居酒屋を支配していた。
蓮の頭のなかでは、
すでに夜の帰り道の妄想シナリオが、
延々と再生されているのだった。
蓮の頭のなかはもう完全に制御不能だった。
(優里の頬が赤い…その赤は俺に向けられた愛の証…!このまま隣に座ってたら、手を握ったら…いやいやいや、でも目が合ったら、俺のこと見つめてる…いや、違う、酔ってるだけだ!でもこの距離…!)
目の前の優里はふわふわとグラスを揺らし、
時折小さく笑う。
「…ふふ、楽しいね、こういうの」
その瞬間、蓮の妄想は一気に最高潮に達した。
(ああ、俺が優里を抱き寄せて…このまま…いや、いや、でも社員もいる、いや関係ない!今この瞬間だけは…!)
頭のなかでシナリオが加速し、
完全に映画のワンシーンを再生しているかのようだった。
「優里、ちょっと俺の腕…暖かいから…安心すると思うんだ…」
ついに口に出してしまった蓮の告白。
だが、酔った優里は瞬間的に冷めた視線を送った。
「はぁ!?なにそれ…全然安心感ないんだけど!」
鋭い突っ込みに、
蓮の頭のなかでハートマークが一気に吹き飛ぶ。
「えっ…ええええ、違う、違うんだ!その、俺は…安心させようと思っただけで…!」
優里はにやりと微笑む。
「酔ってフワフワしてる私に、そんな妄想全開で迫るとか…やっぱりあんた、頭おかしいわね」
蓮の妄想劇場は完全に現実に引き戻され、
恥ずかしさで顔が真っ赤になる。
「いや、違うんだ、これは…!」
蓮はもがくが、優里はグラスを傾け、
あくまでクールに言い放つ。
「ほら、もういい加減現実見なさいよ。私は酔ってるだけ。誰もそんなこと望んでない」
蓮は頭をかきながら俯き、
心のなかで「ズドォーン」と音を立てて沈む。
(くっ…俺の妄想劇場が…優里に見抜かれるなんて…!)
しかし、優里の微妙に柔らかい表情や、
酔いでぽやんとした仕草を見て、
蓮は心のどこかでほっとする。
(…それでも、やっぱり可愛いな。妄想じゃなくても、十分可愛い…)
飲み会もそろそろお開きの時間となり、
社員たちはぞろぞろと店を出ていく。
優里はたったコップ一杯しか飲んでいないのに、
顔をしかめて「飲みすぎた…」と小さくつぶやいた。
「蓮さん、送ってあげられます?」
社員の一人が心配そうに尋ねる。
「まかせろ!」
蓮は胸を張り、少し大げさに腕を広げる。
(チャンスだ! 酔った優里を独り占め! 今こそ、御曹司の真の献身を見せる時!)
蓮は酔いが回っている優里を慎重に支え、
自分の愛車へとエスコートした。
蓮は自分の車の助手席のドアを開け、
優里を誘導する。
「こっちに…はい、座って」
優里はふらりと座り込み、
助手席でぐったりと目を閉じている。
優里がシートベルトをつけ損ねたのを見て、
蓮は自ら優里の側へと身を乗り出した。
シートベルトをつけるためとはいえ、
その距離は極限に近い。
優里の甘い息遣いが蓮の耳元にかかる。
(や、やばい……)
シートベルトをつけるだけでも
キスしそうな勢いの近さに、
蓮の心臓は警鐘を鳴らした。
蓮の顔は熱を帯び、
優里の柔らかな頬と潤んだ唇が目の前にある。
(家に行って介抱して…、やべっ、手出さないよな…、保て、理性!)
優里の頬が少し赤いことに気づき、
蓮の胸は締め付けられる。
「…可愛いな」小さく呟き、
すぐに頭を振って自分を戒める。
(ダメだ、今はただ無事に家まで送るだけだ。妄想は帰宅後に解放しよう…!)
夜道を静かに走る車内。
蓮の心は妄想と理性の狭間で揺れながらも、
ただひたすらに優里を安全に
家まで届けることだけを考えていた。
街灯の光が優里の穏やかな寝顔を照らす。
彼女の頬はまだ赤く、
小さな寝息が車内に満ちていた。
(くっ、優里の寝顔…! こんな無防備な優里を見られるなんて、俺しかいない! これは天からのご褒美だ!)
蓮の妄想回路は全開だった。
(このままマンションへ連れ帰り、献身的に介抱する。翌朝、優里は「昨夜はありがとう。やっぱり蓮くんしかいない」と涙ながらに告白。そして、俺たちは夜明けの誓いを交わし、結ばれるんだぁぁ!)
蓮は喜びのあまり、
無意識にハンドルを握る手に力が入る。
口元はニヤニヤと緩み、額には脂汗が滲んでいた。
彼の心臓の鼓動は優里の寝息とは真逆に、
激しく車内に響いていた。
(俺の優里、俺だけの優里!)
そのとき、奇跡的に覚醒した優里が、
とろんとした目を開けた。
優里は蓮の顔を観察するように見つめ、眉をひそめた。
「……何よ、その気持ち悪い笑顔」
蓮の顔面が凍りつく。
優里は完全に酔いが覚めてはいないものの、
鋭いツッコミの切れ味は健在だった。
「脳内で変なこと考えてるでしょ。ニヤニヤが過ぎる」
蓮は慌てて姿勢を正す。
「ち、違う! 安全運転についてシミュレーションを……!」
優里はふっと鼻で笑った。
その視線は蓮の顔から過去へと向けられる。
「ねぇ、蓮くん。貴方が昔、色んな女の人と遊んでいた時も、そんなにうるさかったの?」
鋭すぎる質問は、蓮の心の急所を直撃した。
「え… う、うるさくなんか…」
「これだけ妄想が垂れ流されて、一挙手一投足が騒々しいんだもの。女遊びしてた頃の貴方の相手、相当大変だったでしょうね」
「うるさくなかった」と断言できない蓮は、
過去の自分の行いを優里に糾弾される形となり、
完全に撃沈した。
(ズドォォォォン!! 俺の黒歴史が優里に刺さる!!)
蓮のロマンスは、
優里の冷徹な一言によって粉々に打ち砕かれ、
現実に引き戻されたのだった。
優里のマンションのエントランスに到着した蓮は、
緊張と興奮で全身が震えていた。
助手席の優里はぐったりと眠っており、
蓮は優しく抱きかかえるように
優里を部屋の前まで連れてきた。
(いよいよだ…! 介抱、一夜の同衾、翌朝のプロポーズ! これが俺の勝利の夜だ!)
「カギ、貸して」
優里がバッグからカギを取り出し、
蓮に差し出す。
「よし、任せとけ。俺がしっかり介抱してやるからな…!」
胸を張りつつ、蓮は玄関にカギを差し込んだ。
ガチャリ。
……ん?
カギが空回りする。
「……?あれ?」
鍵は回る感触があるのに、なぜか扉が開かない。
心臓が嫌な音を立て始めた、その瞬間だった。
……ガチャ。
内側から扉が開き、蓮の体にゴツンと当たった。
「いてっ……!な、なんだ!?」
顔を上げると、そこに立っていたのは、
見知らぬ男性。
落ち着いた声が、優里へと向けられる。
「おかえり、優里。大丈夫か?」
優里は男性の肩に頭を預け、ぽつりとつぶやく。
「飲みすぎた」
「酒弱いんだから飲むなって言ったろ?」
男性は軽く眉をひそめながらも、
優しく肩を抱き、部屋のなかへと導く。
「ちょ、ちょっと待て、誰……」
と蓮が言いかけたときには、
……バタン。
無情にも扉は閉ざされた。
蓮は、玄関前に立ち尽くした。
(……え?)
耳に残るのは、あの男の声。
脳裏に焼き付いたのは、優里が彼に身を預ける姿。
(……み、見間違い……だよな?)
蓮は必死に自分に言い聞かせる。
だが、脳内ではすでにフルボイス再生が始まっていた。
「おかえり、優里」
「飲むなって言ったろ?」
(い、今のは……? 男? 優里の家に? 自然すぎる……親密すぎる……)
蓮はガクガクと震えながら、
言葉にならない叫びを脳内で発する。
(お、お、おとこぉぉぉぉぉぉ!? ど、ど、同棲ぇぇぇぇぇぇ!?)
過保護も求婚も献身も、
すべてがこの瞬間、茶番へと変わった。
蓮の壮大な恋愛物語は、
優里の自宅のドアの向こうで、
完全に閉ざされたのだった。




