危険と嫉妬と出張と。
夜の街路灯が二人の影を長く伸ばす帰り道。
蓮は足取りも軽く、
心のなかで何度もため息をつきながら独り言のように呟いた。
(あぁ……。神様、マジで幸せです……。隣に優里がいるんだ、俺……!)
優里は腕を組んだり、手を繋いだりしてはくれないが、
文句を言わずに隣を歩いてくれている。
(このまま俺の家に? それとも優里の豪華マンションに押し掛けても許される流れですか!?)
蓮の思考は止まらない。
優里が自分のために時間と金を使ったという事実は、
彼にとって決定的な「脈あり」サインだった。
(付き合っちゃいます? 脈ありですか!? いや、確信犯ですよね、優里ちゃん!)
蓮は完全に浮かれていた。
優里の冷めた現実も、将来への不安も、
蓮の一途で暴走気味な愛の前では、
無力な雑音でしかなかった。
彼は優里との関係が、
今この瞬間、次のステージへと進んでいると確信していた。
蓮が完全に浮かれきった妄想に浸りながら、
優里の隣で次のデートの計画を練っている。
そのときだった。
街路から少し外れた静かな場所を歩いていた二人に、
異様な気配が近づいた。
蓮は、背後から高速で近づく、
フードを深く被った人物の存在を直感した。
「優里!危ない!」
蓮は思考する間もなく、
優里の肩を掴み、猛烈な勢いで突き飛ばした。
優里はバランスを崩し、アスファルトに尻餅をつく。
フードを被った人物は、蓮が突き飛ばしたことで、
優里のいる場所がずれたにも関わらず、
攻撃の手を止めない。
男はポケットからナイフを取り出し、
優里が尻餅をついている、
その頭上に向かって、容赦なく振り上げた。
優里は反射的に顔をそむける。
襲い来る冷たい刃のきらめきが、
彼女の人生を終わらせると悟った。
その刹那、蓮の全身に力がみなぎった。
御曹司として育った彼は、
護身術や身体能力を習得しており、
危険を察知した瞬間、自然と動きが反応する。
フードの人物の腕を掴み、
勢いよく体重を乗せて投げ飛ばす。
衝撃で相手は地面に激しく転がり、
金属音とともにナイフは床に弾き飛ばされた。
街路灯の下で、フードの人物は一瞬目を見開き、
悔しげな呻きとともに身を起こす気配を見せるが、
蓮の鋭い眼光がそれを許さない。
フードの人物は、すぐに立ち上がると、
ナイフを拾い上げることすら躊躇し、
一目散に闇のなかへと逃げ去った。
蓮は荒い息を整えながら、優里の傍に駆け寄る。
「優里!大丈夫か!? 怪我は!?」
優里は震える体で蓮を見上げた。
彼の顔は蒼白だが、瞳には確かな闘志と、
優里を守ったという安堵が混ざっていた。
優里の脳裏には、
苛性ソーダの件と今日の出来事が鮮明に重なった。
(偶然じゃない……)
苛性ソーダの一件も、今回のナイフの一件も、
標的は明らかに優里だ。
それは、優里の周囲で何かが動き出している証拠であり、
優里の人生そのものに影を落とす、悪意の始まりだった。
ショッピング街の裏路地で起こった白昼の襲撃事件は、
すぐに警察沙汰となった。
蓮は優里と共に、
最寄りの警察署で事情聴取を受けることになった。
蓮は、優里を守り抜いた興奮と、
優里への安堵でまだ顔が青ざめているものの、
優里の隣にいるという高揚感も隠せないでいた。
彼は、ヒーローとして
優里に認められるチャンスだと思っていた。
「星野蓮さん。あなたには、恨みを持つ人物に心当たりは? 過去の女性関係や仕事上のトラブルなど、この件に繋がる可能性は?」
刑事の質問に対し、蓮は自信満々に答えた。
「ありません。 俺は誰とも揉め事なんて起こしませんし、人間関係は常に円満です」
蓮の言葉は澱みなかった。
御曹司として、「恨み」という負の感情は
無縁のものだと本気で思っていたのだ。
蓮の隣で事情聴取を受けていた優里は、
その自信満々な回答に、
内心で冷めた視線を向けた。
(……うそつけ)
瞬時に蓮の過去へと飛んだ。
蓮の豪遊ぶりや派手な女性遍歴は、
社内でも有名な話だ。
女好きで数多くの女と遊んできた蓮が、
恨みを買わないわけがない。
事件の構図はシンプルに出来上がっていた。
(この事件は、蓮が好きだった女が、私に嫉妬して起こした逆恨みだ)
苛性ソーダの件も、今日のナイフの件も、
蓮のそばにいる自分への攻撃。
「蓮から離れろ」という嫉妬に狂った女からの警告だと、
優里は冷静に分析していた。
彼女にとって、蓮の女性関係こそが、
あらゆるトラブルの根源だった。
しかし、優里の冷めた分析は、
残酷なまでに真実から外れていた。
優里は、まさか自分が狙われているなど微塵も気づかない。
数日後、優里は蒼司との熱海出張の日を迎えた。
蓮は、優里を狙った連続襲撃事件と、
自分が優里の隣にいられない現実に苛まれながら出社していた。
優里が熱海へ向かうという事実は、
蓮の不安と嫉妬を臨界点まで押し上げる。
そんな蓮のデスクに、蒼司が静かに近づいた。
「話は聞いた。 襲撃の件、蓮には感謝しているよ」
蒼司の表情は穏やかだが、
その目には優里への深い配慮が宿っていた。
「僕に任せてくれ。 仕事も、優里の安全も、すべて万全に対処する」
その冷静で頼もしい言葉に、
蓮はぐっと唇を噛みしめる。
(悔しい……! 優里の隣にいるのが俺じゃなくて、死ぬほど悔しい)
蓮の心は嫉妬の炎で焼かれていた。
(でもいまは蒼司に任せるしかねぇ……。優里を狙う黒い影がある以上、冷静沈着なアイツが隣にいる方が、圧倒的に安全だ)
蓮は拳を握りしめ、
「頼む」と言葉にならない願いを蒼司に向けた。
蒼司は小さく頷くと、
優里と共に新幹線へと向かうため、オフィスを後にした。
優里と蒼司が熱海に到着し、
仕事の合間のつかの間の時間をゆったりと、
のんびりと過ごしている頃。
東京のオフィスでは、
優里からの業務連絡を受けて、
社員たちがざわめいていた。
「優里さんからチャットだ。『打ち合わせは順調。少し早めに温泉に入って、リフレッシュします』だって!」
「へぇ、優里さん達、楽しそうですね! 早めの温泉なんて優雅だなぁ」
楽しそうな報告と「温泉」という単語が、
蓮の頭のなかで火花を散らした。
目の前のパソコン画面が、
そのまま熱海の旅館へと切り替わる。
(温泉! しかも早めに! これはもう、蒼司との混浴チャンスを前倒ししてるってことじゃないかぁ!)
妄想のなかで、
優里は艶やかな姿で蒼司の隣を歩いている。
(くっそぉぉ! 健全な服はどこに行ったんだ! 蒼司はクールな顔をしながら、優里に内心大興奮してるに違いない! そして温泉! 二人きりの湯気のなかで、優里が蒼司に甘い視線を送って……)
蓮は自分のデスクで、
顔を真っ赤にしてガタガタと震え始めた。
社員たちが微笑ましい様子で
熱海からの連絡を読み上げている横で、
蓮の心は嫉妬と絶望の海へと沈んでいくのだった。
社員たちがざわつくなか、
脳内では妄想スクリーンがフル稼働していた。
(ま、待て待て待て!これはきっと誤解だ…!ただ仕事の打ち合わせで笑ってるだけだ…!)
(でも…でもあの距離感…あの空気感…どう見てもデートにしか見えねぇぇえええ!!)
スクリーンのなかでは、
優里が浴衣姿で旅館の廊下を歩いている。
その隣に蒼司。
二人きりの温泉旅館。
夜の食事、差し出される杯。
(やばい…やばいやばいやばいっ!!このあと布団が二つ並んでて…いや、並んでるけど実質一つみたいなもんで…!そんで「おやすみ」って…いやぁぁぁぁああああああ!!)
「蓮さん?」
「大丈夫ですか?顔色、真っ青ですよ」
社員たちが心配そうに声をかけるが、
蓮は返事ができない。
(俺の心臓、持つのか…?この出張終わるまで、俺、生きていられるのか…!?)
それでもスマホの画面を手放せない。
「楽しそう」と送られてくる優里の連絡に、
蓮の感情はジェットコースターのように
上下を繰り返していくのだった。
現実と妄想の狭間で。
蓮の嫉妬と焦燥は、止まることを知らなかった。
(旅館の夕食は豪華懐石料理だろ!?そこで「あーん」とかしちゃうんだろ!?いや、絶対そうだ!!)
(そんで食後は温泉…そして布団…あぁぁぁぁあああ!!俺はどうすりゃいいんだよおぉぉおお!!)
椅子の上で頭を抱え、バタバタ暴れる蓮。
顔は真っ赤。
仕事など手につくはずもなく、
彼の理性の糸は今にも切れそうだった。
(ダメだ、このままじゃ俺の命が持たない……!俺がそばにいない熱海で、優里が蒼司に何をするか、何が起きるか、一秒たりとも想像したくない!)
蓮の妄想は「現実の行動」という一線を越えた。
彼は震える手でスマートフォンを取り上げ、
優里の番号をほとんど無意識にタップした。
「……もしもし」
優里の冷静で、
わずかに疲れたような声が聞こえた瞬間、
蓮の胸のざわめきはピークに達した。
「優里、今どこにいるんだ!?」
「どこって、旅館の部屋だけど」
優里は面倒くさそうに、正直に答えた。
「旅館の部屋」という単語は、
蓮の妄想回路にとって最高のトリガーとなった。
「ひ、独りなのか?」
「当たり前でしょ」
優里が会話を打ち切ろうとする気配を察し、
蓮は必死に情報を引き出そうとする。
「そ、そうか……何か困ってることはないか!? 俺に連絡しっ」
その時、優里のスマートフォン越しに、
はっきりと、別の男性の声が聞こえた。
『優里さん、明日の資料、どこまで進んでいますか?』
『あ、今から確認します。 蒼司さん、そこのテーブルに置いといてください』
蒼司の落ち着いた声、優里の自然すぎる応答、
そして「部屋」という密室と
「テーブル」という近すぎる距離感を示す単語の組み合わせ。
それは、蓮の最後の理性を完全に破壊した。
(なんで部屋に蒼司がいんだよぉ! 独りじゃないじゃねーかぁぁぁ!!)
妄想スクリーンはフル稼働。
旅館の部屋。
湯上がりの優里が、浴衣姿で蒼司と二人きり。
浴衣の胸元がはだけかけている。
蒼司は仕事の話をしているが、
その理知的な瞳は優里の肌の露出に一瞬釘付けになっている。
(いやいや、仕事? 旅館の部屋で浴衣で仕事するやつがいるかぁぁぁ!)
「やめろぉぉぉ!!! 蒼司、俺の優里に触るんじゃねぇぇえ!!」
蓮の絶叫がオフィスに響き渡り、
周囲の社員たちは一斉に振り返る。
蓮は電話を握りしめたまま、
顔を真っ青にしたり真っ赤にしたりしながら、
完全に錯乱状態に陥っていた。
(優里の声のすぐそばで、蒼司の声が聞こえた……同じ部屋にいるってことだろ? なんでそんな状況になるんだよ……)
まるで火薬庫に火花が散る寸前のように、
ちょっとしたきっかけで暴発してしまいそうだった。
(頼む……優里。俺を不安にさせないでくれ……)
そう祈るように心で呟きながら、
蓮はただ嵐のような内心を必死に押し殺していた。
そんななか、優里と蒼司の熱海での写真が、
出張報告として社内のグループチャットに共有された。
「誰だ、こんな写真撮ったやつはぁぁぁ!!」
オフィスで半ば叫ぶように立ち上がった蓮。
机の上の書類は散らばり、
社員たちは固まって息をのむ。
のんびり歩いてきたのは晴人だった。
「……うるせぇなぁ。何の騒ぎだよ」
「見ろよこれ!」
蓮は震える手でスマートフォンを晴人に突きつける。
画面には、蒼司と優里の「デート写真」。
「どう見てもデートだろ!?」
「……ふぅん」
晴人は、まるで他人事のように肩をすくめる。
「ふぅん、じゃねぇんだよ!」
蓮は机に両手をつき、髪をかきむしった。
「蒼司と……優里が……こんな……! もう……これは……!!」
「また妄想スイッチ入ってるな」
晴人はため息をつき、椅子にどかっと座る。
「お前さぁ、いい加減に落ち着けよ」
「落ち着けるかよ!! 俺の優里が……!」
「お前の優里じゃねぇし」
「……っ!」
バッサリ切られて蓮は言葉を失う。
「考えてもみろ。優里さんは仕事で行ってるんだぞ? 相手は蒼司だ。遊び半分で近づくやつじゃない。 写真一枚で大騒ぎするな。情けねぇ」
晴人の声は冷ややかだったが、
その冷静さは、
まるで氷水をぶっかけられるように蓮の頭を冷やした。
「……だ、だって……」
「だって、じゃねぇ。お前が勝手に取り乱して恥かくだけだ」
蓮はぐっと口をつぐむ。
(……ぐぅ……でも、まだ怪しい……怪しすぎる……!)
冷静になりつつも、
心の奥底では爆発寸前の火種が消えなかった。
優里と蒼司の何気ない親密さが、
蓮の理性と衝動の間で、熾烈な綱引きをさせていた。
晴人は呆れながらも、
「飲みに行ける状態じゃねぇな」と半笑い状態だった。
夜の旅館。
温泉から上がった優里が
廊下で浴衣の帯を結び直そうと、手間取っていた。
「……あれ?」
指がもつれて、うまく結べない。
そこに通りかかった蒼司が足を止めた。
「帯、ずれてる。ほら」
何のためらいもなく、
蒼司は優里の背後に回り込み、
器用な手つきで帯を結び直す。
「えっ……」
優里は息を呑んだが、蒼司は淡々とした顔。
「これじゃ歩きにくいだろ。ほどけたら危ない」
「……ありがとうございます」
その瞬間、廊下を通りがかった
仲居たちが小声でざわついた。
「まあ、若いお二人さん、仲が良いこと」
「新婚旅行みたいねぇ」
優里の頬はほんのり赤く染まった。
彼女は何も言わず、
ただ小さく頭を下げるだけだった。
東京サイド
送られてきた写真を見て、
蓮は机に頭を打ち付ける。
「ぐわぁぁぁぁぁ!!なに帯なんて直してんだよぉぉぉ!!!」
「ただ結んだだけだろ」
晴人は冷静。
「違う!!浴衣だぞ浴衣!それを!背後から直すとか!!もうそれは!!……プロポーズと同じなんだよぉぉぉぉ!!!」
オフィスで優里と蒼司の出張写真を見て
大爆発寸前だった蓮だったが、
その夜、自室に戻った蓮は、
新しいスーツのタグを眺めながらも、
熱海の二人のことで頭がいっぱいだった。
「楽しそう」な優里の笑顔と、
重い荷物を持つ蒼司の頼もしさが、
交互に脳裏をちらつき、
さらにモヤモヤを募らせる。
そんな不安定な状態のとき、
スマートフォンの画面に
「優里」の文字が浮かび上がった。
蓮は心臓が飛び跳ねるのを感じながら、
慌てて電話に出た。
「お、優里!どうした!?」
優里は穏やかな声で続ける。
『なんか、こっちのこと心配してそうだから……。御曹司、また妄想全開になってるんじゃないかと思って』
普段の冷酷さを脱ぎ捨てたふいの優しさに、
蓮は一瞬にして酔いしれた。
(マジかよ! 優里が俺の嫉妬を慰めに電話をかけてくれた……!? つまり、俺の心配を和らげる責任を感じてるってことだろ!? 脈ありどころか両思い確定じゃん!)
蓮の顔はにやけそうになるのを必死に堪え、
うっとりとした声を出す。
「な、なんだよ。心配してくれたのか? 俺は別に……隣に蒼司がいるなんて全然気にしてないけど…」
「そう、ならいい。」
しかし、その時。
電話越しに
「おーい、優里。一緒に一杯やろうぜ」と
蒼司の声が割り込む。
「一緒に」という単語が、
蓮の鼓膜を激しく揺さぶる。
「ちょ、ちょっと待て優里! なんで蒼司がまたそこにいるんだよ!?」
優里は一瞬の沈黙の後、短く、
そして容赦なく告げた。
「ごめん、切るわ」
ツーツー……
冷たい通話終了の音だけが、蓮の耳に残った。
(なんで切るんだよ! 隠し事か!? 蒼司と何するつもりだぁぁぁ!!)
「……っっっ!!!」
スマホを握りしめ、
蓮の頭のなかでは瞬時に妄想が暴走する。
(なんで蒼司が優里の部屋に来てんだよ! 今の声、絶対に部屋のなかだろ!? 二人で酒なんて……そのまま……っ!!)
嫉妬と焦燥で、
理性は完全に揺さぶられていく。
蓮の理性の壁は、
アルコールというキーワードで完全に崩壊した。
(あいつら酒飲んで、同じ部屋で寝んのか!?)
旅館の夜。
温泉後の高揚感。
そして、二人きりの密室。
蓮の脳裏には、旅館の豪華な宴会料理と
並べられた徳利が浮かび上がった。
(いや、建前上別の部屋だとしても、問題はそこじゃない!)
蓮はある決定的な事実を思い出した。
それは、優里の知られざる弱点だった。
(優里は、コップ一杯も飲めないほど超絶酒が弱いんだぞ!? 一口飲んで、顔が真っ赤になったのを見た!)
優里は頭脳明晰で鉄壁のガードを持つが、
アルコールに対しては無防備な子供に等しい。
その事実が、蒼司の「陰謀」を
裏付ける証拠のように蓮の脳内で捏造された。
(蒼司は知ってるんだ! 優里が酒に弱いってことを! それを逆手に取って…優里に酒飲ませて、意識を奪って、あんなことやこんなことするつもりなんじゃ!?)
蓮の想像は一線を越え、
蒼司の冷静な表情の裏に隠された
悪意をでっち上げた。
蒼司は仕事の資料という
カモフラージュを使い、
優里が酔いつぶれた後、
自分の欲望を叶えようとしているという、
最悪の妄想が蓮の全身を駆け巡った。
自室のベッドに横たわっているはずなのに、
蓮の目は冴えきって眠れない。
天井をにらみつけ、枕を抱きしめ、頭のなかでは……
(あのあと……優里と蒼司、二人で飲みに行ったんだろ?)
(蒼司が優里をエスコートして、浴衣の帯をほどいてやって……そのまま……っ!?)
妄想が暴走し、
心臓がバクバクと暴れ出す。
「くそっ……!! なんで俺じゃなくて蒼司なんだよ!」
枕を抱えたままベッドの上で身をよじり、
思わず声が漏れる。
朝の光がカーテン越しに差し込む。
一睡もできずにベッドの上で
ゴロゴロしていた蓮のスマホが、ピコンと鳴った。
ぼんやりした目で画面を見ると
差出人は「優里」。
それは、社内グループチャットに投稿された、
何気ない日常の報告だった。
『おはようございます。昨夜は蒼司さんと個室で資料の最終確認をしました。その後は各自部屋で休みました。朝食も済ませ、これから最終打ち合わせに向かいます。』
「…………え?」
読み返す。何度も読み返す。
(あれ? ……あれれれ??? なにこの普通の日記みたいな報告……!? )
(……俺が想像してた “大人の夜の甘い時間” は……?)
蓮の頭のなかで、
昨夜ベッドで暴走した妄想シーンが
走馬灯のようにフラッシュバックする。
夜景の下でキス。
浴衣の帯がほどける。
ホテルの布団に押し倒される。
→ 全部、蓮の勝手な妄想。
蓮は顔面蒼白になり、
枕を抱えていた腕の力が抜けた。
「……マジで普通に過ごしてたのかよおおおお!!!」
蓮は布団を蹴飛ばし、
ベッドの上で全身を反転させるように、
全力ずっこけした。
その衝撃で、枕は壁にぶつかり、激しい音を立てた。
一晩中、
嫉妬と苦悩で眠れなかった自分のアホらしさに、
蓮は床に顔を埋めて呻くしかなかった。
熱海からの優里の「日記」を読み、
自分の妄想の壮大さに全力ずっこけした蓮だったが、
出勤の義務は待ってくれない。
彼は一睡もしていない重い体を引きずり、
オフィスにたどり着いた。
そんな心身ともに疲弊しきった午後、
オフィスに静かに波紋が広がった。
優里が戻ってきたのだ。
蓮は顔を上げ、視線が入口に釘付けになる。
そこには、出張の疲れを微塵も感じさせない、
相変わらずの美しさを纏った優里が立っていた。
彼女は白のブラウスに紺のジャケットという完璧な装いで、
蓮は言葉を失い、うっとりと見惚れた。
(あぁ、やっぱりこの人が俺の運命の人だ……)
優里は一歩踏み出し、
蓮のデスクへと真っ直ぐに歩いてきた。
蓮は心臓が口から飛び出しそうになりながら、
必死に冷静を装う。
優里は目を細め、冷めた視線で蓮を見下ろしている。
蓮が昨夜の電話や今朝の絶叫を思い出し、
羞恥心で死にそうになっているのを
知っているかのように。
優里は何も言わない。
蓮の胸の鼓動だけがうるさく響く。
そして、優里はその氷のような冷たい表情のまま、
予想もしない一言を告げた。
「ただいま」
その言葉には、
「あなたにだけ報告する」という微かな特別感と、
「帰ってきたわよ、このバカ」という
諦めにも似た優しさが混ざっていた。
ツンと冷たい目とデレと甘い言葉。
「う、ぐっ……」
蓮はデスクに突っ伏すように、
全身の力が抜け、盛大にぶっ倒れた。
(ただいまぁぁぁぁあああ!!!!! 俺への愛情表現だったぁぁぁ!!!!!)
意識を失う寸前、
蓮の脳内では
優里の「ただいま」が花火のように炸裂し、
熱海でのすべての苦悩が報われたと、
完全に勘違いしていた。
優里は倒れた蓮を見て、
小さくため息をつくのだった。
優里は何事もなかったかのように
オフィスでの業務を再開した。
そして、出張の恒例行事として、
社員たちへのお土産を配り始めた。
机の上には、
熱海名物の温泉まんじゅうが
箱いっぱいに広げられる。
「わぁ!優里さんありがとうございます!」
「これ、有名なやつだ! めっちゃ嬉しい~」
「お土産まで気遣ってくれるなんて、優里さん神!」
社員たちはわいわいと盛り上がる。
オフィスは一気に和やかな雰囲気に包まれた。
一方、意識を取り戻した蓮は、
自席で腕を組み、ドヤ顔を決め込んでいた。
(フッ……盛り上がってるな。 だが本番はここからだ。 どうせ俺には“特別なやつ”があるに決まってる。たとえば限定スイーツとか、俺専用のメッセージつきとか……)
蓮の妄想は再び穏やかに始動していた。
ツンデレな「ただいま」を聞いた今、
特別待遇がないはずがないと確信していたのだ。
そして、ついに優里が蓮の机へ。
「はい、蓮くんの分」
そう言って、トンと置かれたのは……
他の社員とまったく同じ、
温泉まんじゅうの紙袋だった。
「…………」
(え? ま、待って。 これ、ただのまんじゅう……? いや、きっと中身が違うんだ!そうだ、俺のだけ“特別餡”とか……!)
蓮は震える手で紙袋を開ける。
出てきたのは、やっぱりただの温泉まんじゅう。
「蓮様のも一緒だね~」
「これマジで美味しいらしいよ!」
社員たちは無邪気に喜び、蓮の絶望には気づかない。
(……お、俺は特別じゃなかったのか……!?)
一晩中苦しんだ嫉妬も、倒れるほどの喜びも、
すべてが優里の合理的で事務的な行動の前で
無意味になった瞬間だった。
蓮は椅子に崩れ落ち、机に突っ伏す。
「このまんじゅうにお金は入ってないよ」
蓮は突っ伏したまま、呻き声を上げた。
「どこの悪代官だよ!」
「ぬぉぉぉぉおおお!!!なんで俺だけ特別じゃないんだぁぁぁぁああ!!!」
オフィス中に響き渡る叫び。
「!?」
蓮が机に突っ伏してうなだれていると、
優里が肩越しに顔をのぞかせる。
「蓮くん、甘いの苦手だった?」
その一言に、蓮の目がぱっと開く。
「え、ええっ!? 甘いの!? いやいや、いやいや、違う、違わない!?」
「いや、大好物です!!」
その声の勢いに、優里は思わず目を細めて微笑む。
「そっか、じゃあ安心だね」
蓮は胸を張ったつもりだったが、
内心はまだもやもやしている。
(いやいや、俺は今、特別扱いされてるわけじゃない……でも優里が笑った……それだけで……!)
脳内では、さっきの温泉まんじゅうが、
いきなり「俺専用スペシャルスイーツ」に変換される。
(やっぱり俺は、優里にとって特別……なんだよな……!?)
しかし現実は、ただの温泉まんじゅう。
「またやってる……」
「優里さん、慣れっこなんだろうな」
呆れと諦めが混じった視線が蓮に注がれるが、
妄想全開の彼には一切届いていなかった。
優里はそんな蓮の暴走と、
周囲の視線をすべて無視し、
「あっ、そうだ…」と、
ポケットから小袋を一つ取り出した。
「はいこれ」
(小さなビニール袋を渡す)
「えっ!?」
蓮は思わず、バッと両手で受け取る
なかには、温泉地のゆるキャラキーホルダー。
「御曹司って、こういうの知らないかなって思って」
優里は、ちょっと悪戯っぽく微笑む
他の社員に配った温泉まんじゅうとは
明らかに違うもの。
温泉地のキャラクターがデザインされたキーホルダー。
丸いフォルムと間の抜けた表情が特徴の、
完全に子ども向けのゆるいアイテム。
蓮のためだけに選ばれた、特別な一品。
蓮の瞳は、キーホルダーと優里の顔を交互に見つめ、
一瞬で最高潮の興奮に達した。
(お、オレのために!? 特別だ! やっぱり特別だったんだぁぁぁ!!)
子どものおもちゃのようなキーホルダーも、
優里の「特別」という愛の証明の前では、
ダイヤモンドよりも価値がある。
蓮の長年の渇望と一連の妄想が、
ここで一気に報われたのだ。
蓮の感情は制御不能となり、
オフィスに響き渡る大声で大絶叫した。
「すきぃぃぃ!!!!!」
蓮はキーホルダーを両手で包み込むように握りしめ、
飛びあがるように喜ぶ。
その勢いと音量に、優里は反射的に両手で耳をふさいだ。
優里の眉間には深く皺が刻まれ、顔をしかめる。
オフィスでの大絶叫の後、
蓮は優里の「特別」という愛の証を胸に抱きしめ、
足取り軽く超億ションの自宅へと帰宅した。
蓮の住むタワーマンションの、広大なベランダに出ると、
東京の煌めく夜景が眼下に広がっていた。
しかし、蓮の瞳に映る光は、
数百万のネオンではなく、
手のひらに握られた小さな光だった。
彼はキーホルダーを、
まるで夜空に浮かぶダイヤモンドのように大切に掲げた。
優里が渡してくれた、
あの温泉地のゆるキャラキーホルダーだ。
「俺だけの特別な愛の証」
蓮はスマホのライトをキーホルダーに当てた。
反射するビニール素材の安っぽい光が、
蓮には最高の宝物に見えた。
(他の社員には温泉まんじゅう。 でも、俺にはこれだ! キーホルダー! 御曹司が知らないだろう、特別でゆるい、子供向けなアイテムを、わざわざ俺のために選んでくれたんだ!)
蓮の妄想は最高潮に達した。
(これは「他の男とは違う」というメッセージだ! 蒼司への嫉妬で取り乱した俺を、優里はちゃんと見ていてくれたんだ!)
「すきだ、優里! 俺は一生、このキーホルダーを離さない!」
数百億円の資産を持つ男が、
数百円のキーホルダーに魂を奪われ、
東京の夜景を背景に熱狂的な愛を叫ぶ。
その姿は、滑稽であると同時に、
優里への一途な狂気を象徴していた。
蓮の手のひらで、
ゆるキャラのキーホルダーは優里の愛の証として、
永遠に輝き続けるのだった。




