守護者の咆哮
翌朝。
一睡もしていないはずなのに、
最高の精神状態で出社した蓮。
優里を見るなり逸る気持ちを抑えられなかった。
昨夜、東京の夜景の下で熱狂的に愛を捧げた、
あのキーホルダーのお礼を伝えなければならない。
優里がデスクに着くと、
蓮は神妙な面持ちで彼女の前に立った。
「優里……あの、キーホルダー……本当にありがとう」
優里は書類から一切目を離さず、クールな声で応じた。
「ああ。お土産ね。気にしないで」
その冷めた返事に、蓮の妄想ブーストが一瞬停止する。
やはり、優里にとってあれは本当に
ただの「お土産」だったのだろうか。
蓮は小さく自嘲した。
「フッ…… キーホルダーごときで、こんなに喜ぶなんて、俺も安い男だよな」
その自虐の言葉は、
彼自身の本心を図らずも暴いた。
蓮は御曹司として、
家柄や金銭を目的とした高価な贈り物を
幾度となく受け取ってきた。
だが、それらは心底から喜べるものではなかった。
蓮にとって、優里が自分を気遣ってくれたという、
何でもない、飾らないプレゼントほどうれしいものはなかった。
(バカにされても、安っぽいと笑われても構わない……優里が俺のためだけに選んでくれた、このゆるいキーホルダーの価値は、世界中のどんな財宝よりも上だ)
蓮は、優里のそっけない態度にも傷つくことはなかった。
彼のキーホルダーへの愛は、すでに不動のものとなっていた。
優里がその気持ちを知らないとしても、
蓮の愛は、ただ優里の存在だけで満たされていたのだ。
「あ、でもさ、なんであの時電話してくれたの?俺の嫉妬なんて日常茶飯事だろ?いつもの優里なら気にしないのに」
(……確かに。なんでだろう。)
「……私がききたい。」
「えっ?」
(な、なに今の、か…かわいい……)
優里は微かに、本当に微かに口角を上げると、
静かな声で蓮に告げた。
「キーホルダー、喜んでくれてよかった」
蓮の心臓が、一瞬にして爆発した。
(どうしたんですか! デレ全開じゃないですか! 俺の妄想が、ついに現実になったぁぁあああ!!)
クールな優里からの直接的な「喜び」の言及は、
何億円の贈り物よりも破壊力があった。
蓮は椅子から飛び上がりたい衝動を必死に抑え、
顔がにやけるのを隠すのに全身のエネルギーを使った。
優里は蓮の過剰な反応には気づかないフリをし、
再び淡々と業務に戻った。
その時。
郵便物をまとめて受け取った事務の社員が、
優里のデスクに駆け寄ってきた。
「優里さん宛ての封筒がありました。机に置いておきましたよ」
「あ、ありがとうございます」
そう言って受け取ったのは、
白い、何の変哲もない封筒だった。
宛名には優里の名前が
ただシンプルに書かれているだけで、
差出人の記載はない。
優里は何気なく封を切る。
なかには、
新聞や雑誌を切り抜いた文字を
バラバラに貼り合わせた脅迫状が入っていた。
《お前の居場所はわかっている 調子に乗るな》
優里は一瞬、息を止めた。
背筋を冷たいものが一筋の氷のように走る。
苛性ソーダの件、ナイフでの襲撃、
そして今、「居場所はわかっている」という明確な警告。
顔の表情には一切動揺を出さない。
振り返ればオフィスのなかにはまだ社員がいる。
蓮だって、少し離れた席で書類をめくり、
ニヤニヤしながらキーホルダーを見つめている。
(……言えない。)
激情家の蓮に話せば、彼はまた無謀な行動に出るだろう。
そして、まだ狙いが自分にあると断定できない以上、
社員や会社を心配させても仕方ない。
優里は封筒をそっと、
誰にも見られないように机の一番下の引き出しにしまった。
一方。
蓮は、優里のデレの言葉と、
キーホルダーへの愛で
完全に満たされてしまった蓮の脳内は、
平和そのものだった。
キーホルダーを机に飾り、
チラチラと優里を見ながら恍惚の表情を浮かべている。
(くっくっく…… 優里ちゃんがあんなデレを見せてくれたんだ! きっと俺が自分から話しかけるのを待っているに違いない!)
蓮は喜びと興奮から、
優里のデスクの周りを不必要にうろつき始めた。
書類を取りに行くふりをして、
優里の背後をゆっくり通過。
シュレッダーを使う用事もないのに、
優里のすぐ隣にあるシュレッダーにやたらと時間をかける。
「傍にいるよアピール」を無自覚に繰り返していた。
目の前の問題があまりにも単純で騒がしい。
優里はペンを持つ手を止め、
鋭い視線ですぐ隣にいる蓮を見上げた。
「蓮くん」
「ひゃ、はい!」
(キターーー! 二人きりで話したいってことか!?)
「気が散るから、おとなしくしてほしいんだけど」
冷たく、感情のない、
事務的な注意だった。
(お、おとなしく……!? いや、俺の愛のサインが優里の邪魔に……!?)
蓮はキーホルダーを胸に抱きしめ、
「は、はい……」と消え入りそうな声で答え、
すごすごと自分の席に戻った。
優里は彼の落胆には一切構わず、
再び書類に目を落とす。
夜。
高層マンションの窓から夜景が広がっている。
蓮はソファに腰を下ろし、
テーブルにスマホを置いたまま、
じっと天井を見つめていた。
(……やっぱり、優里の様子が変だ)
昼間はいつも通りそっけなくしていたけれど
笑ったときの目の奥に、微妙な陰りが差していた。
それは「俺を意識して照れてる」とか、
そういう甘いものじゃない。
もっと違う、冷たい恐怖の色だった。
蓮はスマホを手に取り、通話画面を開く。
「……晴人、今大丈夫か?」
『珍しいな、夜にお前から電話なんて』
低い声が受話器越しに響いた。
蓮は息を整え、
普段の軽さを封じた声音で口を開いた。
「例の件だ。苛性ソーダとナイフ……どっちも偶然じゃない。優里はそう思ってないみたいだけど、俺にはわかる。狙われてるのは、彼女だ」
『……お前、気づいてたか』
「当たり前だろ」
蓮の声に迷いはなかった。
「アイツの前では何も言わないけどな。無駄に不安にさせたくねぇし。けど……正直、もう限界だ。お前、早く犯人見つけろよ」
晴人が短く息を吐いた。
『お前にしてはまともなことを言うじゃないか。安心しろ、動いてる。だが、焦っても証拠は揃わん。慎重にやるしかない』
「……わかってる。でもな」
蓮は窓の外に広がる東京の夜景を見下ろす。
その眼差しは普段の能天気さを一切感じさせない、
冷ややかな光を宿していた。
「もしまた、アイツが狙われるようなことがあったら……次は俺が許さない」
通話を切ったあとも、
スマホを握る蓮の手には力がこもったままだった。
(優里のことは、俺が守る)
翌日。
蓮は、星野グループのオフィスで、
いつもの軽薄さを完全に封印していた。
秘書との打ち合わせでは、
優里を狙う脅迫状の件を最優先事項とし、
極秘のセキュリティ強化を指示する。
「この件は、外部に漏らすな。特に、優里の周りで不審な動きがあれば、即座に俺に報告しろ。情報収集には予算を惜しむな」
蓮の声は低く、冷ややかだった。
遊びの男としての能天気さは微塵もなく、
巨大な組織を率いる者の鋭さが宿っていた。
(優里は自分の危機に気づいていない。俺が弱さを引き受ける。優里を狙う奴は、俺が絶対に許さない)
彼の迅速で的確な判断と冷酷なまでの決断力は、
星野グループの御曹司として完璧なものだった。
蓮は、優里のいない世界では、
誰もが認める有能な御曹司だった。
星野グループ本社。
優里はある資料の受け渡しのために、
臨時で会議室の前まで来ていた。
(……なんか、雰囲気がピリッとしてる)
部屋の中央に座る蓮は、
いつものヘラヘラとした笑顔ではなく、
窓から差し込む光を浴びて
冷ややかに引き締まった表情をしていた。
彼は腕を組み、
鋭い視線で目の前の重役の報告を聞いている。
「結論が遅い。 リソースの再配置は即時に行え。現状維持は後退だ。私の求めるスピードは、その三倍だと言ったはずだ」
その声のトーンは、
冷たく、感情がなく、
完全にビジネスの頂点に立つ支配者のものだった。
その声の響きには、
誰も逆らえない圧倒的な威圧感があり、
優里が知る「助けてくれぇぇ!」と
叫ぶ蓮の面影は一つもなかった。
会議の冷徹な姿を優里に目撃された蓮だったが、
会議が終わるや否や、
彼は最速でいつもの「ダメ御曹司」へと復帰した。
そして、幸運にも優里と一緒に帰れることになり、
蓮の浮かれ気分は最高潮に達していた。
「優里! 今日はどこでご飯を食べる? 俺が奢る! 何でも好きなものを言ってくれ!」
蓮は鼻歌交じりで、
優里の隣を一歩も離れずに歩く。
蓮のあまりの騒がしさに、
意識が強制的に現実に戻された。
優里は冷めた視線を蓮に向けた。
「普段ああいう風にいてくれたら、私も気が散らなくて済むんだけど」
蓮の足がぴたりと止まった。
優里が一瞬目撃した、
あの冷徹な御曹司の仕事ぶりを褒めているのだ。
「普段のあなたは邪魔」という
辛辣な皮肉が混じっていたものの、
「やればできる」という評価は、
蓮にとって最高の賛辞だった。
(優里に褒められたぁぁぁ!!! しかも「もっとその姿を見たい」ってことだろ!?)
蓮の妄想回路は、
優里の皮肉を完全に無視し、
愛のメッセージへと変換した。
「な、なるほど! 分かった! 優里は仕事ができる男が好きなんだな! よし、明日から俺は、あの冷徹な姿で優里にアピールするぞ!」
蓮の浮かれ具合は限界突破し、
足元がおぼつかなくなる。
(これで脈アリ確定! 特別キーホルダーとデレの言葉と仕事の称賛! 俺は今、優里の心を完全につかんだぁぁぁ!!)
蓮の全身は喜びで満たされ、
彼は今、優里の隣を歩いているのではなく、
東京の夜空を優里への愛を動力源に
空中遊泳している気分だった。
蓮の浮かれきった高揚感と、
優里の冷静な皮肉が混ざり合った温かな空気を、
重苦しい気配が唐突に切り裂いた。
カツ、カツ。
アスファルトを叩く、
不自然に重い靴音。
その音は、優里たちのすぐ背後で止まった。
優里が一瞬で殺気を察し、
振り返る間もなく、
フードを深く被った人物が立っていた。
路上に、異様な緊張感が張り詰める。
ポケットの奥に隠された右手が、
ゆっくりと抜き取られる。
銀色に光る刃。
その冷たい切っ先が、
優里の背中へと向けられた。
「ゆりっっ!!!」
蓮の理性を超えた絶叫が、夜道に響いた。
彼は優里の背中に迫る刃を見て、
全身の血が逆流するのを感じた。
しかし、蓮の叫びは届かない。
襲撃者は一瞬の躊躇もなく、腕を振り上げた。
“しゅっ”という鋭い風切り音。
蓮が飛び出そうとするよりも早く、
攻撃は完了していた。
優里の頬に、赤い線が走った。
フードの人物のナイフが、
優里の肌をかすめたのだ。
血がつぅ……っと流れ落ちる。
蓮の喉は凍りつくように締め付けられた。
彼は優里の頬を流れる紅い線を茫然と見つめる。
「う、うそだろ……」
前回は優里を突き飛ばして守れたが、
今回は間に合わなかった。
優里の頬を流れる紅い血を見た瞬間、
蓮の甘い妄想も軽薄な態度も、
すべてが消し飛んだ。
(優里が……血を……? 嘘だろ……? こんなの、あってたまるか!!)
叫ぶよりも早く、体が勝手に動いていた。
フードの人物が再び刃を振り下ろそうとした、
その瞬間。
蓮は優里を突き飛ばし、
地面に倒れる優里と襲撃者の間合いを詰めた。
「おらぁっ!!」
蓮は素早く相手の手首をがっちり掴み、
肘で関節を容赦なく押さえ込む。
彼の動作は鋭く、迷いがなかった。
御曹司としての護身術と、
優里を守りたいという本能が完璧に融合していた。
ドンッ!
アスファルトに重い音を立てて、
フードの人物を叩きつけた。
銀色の刃物が手から離れ、
夜道に乾いた音を立てて転がった。
「……はぁっ、はぁっ…… 優里、大丈夫か!?」
蓮は荒い息を吐きながら、
すぐに優里を振り返る。
優里は尻餅をついたまま頬を押さえ、震えていた。
彼女の指の間から、赤い血が滲み出す。
蓮の胸がえぐられるように痛んだ。
嫉妬で暴走する自分の心とは比較にならない、
本物の痛みだった。
蓮は地面に押さえつけたフードの人物を睨みつけ、
怒りに燃える瞳が夜道を射抜く。
「お前……俺の大事な優里に、なにしてくれてんだよ……!」
その声は低く、感情に満ちていた。
これまで妄想ばかりで空回りしてきた御曹司は、
今だけは本物の「守る者」の顔をしていた。
彼の軽薄な仮面は剥がれ落ち、
そこにいるのはただ一人の、
愛する人を傷つけられた怒りに燃える男だった。
蓮にアスファルトに叩きつけられたフードの人物は、
逃げるでもなく、その場に立ち止まった。
月明かりに照らされた顔は見えないが、
吐き出される言葉は凶器のように刺さった。
「ははっ!ざまぁみろ!あんたみたいな女!これくらい痛めつけないとわからないでしょ。あなたのせいで私の人生どれだけ無駄にしたと思ってるの!?あなたがいなければ私は……!」
「あなたが、準優勝したコンテスト、私も出てた!あなたは私のことなんて覚えてないでしょう?私はあのコンテストで優勝確実だって言われてたのに、あなたが出たせいで、私は三位。全国大会に行くことさえ叶わなかった!あなたのせいで、私の人生何もかもめちゃくちゃよ!」
「あなたのその顔も、声も、全てが憎かった!私より可愛くて綺麗なその顔がね!」
「だから傷つけてやりたかったのよ!一生外に出られないくらいの傷を!!あなたのように生まれながら可愛い人はわからないでしょう?私のように醜い顔の人生にどれだけ人権がないか!あなたのような顔の持ち主がどれだけ恵まれているか!!」
吐き捨てるような言葉の最後、
女は俯き、あざ笑うかのように付け足した。
「あなたは恵まれてる。私が持ってないもの全部持ってる。なのに、会社だって軌道に乗ってるのに調子に乗らないで、御曹司がいるのに付き合わないで、恵まれてるのにその恩恵に預かろうともしないで、すました顔して気に食わなかったのよ!御曹司にも好かれる顔面を汚してやりたかったのよ!でもこれでわかったでしょう。あなたの傷は治ることはない。一生苦しんで!!」
それを聞いた瞬間、蓮の内部で何かが切れた。
冷気のようだった怒りが、
いまや熱い鉛の塊となって全身を満たす。
「ふざけんなよ!!」
言葉は鰐のように低く、唇の端から吐き出された。
彼の声は周囲のざわつきを吹き飛ばすほど強かった。
「なにが一生苦しめだよ、誰に向かって言ってんだよ!人のこと知らないでやっかみばかりのやつが、誰傷つけたと思ってんだよ!!可愛いには可愛いなりの苦労があんだよ!そんなこともしらねぇで勝手なこと言いやがって!優里がどれだけ苦労してると思ってんだよ!」
「おまえの憎しみの矛先を間違えるな。優里はな、努力してきたんだ。誰よりも自分を縛って、誰よりも人に気を使って……お前みたいなやつに、そんなこと言う資格はねぇ!」
そのとき、背後から低い声が響いた。
影が一つ、二つと動いた。
フードの人物の逃走経路を遮るように、
数人の男たちが走り込んでくる。
腰には警察手帳と無骨な表情。
晴人と、彼が手配しておいた
“警察の知人筋”が駆けつけていたのだ。
「警察だ。動くな!」
現場の空気がぴんと張る。
フードの女は一瞬、怯えたように身を縮めた。
だが、怯えはすぐに別の感情に変わる。
女は歯を食いしばったまま唾を吐くように言った。
「ざまーみろ。覚えてなさい、あなたは私の人生を壊したんだから!」
一本の警官が素早く女に近づく。
だが女は手元の動きを見殺しにしようとせず、
ナイフを構えようとしたその瞬間、
別の警官が脇から距離を詰め、
腕をねじり上げる。
フードはのけ反り、ナイフは手から弾かれ、
金属が舗道にカランと跳ねた。
別の隊員が素早く蹲踞してそれを押さえ、
手錠を取り出す。
「手を出すな。おとなしくしてください!」
警官の冷静だが威圧的な声。
フードの女は必死にもがいたが、
数人がかりで押さえつけられていく。
女はまだか細い叫びをあげる。
「優里、すまなかった」
昨夜までの愚かな自惚れはなく、
ただ真剣な後悔と、
守るべき相手に対する決意が浮かんでいる。
晴人が携帯を取り出し、誰かに指示を出す。
警察は女を連行し、
現場検証と事情聴取が始まった。
フードの女は荒く息をつきながらも、
抵抗の余地を失い、
その目だけが憎悪を燃やしていた。
処置室の白い蛍光灯が、
やけに冷たく蓮の肌を照らしていた。
優里はすでに別室で治療を受け終え、
頬には分厚いガーゼが貼られているという。
数針縫ったと聞いた。
蓮は彼女の苦しげな表情を一瞬目にしてから、
別の診察室へと連れていかれた。
そこには星野グループの最高峰、
医学部教授にして名医と名高い老練の医師が直々に待っていた。
普段ならVIP専用フロアに呼ばれるはずの人物が、
御曹司のために駆けつけていた。
「蓮様。優里さんは命に別状はありません」
医師は深く頭を下げ、静かに告げた。
蓮は胸をなで下ろすが、
すぐに顔を上げ、鋭い声を発する。
「全治はどれくらいだ?」
「……」
医師は目を伏せたまま、
言葉を選ぶように沈黙する。
「聞いてんだろ。跡形もなく、完全に治るんだよな?」
蓮の声には、焦りと祈りが入り混じっていた。
「……蓮様」
医師は静かに顔を上げた。
「我々も、できる限りの処置をいたしました。 技術を尽くしました。しかし」
「……は?」
蓮の瞳孔がぎゅっと狭まる。
「なおるんだよな? 俺の言ってること、わかるよな? 跡形もなく、だ」
「……」
医師は答えず、ただ苦渋に満ちた沈黙で応えた。
「……答えろよ!」
蓮の声が鋭く跳ね上がる。
「俺は治るかどうかって聞いてんだよ!! 曖昧にごまかしてんじゃねぇ!!」
診察室の空気が一瞬で張りつめる。
「蓮様!」
「坊ちゃん!」
同席していた側近や看護師たちが一斉に声を上げ、
彼をなだめようと腕を伸ばす。
しかし蓮は誰の手も振り払い、
ぎりぎりと歯を食いしばった。
御曹司として常に冷静沈着であるはずの彼が、
いまや制御を失い、
ただ一人の女性のために声を荒らげている。
「……治るまでやれよ。 俺の女だぞ。 ……優里は、俺の……」
声が震えていた。
いつもの強気な御曹司の言葉の奥に、
滲み出る必死な想い。
医師は胸に手を当て、深く頭を下げる。
「……蓮様。跡は……完全には保証できません。 ですが、我々が責任をもって最善を尽くします。 どうか……」
その言葉は、蓮の心に刃のように突き刺さった。
怒りと、焦燥と、
どうしようもない無力感が胸をかきむしる。
優里の傷は、本当に消えないのか。
蓮の拳が、診察室の壁を殴りつけた。
乾いた音が響き、室内の誰もが息をのむ。
処置室のドアを押し開けた瞬間、
蓮の胸は重く締め付けられた。
白いベッドの上、優里が背を少し丸めて座っていた。
頬には痛々しい白いガーゼが貼られ、
その下に隠された傷の長さと深さを、
蓮は医師から見せられた写真で知っている。
五センチ以上もある、鋭い切創。
治っても跡が残る可能性を、
蓮は冷たい現実として受け止めていた。
優里は蓮の焦燥を見抜くかのように、
先に口を開いた。
「聞いたよ。治らないんでしょ? 仕方ないよ。 そういう運命なんだよ」
淡々とした声。
まるで自分の傷なんて大したことじゃない、と
言わんばかりの諦め。
その強がりとも諦観ともとれる表情が、
蓮には何よりも耐えがたかった。
(俺は……本命ひとりすら守れねぇのかよ……)
(なんのための御曹司なんだよ……!)
喉の奥から叫び出したい思いがこみ上げるが、
声にならない。
蓮は呼吸を整え、
一歩、また一歩と優里に歩み寄る。
「……優里」
「ごめん……俺が、守れなかった」
優里は視線を落とし、わずかに笑みを浮かべた。
「いつもの蓮」には見せない優しさと、
深く物事を達観したような諦念が混ざっていた。
「……蓮くんが謝ることじゃないよ」
「…私が準優勝したコンテスト、優勝者は大学の同期だったんだ」
「優秀どころじゃない。あの人は、私にとって…絶対に勝てないと思った相手だった」
「結局、私はその人に勝てなかった。審査員の誰もが、その才能を絶賛していた。あの人は最初から、輝く運命だった」
「あの時、ステージの隅で、準優勝のトロフィーを抱えている私のそばには誰もいなくて、スポットライトなんて当たらない。ただ、優勝者を囲む群衆の影のなかにいただけ」
「私は、いつも誰かの引き立て役。いつも誰かの踏み台にされるだけだった。あのコンテストも、同期の圧倒的な才能を際立たせるための踏み台。そんな人生が、心底嫌だった」
「だから私は、誰の引き立て役にもならないために、起業して、誰の傘下にも入らないために、星野グループからのM&Aも断った。誰かの都合で、私の人生を決められたくなかったから」
「…ずっと、私の人生は、私が誰かの踏み台にされた物語だと、そう信じて疑わなかった」
「でも、そんな私のプライドのせいで、誰かの人生を踏み台にしてたなんて、思いもしなかった」
「…私は、踏み台にされるのが嫌で、結局、私自身が誰かを踏み台にして、ここに立っていたのかもしれない…」
その笑顔が、かえって蓮の心を引き裂いた。
優里が自分自身を責めていることの何よりの証拠だった。
蓮は、無力な自分と傷ついた優里を前に、
何も言うことができなかった。
「諦めるな!」
蓮は、スマホを取り出した。
「俺の知り合いが美容外科やってて、めっちゃ腕いいんだよ。そいつなら治せるかもしれねぇ!」
画面を確認する。
時刻は夜の11時。
手が震える。指先が汗で滑る。
(頼む、起きててくれ……)
スマホの向こうで、
優里から短い返事が届く。
『もういいよ、ありがとう』
胸が締め付けられる。
(好きな子にあんな顔させて、俺は、俺は……)
言葉にならない思いが、
頭のなかでぐるぐると渦巻く。
「いいわけないだろ……!」
拳を握りしめる。
手のひらが汗でびしょりと濡れる。
画面をじっと見つめる。
(頼む、出てくれ……あの子だけは……)
決意が、胸の奥で熱く燃え上がる。
「絶対に治す。どんな手を使ってでも!」
その声は、暗闇の部屋でひときわ強く響いた。
数回のコールの後、
ようやく蓮の知人である美容外科医が電話に出た。
「蓮?どうした?」
「俺だ、頼む。いまから急患を見てくれ!」
蓮の声には切羽詰まった焦りが滲む。
「は?お前、何時だと思って……」
「頼む!!!」
深夜、蓮の車に揺られ、
優里は無言で助手席に座っていた。
窓の外を流れる街灯の光が、
心細そうな彼女の輪郭を照らす。
到着した医院では、
医者も息を切らして待っていた。
「悪かったな」
蓮は申し訳なさそうに頭を下げる。
「貸しだからな」
医者は手袋をつけ、
優里の頬に貼られたガーゼをそっと外した。
その傷を見た瞬間、医者は言葉を失った。
「治るよな?」
蓮はすぐに質問した。
手が震え、目には血走った光が宿る。
「ここに来たのに、治らないとか言うなよ……冗談だよな?」
「……治るとしても、三ヶ月から一年だ」
医者は淡々と答える。
「……一年!? 嘘だろ?なぁ……」
蓮の声は切羽詰まり、震えていた。
「治るとしたら、だ……あの傷じゃ……」
医者は言葉を失ったように続ける。
「“あの傷じゃ”ってなんだよ! なんとか言えよ!!」
蓮の目は怒りと焦燥で光り、
今にも医者に掴みかかりそうだった。
「どこの医者が見ても同じ見解だ。はっきり言う……あの傷は治らない、不可能だ」
医者は淡々と告げる。
「……うそだろ? なぁ、嘘って言えよ!!頼む、なんとかしてくれ……あの子だけは……」
「金ならいくらでも払う、どれだけかかってもいい……頼むよ!」
蓮の声は叫びに変わる。
「蓮……」
医者はなだめるように声をかける。
「……あの子、団体系の大人数アイドルで、センターになれるほど可愛い顔なんだぞ!」
「そんな子の顔に傷なんて、俺、俺……」
蓮はその場に膝をつき、土下座する。
「頼むよ……まじで、ほんとに……!」
「蓮、やめろ……」
医者は困惑した。
しかしその目には根負けした光があった。
「顔を上げろ。できるだけやってみる」
医者の声には、
諦めきれない蓮の必死さに押された覚悟が感じられた。
医者は深く息を吐き、
土下座から立ち上がったばかりの蓮に向き直った。
「状況は正直に言う。あの傷は深く、皮膚の真皮まで達している。 通常の縫合だけでは跡は残る。 だが、俺の知識と技術を駆使すれば、可能な限り目立たなくすることはできる」
蓮は息を呑む。
「……どういう方法だ?」
医者は机の上のモニターを指し、簡単な図を示す。
「まず、瘢痕組織を丁寧に除去する。 次に、自家組織移植と皮膚伸展術を組み合わせる。場合によっては、レーザー治療を併用して色素沈着や赤みを抑える」
蓮はスマホで時計を確認しながら、
額に汗をにじませる。
「時間はかかるのか?」
「初期手術でおおよそ2~3時間。 その後、レーザーや再生医療を含めた複数回のフォローが必要になる。 完璧ではないが、ほとんど跡を残さず、自然な形に仕上げられる」
蓮は強く頷き、拳を握り締めた。
「よし、やる。今すぐ準備しろ!」
「俺が側にいる」
医者はうなずき、手際よく手術室の準備を始める。
滅菌済みの手術台にライトが灯り、
医療器具がきらりと光を反射する。
ナースたちは手袋とマスクを装着し、
手術室内には緊張感が張り詰めた。
「怖くない、俺が側にいる」
優里は小さくうなずき、目を閉じた。
頬のガーゼの下の傷は、
深く赤く、痛々しく見える。
医者は冷静に手袋を調整し、ライトを合わせた。
「蓮君、ここからは俺に任せろ。 手順に沿って慎重にやる」
蓮はその場で見守りながらも、
胸の奥は張り裂けそうだった。
(絶対に治す。 どんな手を使ってでも、優里の顔を元に戻す……!)
優里は麻酔によって、静かに眠っていた。
頬に走った鋭い切創は、
今は医師のライトの下で痛々しく光っている。
蓮は手術室の片隅で、優里の手をしっかりと握っていた。
(俺が守る。必ず治す)
優里の笑顔を取り戻すという
一点の炎で熱く燃え上がっていた。
医者がメスを手に取り、
深く固まった組織を再び開いた瞬間
新たな鮮血が滲み出た。
その一瞬の光景が、
蓮の脳内でトラウマとしてフラッシュバックした。
優里が頬を切られ、
血が流れたあの夜の光景が鮮明に蘇る。
「うぐ……」
蓮の目が大きく見開かれ、
その血を見た瞬間、全身の力が抜けた。
「蓮くん!」
優里の手を握っていた蓮は、
そのまま床へと前のめりに崩れ落ちた。
医者はメスを置き、マスク越しに深いため息をついた。
「あーあ、坊ちゃんは、肝心なところでこれだからな……」
ナースたちは慣れた手つきで
気絶した蓮を手術室の外へと運び出す。
手術は三時間に及んだ。
蓮は別室のソファで意識を取り戻した後も、
自分の情けなさに打ちひしがれながら、
ただひたすらに祈り続けていた。
夜が明け、白い朝の光が差し込み始めた頃、
医者が疲労の色を浮かべながら現れた。
「成功だ。 最善を尽くしたよ」
その一言を聞いた瞬間、
蓮の膝が再びガクリと崩れた。
「あ……ああ……!」
蓮は医者の手を掴み、
感謝の言葉を何度も繰り返す。
(治るんだ……! 俺の優里の笑顔が、また戻ってくるんだ!)
彼の胸は張り裂けそうなほどの安堵と喜びに満たされた。
その後、回復室で優里が目を覚ます。
「……痛くない?」
蓮が恐る恐る尋ねると、優里は微笑む。
「うん、大丈夫。蓮くん、ありがとう……」
蓮はその言葉に胸がいっぱいになり、
抱きしめるように優里の手を握り締めた。
(もう二度と、あんな思いはさせない……)
優里の回復過程は順調で、
日ごとに表情が自然さを取り戻していく。
蓮は傍らでずっと見守り、
心の底から安堵と喜びを噛みしめていた。
優里の顔の傷は、
最高の医療処置によって驚くほどの回復を見せていたが、
まだ赤みが残り、
生々しい傷跡の存在を静かに主張していた。
蓮はベッドサイドで、優里の手をしっかりと握ったまま、
真剣な目で優里を見つめた。
この傷が、優里の人生に残した影の深さを理解していた。
だからこそ、今の蓮が優里に伝えられる最大限の覚悟を、言葉にした。
「……顔の傷が治らなくたって、俺が旦那になる。結婚しよう」
蓮の声には、軽薄さは微塵もなかった。
そこにあったのは、優里を巡る数々の事件と、
彼女の傷を見て全てを捨て去る決意を固めた、
一人の男の覚悟だった。
優里は黙ったまま。
いつもの冷めた目も、鋭いツッコミもなく、
ただ静かにこちらを見つめていた。
彼女の瞳の奥は深く、
何層もの感情が渦巻いているようだった。
「……わかった」なんて
優しい言葉は優里の口からは出ない。
数週間が経過し、
最高の医療処置と蓮の献身的な看護のおかげで、
優里の頬の傷は驚くほど回復していた。
まだわずかに赤みは残っているものの、
以前のような痛々しい切創の面影は薄れていた。
蓮は、優里の回復と共に、
張り詰めていた緊張が
ゆっくりと解けていくのを感じていた。
彼はベッドサイドで
優里が静かに本を読んでいるのを見つめ、
抑えきれない愛情が溢れ出した。
蓮はそっと身を乗り出すと、
優里の頬にあるガーゼの上から、
優しく、確かな想いを込めてキスをした。
それは「治ってよかった」「愛している」という、
彼の無言のメッセージだった。
蓮が愛の余韻に浸ろうとした、
その直後だった。
優里は本から視線を上げず、
冷めた目で蓮を見つめ、冷たい言葉を投げつけた。
「…雑菌」
ドズドォォン!!
蓮の心臓に、
特大の鉄槌が音を立てて落下した。
「そ、そんな、俺を雑菌って……」
蓮の顔面は蒼白になり、
愛と献身で満たされていた彼の心は、
一瞬で砂漠と化した。
優里の冷徹な一言は、
彼のロマンチックな演出を完全に粉砕した。
(……でも)
鋭いツッコミ、冷徹な視線、
そして容赦のない毒舌。
この優里の鋭さが戻ってきたということは、
彼女の心が平穏を取り戻し始めている証でもあった。
傷の痛みや事件の恐怖に支配されていた優里は、
こんな冷静な皮肉を飛ばす余裕などなかったはずだ。
蓮は打ちのめされながらも、心のなかで深く頷いた。
(これでいい。 ゆっくりでいい。この毒舌と冷たい目、俺が守ってきた優里が戻ってきたんだ)
蓮は、優里の冷たい瞳をまっすぐ見つめ返した。
(ずっと俺はそばにいるから。その鋭さで、俺をどんどん雑菌扱いしてくれ)
御曹司の恋愛は、雑菌扱いされながらも、
確かな希望と共に続いていくのだった。
翌日。
蓮のスマホが鳴った。
画面には警察署の表示。
蓮は深呼吸し、電話に出る。
「蓮様、先日の事件についてですが……犯人の取り調べが進み、犯行動機が判明しました」
蓮は胸の奥がざわつくのを感じながら聞いた。
「……優里さんへの嫉妬です。犯人は、過去に優里様と同じコンテストに参加しており、結果が出ず、優里様が栄冠を手にしたことに強い怨恨を抱いていました」
蓮は思わず声を荒げそうになるのを、必死に抑えた。
「嫉妬……恨み……?」
警察の声は淡々としていたが、
その言葉の重みは蓮の胸に深く突き刺さった。
「はい。優里様に対する個人的な感情が高じ、苛性ソーダの件や今回のナイフ事件に至ったようです。まさに怨恨です」
蓮は拳を握りしめる。
「……俺の大事な人に……よくも……!」
怒りと同時に、優里が受けた傷の深さが胸に痛む。
「犯人は現在取り調べ中で、逮捕も間近です。蓮様、どうかご安心ください」
電話の向こうの声は冷静だったが、
蓮にとっては、
やっと少しだけ胸の重荷が下りた気がした。
「……わかった。頼む。しっかりと取り調べてくれ」
警察との電話を切った後、
蓮の怒りの炎は行動力へと変わった。
彼はすぐに星野グループの顧問弁護士、
そして晴人を呼び出した。
「犯人を絶対に許さない。俺の優里に一生残るかもしれない傷を負わせた。ただの逮捕で終わらせるな。最大限の罪を問え」
蓮の声は低く、冷徹な御曹司の顔だった。
「蓮様。逮捕は確実ですが、傷害罪ですと執行猶予がつく可能性も……」
「つけさせない。 過去の苛性ソーダ事件と今回の事件は、明確な計画性と強い殺意に基づく連続的な犯行として立件しろ。慰謝料は全財産を渡せなんて優しいことは言わない。一生かけても払わせるくらいの額を請求する。犯人の今後の人生において、二度と優里に近づくことも、社会でまともに活動することもできなくしろ」
蓮の指示は厳しく、具体的だった。
優里の心の傷と顔の傷を、
一生償わせる制裁によって代償させるという、
支配者としての冷徹な決断だった。
蓮は窓の外の青空を見上げ、
強く拳を握りしめた。
「もう誰も、優里に指一本触れさせない」
彼の心のなかで、
愛と保護の決意は完全な実行段階へと移行していた。
数日後。
優里の頬の傷は小さなガーゼに変わり、
痛みも引いていた。
しかし、優里の心の平静を乱しているのは、
事件の恐怖ではなく、蓮の過剰な守護体制だった。
(……どこに隠れてるの、あのSP)
蓮の手配した特殊部隊員の専属SPは、
優里に気づかれないように完璧に姿を消していたが、
優里には常に誰かの視線を感じる。
そして、当の御曹司はというと、
優里の看病と秘書業務を完全に兼任していた。
「優里、この水は富士山の標高2000メートルの氷河水だ。美肌効果と免疫力向上に特化している。あと、頬の傷に触れる空気は毎秒オゾンで殺菌しているから、安心して呼吸してくれ」
「……過保護が過ぎる。私、普通に生きていけるから」
「何言ってるんだ! 二度と俺の目の前であんな顔をさせるか! 俺の愛の監視下で、君の回復は完璧に遂行される!」
優里はため息をつき、冷めた目で蓮を見た。
(本当にうざったい。 )
優里の「雑菌」発言も乗り越えた蓮の妄想回路は、
フル稼働していた。
(フッ…… 無言で俺の過保護を受け入れている。これがデレだ! あの鋭いツッコミは、愛する男の前での照れ隠しに決まっている!)
蓮が完璧な未来図を脳内で描いていると、
優里はタブレットで仕事の資料をチェックしながら、
淡々と尋ねた。
「それで、来週の企画書だけど。妄想が入らない論理的な結論を、今日の午後三時までにまとめてくれる? 気が散るから、そろそろ自分の席に戻って」
「へ? も、もういいのか? 俺の献身的な看病は……」
「もういい。 あと、私と付き合うとか、結婚するとか勝手に妄想してニヤニヤするの、やめてくれる? 付き合うつもりはないし、あなたの妻になる予定もないから」
蓮の妄想スクリーンを氷のツッコミで粉々に砕いた。
「な、なんで知ってるんだよ!」
優里は鼻で笑い、再びタブレットに視線を戻した。
「顔に出てる。あと、あのキーホルダー、まだ大事にしてるの? 」
蓮はがっくりと肩を落とした。
彼の命がけの行動は、確かに優里との絆を深めたが、
恋人関係や結婚というゴールは遥か彼方のまま。
しかし、傷が治り、日常の毒舌が戻ってきた
優里の傍にいられるという現実だけが、
蓮の唯一の救いだった。




