御曹司との服選び
スーツの支払いを終え、
エスカレーターを降りた蓮と優里。
優里のブラックカード一括払いという圧倒的な現実に、
蓮の妄想は一時的に静止していたが、
彼の目は優里の微かな変化を捉えていた。
エスカレーターを降りると、
優里の目がふと女性ものの服のエリアに向けられたのを
蓮は見逃さなかった。
その瞳に宿ったのは、一瞬の好奇心。
「みる?」
蓮はすかさず声をかける。
目の前で一瞬見せたその感情を、
何としても逃すまいという必死さがあった。
このチャンスを逃せば、
また優里の心の壁は固く閉ざされてしまう。
「……べつに」
優里はそっけなく返し、淡々と歩き出す。
その無関心な背中に、蓮は思わず息を詰める。
「いこうよ、気になるんでしょ?」
蓮は必死に食い下がる。
優里は立ち止まらず、
冷静な声でどこか遠くを見ているように答えた。
「来週出張にいくから気になっただけ」
その言葉は、蓮の焦燥感に火をつけた。
(そうだ、この子、来週蒼司と出張にいくんじゃん)
(超絶嫌なんですけどぉぉ!!)
(せ、せめて俺の痕跡だけでも残させてくれ……!)
蓮は心のなかで焦燥を募らせながら、
ほとんど叫ぶように、言葉を口に出してしまった。
「服、選びに行こう!」
「え、ちょっ!」
突然繋がれた手に、
優里は驚きの声をあげ、引っ張られていく。
蓮の唐突な提案と、それに込められた尋常ではない熱意に、
優里の冷静な鎧が一瞬だけひび割れたのだった。
女性服フロアへと足を踏み入れた蓮は、
隣にいる優里の視線がふと
横のカップルに止まったのを見逃さなかった。
女の子は楽しそうに服を手に取り、
鏡の前であれこれ悩んでいるのに、
男の方はスマホばかりを見つめている。
まるで、女の子の存在そのものが
背景の装飾のように扱われているかのようだった。
優里の目が一瞬切なげに細められる。
(私が見てきた光景はいつもこうだった…)
(この人だって、いつかは…)
心のなかで、小さなため息が零れる。
優里の過去の苦い経験と現在の蓮の軽薄さが重なり、
彼女の心にわずかな不安が芽生えた瞬間だった。
しかし、蓮はそんな微妙な優里の心理をまるで察することなく、
己の妄想に全力投球していた。
彼は優里の「出張」という言葉に火をつけられ、
「優里に自分の痕跡を残す」という使命感に燃えていた。
蓮はキラキラした瞳で優里の手を取る。
「こっちだよ!」
蓮は満面の笑顔を振りまきながら、
まるで宝物を見つけた探検家のように、
優里の手を引っ張って店内を縦横無尽に歩き出す。
優里は一瞬、軽く抗おうとしたものの、
結局蓮の尋常ではない勢いに押される形でついていくしかなかった。
(…この人、どうしてこういう時だけ……)
一方、蓮の頭のなかは完全に「デート妄想モード」全開。
周囲のカップルの光景も、優里の過去も、
何もかも無視して、
自分と優里だけのキラキラした世界が出来上がっていた。
蓮はすぐさま、優里の隣で色とりどりの服を手に取り、
あれこれと選び始めた。
「こっちもいいんじゃない?」
蓮は笑顔を作りながらも、内心は完全に熱くなっている。
「なんで蓮のほうが楽しそうにしてるわけ?自分で着る気?」
「んわなけないだろ!そんな趣味ないわ!!」
「…あっそう。」
「聞いといて素っ気なく返すのやめろ!?悲しくなるだろ!」
(…俺がこんなに必死になってるのは、俺が着たいからとかじゃなくて、あの男相手にキュンキュンさせる服を選んでほしくないからだぁぁ!!)
頭のなかで「健全な服、健全な服、絶対に健全に!」と繰り返す。
しかし、優里はちょっとした悪戯心を見せるように、
色っぽいラインの服や、少し大胆なデザインの服に手を伸ばす。
蓮はそれを見るや否や、引きつった笑顔を作り、
手早くそれらを戻していく。
「マジで言ってるの?こんな服着ていくつもり?」
蓮はテンプレートの笑顔を浮かべながら、冷や汗をかく。
優里は顔に同じテンプレート笑顔を貼り付け、涼やかに答える。
「もちろん!」
その瞬間、蓮の心臓が爆発するかと思うほどに妄想が暴走する。
(この子に健全な服装をぉぉぉぉ!!)
頭のなかで絶叫する声は、もはや理性を飛び越えていた。
蓮は思わず、店員に向かって小声ながらも力のこもった声で叫ぶ。
「す、すみません!こちらの子には、健全な服装を!!」
周囲の店員は少し戸惑いながらも、
蓮の必死な様子にクスリと笑う。
健全服を選ぶこの時間は、
まるで二人だけの特別な戦場であり、
蓮にとっては完全に使命感と恋心が入り混じる、
熱狂のひとときだった。
蓮の必死の叫びを受け、戸惑いつつも状況を察した店員は、
優里に清楚で知的な、極めて健全なワンピースを試着させた。
それは、露出は控えめながら、
優里の抜群のスタイルを上品に際立たせる一着だった。
フィッティングルームから出てきた優里は、
その新しい姿に少しだけ気恥ずかしそうな表情を浮かべながら、
蓮に向かって尋ねた。
「どう?」
その瞬間、蓮の思考は完全に停止した。
(か、かかかかかか……可愛すぎるだろうがぁぁぁ!!!!!)
蓮の脳内で描かれる理想の優里像を、
現実の優里が圧倒的な破壊力で凌駕していた。
守りたいという本能が、彼の理性を吹き飛ばす。
彼は手に持っていた紙袋や自身のジャケットなど、
すべての荷物を落とし、
ただ優里の姿に見惚れるしかなかった。
優里は、床に散らばった荷物を一瞥したが、
蓮の熱狂的な視線を楽しんでいるかのように、一歩踏み出した。
「でも、これちょっと堅すぎるよね」
「仕事にワンピースって、んー…」
優里は、あまりにも健全すぎる
この守りに入った服装が気に入らなかったのか、
わずかに頬を膨らませた。
そして、店内のディスプレイ、
それも少しお腹のラインが出るような、
大胆なトップスを指さした。
「私、あっちがいい」
蓮の心臓が、一瞬にして凍りつく。
その服が、蒼司との熱海出張という
危険なシチュエーションと結びついたのだ。
(ダメだ!それ、混浴温泉旅館で着るだろぉぉぉ!?)
蓮の妄想が再び暴走の兆しを見せる。
彼は慌てて指さす方向を隠すように、
優里と視線の先の服の間に入り込んだ。
「優里ちゃん? 何を言ってるのかなぁ~?」
蓮の顔には、冷や汗がにじんでいた。
その声には、笑顔の裏に隠された、
凄まじい焦燥感が混じっていた。
(俺の目の前で、蒼司に隙を見せる服を選ぼうとするなぁぁぁ!!)
蓮にとって、この健全な服装は優里への愛の証であり、
蒼司への絶対的な防波堤だった。
彼は、この一線を越えさせまいと、
必死の形相で優里を説得しようとするのだった。
優里は淡い笑みを浮かべながら、手にした服を見せる。
ボディラインがわずかに出るデザインで、
蓮の目には「色っぽい」と映る。
しかし実際には、過激というほどでもなく、
むしろ上品な雰囲気の服だ。
「これ、試してみたいな」
優里はあくまで軽い口調で言うが、
蓮にはまるで挑戦状のように聞こえる。
「え、えぇ!?これ…本当に着るつもりなのか?」
蓮は背筋がゾクゾクするのを感じ、手で顔を覆いたくなる。
(絶対にダメだ!こんな服を着たら、俺の理性が持たない!)
優里は服をひらひらさせながら、
少し首を傾げて挑戦的に微笑む。
「だって、せっかくなら着てみたいし…どうせ大丈夫でしょ?」
蓮は顔をしかめ、両手を広げて必死に阻止する。
「いや、これはダメだって!色っぽすぎる!いや、色っぽいに見えるだけでもダメなんだ!」
優里は軽く肩をすくめ、いたずらっぽく言う。
「あら、そんなに心配してくれるの?」
蓮はその言葉にさらに心臓が跳ねる。
(この笑顔で誘惑してくるなんて…どうしてこんなに可愛いんだ…!でも、絶対に着させちゃダメだ、俺が許さない!)
二人の間で、ほんの数歩の試着室前の空間が、
静かに戦場のように張り詰める。
優里は楽しそうに服を手に取り、蓮は汗だくで必死に阻止する。
実際には控えめな服装でも、
蓮の妄想と過保護心がそれを“過激”に変換してしまうのだ。
「じゃあ、試してみるね」
優里が一歩踏み出すと、
蓮は思わず手を伸ばし、服の袖を掴んで止める。
「いやぁぁぁ、それはダメだぁぁ!!」
蓮は必死だった。
優里が手に持っている服の試着を阻止しようと、
目の前にあった服を手探りでつかむ。
指先に触れた生地を確認する余裕もなく、
「こ、こっちにしろよ…!」と勢いで優里に手渡した。
優里は一瞬、驚いたように目を見開く。
しかしすぐに口元にいたずらっ子のようなニヤリとした笑みを浮かべる。
「わかった!着てくるね」
無邪気に言い、試着室に向かって歩き出す。
蓮は慌てて渡したため、服の細部をしっかり確認していなかった。
ふと顔を上げた瞬間、血の気が引く。
自分が手渡してしまった服。
それは、先ほどよりも大胆に、
ガッツリと穴の開いたデザインだったのだ。
(だ、だめぇぇぇ!!!)
頭のなかで警鐘が鳴り、心臓が早鐘のように打つ。
しかし、優里は何の躊躇もなく試着室の扉を閉めてしまう。
蓮の叫び声は心のなかにとどまり、
現実には「ば、ばかな…!」と口から漏れた小さな悲鳴だけがこだまする。
試着室の扉がゆっくりと開き、
優里が現れた瞬間、蓮の世界は完全に止まった。
目の前に立つ優里。
お腹も肩も背中も、文字通り大胆に穴の開いた服を纏い、
涼しげに微笑むその姿は、
蓮の理性の最後の砦をも一瞬で粉々にした。
「……うわっ……」
声にならない声が口から漏れる。
手に持っていたバッグを握りしめる力が抜け、
せっかく拾い上げた荷物が
再び床に滑り落ちる。
心臓は胸を突き破る勢いで高鳴り、
視界はまるでモザイクがかかったようにぼやける。
「…はいアウト!絶対アウト!!こんなの絶対ダメ!却下あぁぁ!!!」
蓮は思わず目を背けそうになるが、
体がまったく言うことを聞かない。
呼吸は荒くなり、手は震え、思考は完全に停止。
周囲の店員や客の存在も、
今の蓮にとっては遠い世界の出来事に過ぎなかった。
(だ、だめだ…視界に入るだけで心臓が破裂しそうだ…こんな格好、どうして優里が…っ!)
必死に理性を取り戻そうと頭を振るものの、
優里の一挙手一投足が蓮の妄想をさらに刺激する。
試着室から出てくるその仕草、
微妙な角度で見える背中のライン、
自然な立ち姿。
「こ、こ、こんなの……俺、どうすれば……!」
優里は悪気なく、その服が自分に似合っているか確かめるように、
ゆっくりと振り返る。
その一挙手一投足が、
周囲の男性客や店員たちの視線を一斉に集めた。
フロアにいた男性たちは、その大胆すぎるデザインと、
優里の持つ知的な美しさとのギャップに、誰もが釘付けになる。
周囲から、遠慮のない、生々しい声が漏れ聞こえてきた。
「うわ、マジかよ、やばいよな」
「ちょっと待て、ナンパしてみる?」
その下卑た声が、蓮の耳に氷の刃となって突き刺さる。
彼の嫉妬と独占欲は、一気に臨界点に達した。
(だ、だめだぁぁぁ! 俺の優里が! こんな衆目の前で! 蒼司の前にこんな格好で現れるなんて、絶対に許さん!!)
優里は無意識かもしれないが、
蓮にとっては「全男性への誘惑」に他ならなかった。
蓮の妄想は、光速で暴走する。
(このまま熱海に行ったらどうなる!? 蒼司があの服の「穴」から見える優里の肌を二人きりで独占して、温泉効果でさらに艶っぽくなって……クソッ!)
蓮は心臓を鷲掴みにされたような苦しさに、息を詰まらせる。
彼は優里の試着を阻止しようとしたはずが、
自ら最悪の事態を招き、
そして今、周囲の男たちの視線という第三者の脅威に晒されていた。
「それ! 脱げ! 今すぐ脱ぐんだぁぁぁ!!」
蓮は荷物が散乱した床に半ば膝をつきながら、
顔を真っ赤にして叫んだ。
その声は、優里への愛と誰にも渡したくないという
切実な独占欲が混ざり合った、情けない悲鳴だった。
「えぇ?でも蓮が選んだんだよ?悪くないと思うけどなぁ~?」
蓮の目が飛び出しそうになった。
「お、おい!その服買うのか!?」
思わず声を荒げる。
優里は淡々と答える。
「うん。」
「どこに着ていくんだよそんな服!」
「え?だから出張。」
「しゅ、出張!?」
その一言で、蓮の理性は完全に吹き飛んだ。
目の前の優里は、出張という大義名分のもと、
あの穴だらけの服を着るのか。
想像するだけで心臓が破裂しそうだ。
蓮の頭のなかで、
妄想のスクリーンがフルスピードで再生される。
ホテルの部屋。
柔らかい光に照らされるベッドの上、
穴の開いた服を着た優里。
蓮の目の前には、蒼司が優里を押し倒す姿がある。
「だ、だめっ!」
「こんな服を着るなんて悪い子だ」
「悪い子にはお仕置きが必要だな」
蒼司の声が耳に響く。
優里は、あの冷たい目で、抵抗しない。
その妄想が、蓮の最大の恐怖だった。
現実の蓮は、店内で息を詰め、
手を必死に振り回して「やめろぉぉお!!!」と叫ぶ。
しかし周囲の客は何事かと振り返るだけで、
現実の世界は妄想のスピードについてこない。
「うわぁぁあああ!優里ちゃん、出張行かないでくれぇぇえ!」
蓮は両手を空に突き上げ、店内を右往左往する。
「あ、あの、彼氏さん、大丈夫ですか?」
店員も心配そうに聞いてきた。
「あぁ、ほっといて大丈夫です。ちょっと頭のネジがどっかいってる人なので。それに、彼氏じゃないんで。」
優里は冷静にカゴのなかの服を整理しており、
蓮の絶叫などまるで気にしていない。
その冷静さが、妄想をさらに刺激する。
(くそっ…現実も妄想も、俺の理性を蹂躙していく…!)
蓮の赤面と暴走は店内で異彩を放ち、
御曹司としての面目は粉々に砕け散った。
蓮の理性を完全に無視した絶叫をよそに、
優里は冷静そのものだった。
彼女はカゴのなかに、
蓮が自滅的に選んでしまった穴あきの服と、
最初に蓮が必死で守ろうとした、
知的なネイビーの健全ブラウスの二着を入れた。
優里は微かに小首を傾げ、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「どうしようかな、どっちにしようかな」
優里は穴の開いた服と健全な服を、
まるでファッションショーのように交互に持ち上げて蓮に見せる。
その意図的な行為は、
蓮の暴走する妄想スクリーンに燃料を注ぐ行為に他ならなかった。
蓮の目が離せない。
蒼司と熱海、
そして誘惑的な優里の姿がさらに過激化して再生される。
(両方いいよ!とか彼氏マインドしたいところですが…!この場合両方なんて絶対にダメだ! 健全服にしろ!健全服にしろ)
そして、蓮の身体は無意識のうちに、
究極の嘆願の姿勢を取った。
彼は散乱した荷物を避けて、
試着室の前というデパートのど真ん中で、
静かに正座したのだ。
その両手は膝の上に揃えられ、顔は優里を見上げているが、
その表情はもはや愛を乞う男ではなく、
神仏に祈るような切実なものだった。
「な、何卒……何卒、そちらの……健全な方を……」
嗚咽にも似た、かすれた声が漏れる。
御曹司としてのプライドも、最後の理性も、
すべてが優里の服の選択という究極の危機の前で崩壊していた。
完璧な美女である優里の隣で、完璧に恥を晒す蓮。
その対比は、周囲の失笑を誘いながらも、
蓮にとっては救いのない絶望でしかなかった。
蓮は正座したまま動けない。
優里がどちらの服を買うのかも分からないまま、
彼は愛する人の選択という名の運命の審判を、
土下座にも似た姿勢で待つしかなかった。
優里は冷静な表情のまま、手に持った二枚の服のうち、
穴がガッツリ開いた方を蓮にすっと差し出した。
「こっちにする!」
その声は冷静そのもの。
しかし、蓮の心臓は一気に跳ね上がった。
目の前で優里が選んだその服は、
肩も背中も大胆に穴が開いており、
蒼司との出張先での着用を想像するだけで、
蓮の頭のなかの妄想スクリーンは暴走を始める。
「だ、だめぇぇ!!」
正座した姿勢から、思わず声を張り上げて全否定する蓮。
体を前のめりにし、手を伸ばして服を取り上げようとするが、
優里は微動だにせず、くるりと背を向ける。
「な、なにしてんだよぉ…!」
蓮の声は店内に響き渡る。
通りかかった店員や客の視線が一斉に集まり、奇異な目で彼を見つめる。
正座して祈るような姿勢で、必死に服を阻止しようとする蓮。
「や、やめろっ! こんな服、絶対に…!」
声だけでは止められず、体も動かそうとするが、優里は全く意に介さない。
「着替えてくるね」
蓮は焦り、赤面し、心臓が破裂しそうになりながら、
ただ試着室の扉越しに優里を見つめるしかない。
店内の冷静な視線と、蓮の暴走の対比が、
場を滑稽なコメディに変える。
必死に服を止めようとする蓮と、
何事もなかったかのように服を選ぶ優里。
その極端な温度差が、妄想全開の蓮の心をさらに爆発させていた。
試着室に入った優里。
彼の暴走した嫉妬は、優里の冷めた心をかき乱し、
予想外の反応を引き出す。
(本当に、みっともない人)
優里は、穴の開いた服を鏡で確認しながら、小さく息を吐いた。
しかし、そのとき。
試着室の外、蓮が正座しているすぐ近くを、
偶然通りかかった若い女の子たちの甲高いさざめきが優里の耳に届いた。
「うそ、めっちゃイケメンじゃない?」
「やばい、カッコ良すぎる! 何あの服の選び方、ちょっと変わってない?」
「でも身長高いし、顔小さい! 絶対、モデルか何かだよ!」
「キャーキャー」という興奮した声と、
蓮を称賛する言葉が、容赦なく流れ込んでくる。
蓮は今、優里の服の選択と蒼司との妄想に夢中になっているため、
彼女たちのそんな声すらも聞こえていないだろう。
彼の思考は完全に優里で満たされ、
周囲の関心など、彼にとって無意味になっていた。
しかし、優里は違った。
優里は試着室のカーテンを指先でギュッと掴んだ。
その顔は、普段の氷のような冷静さが崩れ、
微かに口元が引き締まっている。
(……バカ)
誰にも聞かれない心の声が漏れた。
蓮がもし見ていたら、それは彼が普段、
他の女性たちに向けられてきた「パーティー状態」の羨望の眼差し。
しかし、その表情は、蓮が今見ることのできない、
優里の本心が初めて垣間見えた瞬間だった。
試着室が再びゆっくりと開く。
優里は穴の開いた服を手に持ったまま、冷静な表情で蓮を見つめた。
その危険すぎる選択は、未だ正座に近い姿勢で
土下座寸前の蓮を絶望の淵に突き落とす。
蓮は、周囲の視線も御曹司のプライドも完全に捨て去り、
悲願にも似た声で優里に訴えた。
「お、お願い。 その服はやめてくれ。健全な服にしておこう?」
その声は、もはや恋人への懇願ではなく、
最後の防衛線を守ろうとする兵士の叫びだった。
優里は蓮の熱狂的な様子を観察するかのように見下ろし、
冷たい声で理由を問いただした。
「理由は?」
蓮は顔を真っ赤に染めながら、震える声で饒舌に述べ始めた。
「だ、だって……似合いすぎる! ただでさえ美人なんだから、こんな露出の高い服を着たら、男が黙っちゃいないだろ! 来週の熱海出張、蒼司と二人きりなんだぞ! もし、あんな服を着て温泉街を歩いたら、どうなるか考えたことあるのか!」
蓮の言葉は、優里への愛と蒼司への強烈な嫉妬、
そして彼女を守りたいという純粋な本能がごちゃ混ぜになっていた。
「あいつは冷静に見えて、ああいうのに弱いんだ! 旅館で酒でも入ったらどうするんだ! 俺がいない間に、誰かに目移りしたら、俺はもう立ち直れないんだよ! 頼むから、俺を安心させてくれ! その服は、俺以外に見せないでくれ…!」
それは、御曹司としての地位も、
軽薄な仮面も、すべてを投げ捨てた、
一人の男の切実すぎる本音だった。
蓮は、自分の醜い嫉妬心さえもすべて優里に捧げて、
ただ愛する人の安全と、自分の理性の安全を懇願したのだ。
優里は穴の開いた服を手に、蓮の顔を見つめた。
彼の真っ赤な顔、震える体、
そして「俺以外に見せないでくれ」という醜いまでの独占欲。
優里には、その熱狂があまりにもよく分かってしまった。
(……どうせ一瞬)
彼女の心は、氷のように冷たかった。
蓮の「本気」は、
これまでの軽薄な男たちが一時の高揚で示してきた情熱と、
何ら変わりないように見えた。
彼の「御曹司だから」という肩書きと
「手に入らないものを追いかける」という本能が結びついた、
一過性の熱病だと優里は知っている。
(……いつかは飽きる)
自分が本気で心を許した瞬間、彼はこの熱を失う。
そして、「飽きた」という言葉と共に、
無責任に立ち去っていくだろう
それが、優里が過去の経験から学んだ、
男という生き物に対する冷めた現実だった。
だからこそ、優里は蓮の感情に乗っかることはできない。
彼の暴走を「愛」として受け取れば、
その後の痛みがより深くなることを知っていた。
優里は何も答えず、ただ静かに蓮を見下ろした。
彼女の瞳には、彼の熱狂に対する感謝も喜びもなく、
ただ「時間の問題」という諦念にも似た冷たい感情が宿っていた。
しかし、その優里の諦めを知らない蓮は、
全身全霊で優里への愛を証明しようとしていた。




