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御曹司なのに不採用!? ~冷徹女社長と始めるゼロからの恋と成長録~  作者: 優里


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56/60

スーツの代償




翌朝。

鏡の前で無理やり整えた髪も、

どうしても隠し切れない疲労の色を顔に残していた。


ネクタイを締めながら蓮は、

自分の瞳が妙に濁って見えることに気づく。


(……行きたくねぇ。けど、行かないわけにもいかねぇ)


重い足を引きずるように会社へ向かう。



オフィスに着いた瞬間。


社員たちのざわめきが耳に突き刺さった。


昨日までは「蓮様!」と明るく声をかけてきていたのに、

今日はどこかよそよそしい。


それどころか、小声で交わされる会話が断片的に耳に入ってしまう。


「やっぱり、蒼司様みたいに落ち着いた人じゃないと……」



蒼司。


その名前が出るたびに、蓮の胸はひりつくように痛んだ。


(俺は……また比べられてんのか)


必死に気にしないふりをしてデスクに向かうが、

書類をまとめる手は小さく震えていた。



デスクにもたれかかるようにして、

蓮は画面の明かりだけをぼんやりと見つめていた。


目の端に入るのは、優里の冷たい視線の残像。


胸の奥が重く、まるで息を吸うたびに何かが押し付けられるようだった。



周囲はいつもの朝の雑音。

コピー機の軽い振動、キーボードの断続的な打鍵音、

誰かの低い笑い声が淡々と流れている。


けれどそのすべてが、今の蓮には遠い別世界の音に思えた。


自分だけが別の次元に置き去りにされているような、そんな孤独。


「星野さん?」


声に反応して顔を上げる。


優里が、いつもの白のブラウスに

紺のジャケットという簡潔な装いで立っていた。


顔には疲れが見える。


だがその目は仕事を見据えていて、

優しいというよりは機械的な冷静さをまとっている。


「今日はこの仕事だけでいいから、11時50分くらいまでに終わらせられる?」


蓮は一瞬、耳を疑った。


いつもなら山のように仕事を押し付けられるのに、

今日は明らかに量が少ない。



あえて簡単なタスクだけを割り振っている。


その意図がどこにあるのか、

言葉にならない不安が胸を締め付ける。


(……なんだよ、もう俺は用無しってことかよ)


その思考が、勝手に口元に出そうになるのを、必死に飲み込む。


優里は蓮の微かな動揺を見透かしたように、

眉を小さく動かすだけで詳細を詰めずに立ち去ろうとした。


その仕草が、蓮の胸にさらに冷たい矢を突き刺した。


「自己否定はいいから、はやくして」



優里の声には苛立ちや迷いはなく、

ただ仕事を回すための最小限の事務的な温度しかない。


「……はい」


声が小さく、掠れているのを自分でも感じた。


優里はそれ以上何も言わずにデスクへ戻っていく。


背中が小さく震えて見えたのは、

蓮の気のせいだろうか。


それとも、本当に優里の心が

別の場所へ行ってしまっているのだろうか。



画面に表示されたファイル。


タスクは単純だ。


資料のフォーマット統一と、

クライアント向けの一枚スライドの作成。


時間に追われるわけでもない、誰にでもできる仕事だ。


けれど今の蓮にとっては、あらゆる作業が手に付かない。


手を動かそうとすると、指先が微かに震えた。


ネクタイの締め跡が首筋に食い込んでいるようで、不快だ。


呼吸を整えようとしても、胸のなかのざわめきが消えない。


周囲の視線が、自分を嘲笑っているように感じられる。




「星野さん、大丈夫ですか?」


脇の席の若手がさりげなく声をかけてくる。


さっきまでの彼女の口調は明るかったが、

その瞳の奥には心配がにじんでいた。


蓮は笑って首を振る。


「大丈夫だ。やれるよ、これくらい」


言葉は確かに出たが、

自分の声が頼りなく震えていることに気づく。


若手の社員はにっこりと頷き、安心したように離れていく。


だが、その僅かな関わりすら、蓮には救いにならなかった。


なぜなら、救いが欲しい相手はここにはいなかったからだ。




時計の針がゆっくりと進むのが見える。


11時30分。

残り20分。


簡単な作業だと自分に言い聞かせる。


だが指先がいつもよりも重く、

キーボードのタッチがいつもよりも遅く感じられる。


集中しようと眉間に力を入れるたび、

優里のあの冷たい一言が脳裏にフラッシュする。



(俺は……何を証明すればいいんだ?)



自分でも答えがわからない。


けれど、ひとつだけわかるのは、

目の前の小さなスライドが完成すれば、

優里が少しはこっちを向いてくれるだろうかという、

子供じみた期待だ。



蓮は深呼吸をして、指を動かし始めた。


震える手でテンプレートを呼び出し、

フォントを合わせ、箇条書きを整える。


11時45分、一行ずつ埋めていくたびに、

心拍が少しだけ落ち着く気がした。


些細な達成感が、

胸のざわつきをほんのわずか和らげる。



蓮はキーボードを叩き続けた。


周囲のざわめきは変わらない。


だが、11時50分の前に、

一枚のスライドが白い光の中で整い、画面に静かに収まった。


完璧ではないかもしれない。


だが、蓮にはそれが今できる最善だった。



昼のチャイムが鳴り、

時計の針がちょうど12時を指した頃。


蓮が最後の確認を終えて、

かろうじて完成したスライドに保存マークを付けた瞬間、

背後に気配を感じた。


「終わりましたか?」


振り返ると、優里が静かに立っていた。


表情は仕事モードのままで、

いつもの冷静さを崩していない。


「おう」


声がわずかに上擦ったのを自分でも気づいた。


だが優里は何も気にせず、ただ小さく頷いただけだった。


「わかりました。では帰る支度を」


「え?」


心臓が一瞬にして凍りつく。


まさか……と思った。


(ま、まさかクビなのか? もうこんなやついらないってことか? 今日の軽い仕事はそのための最後の温情で……?)


頭のなかで最悪のシナリオが駆け巡る。


だが次の瞬間、優里はためらいもなく蓮の腕を取った。


「立ってください。帰りますよ」


ぐい、と引っ張られ、蓮は戸惑いながら立ち上がる。


机の周りの書類やPCが、そのまま取り残される。


まるで自分がこの場から切り取られていくような錯覚を覚えた。


「お疲れ様でした」


優里が周囲に向けて発した声は、

はっきりとした区切りを持っていた。


「お疲れ様です!」



社員たちが一斉に声を揃える。


その響きは通常の職場の挨拶のはずなのに、

蓮には妙に冷たく、突き放す合唱に聞こえてしまった。


笑顔の者もいれば、淡々と声を返す者もいる。


だがその全員の視線が、

一瞬自分に集まってはすぐに逸れていく。


その何気ない仕草が、蓮には耐え難い羞恥と敗北感を突きつける。


腕を引かれ、出口に向かって歩きながら、

蓮の心臓はずっと不規則に跳ねていた。


(これは救いなのか……それとも、追放の始まりなのか……?)



答えを見つけられないまま、

昼下がりの光が差し込むエントランスへと連れ出されていった。



その腕を掴む優里の力強さだけが、現実感として残っていた。




昼下がりの眩しい陽射しを浴びながら、

優里に腕を引かれて歩く蓮の足取りは重かった。


社員たちの「お疲れ様でした」の声が、まだ耳に残っている。


自分を見限った冷酷な合唱のように。


(……マジで俺、クビなんじゃねぇのか? 優里も最後に温情で送ってくれてるだけで……)



胸が締めつけられるように苦しい。


こんな形で終わるのかと、絶望がのしかかる。


だが優里は歩みを止め、淡々と告げた。


「今日はスケジュールを軽くしたのは、あなたが元気なさそうだったから。正直、このままじゃ仕事に支障が出る。だから一度、外の空気を吸った方がいいと思って」


「……え?」


蓮は一瞬耳を疑った。


(クビじゃない? むしろ気遣われてる……?)


「それと。苛性ソーダの一件で、スーツを台無しにしてしまったから。会社としても私個人としても責任を感じてる。だから今日はそのお詫びも兼ねて、あなたのスーツを新しく買いに行く」


「……」


一瞬、時間が止まったような感覚。


(……そ、それってぇぇぇぇ!? 建前は“お詫び”だけど、実質的には俺と優里の二人っきりデートってことじゃないですかぁぁああああああああああ!?!?!?)


「……デート?」


「はぁ?」


「あなたはよくやってくれてる。あなたのおかげで仕事が楽になった。でも今機能してない。だからただの息抜き。」


「…ただの?」


「そう。ただの息抜きだから、鼻の下伸ばしてだらしない顔しないで!」




妄想スイッチが、容赦なくカチリと入る。


頭のなかで瞬時に光景が広がった。


仕立ての良いスーツ売り場。

鏡の前に立たされる蓮。

「似合うね」と微笑む優里。

その瞳はどこか柔らかい。


「やっぱり蓮は、こういう大人っぽいのがいい」


(うおぉぉぉおおお!!優里が俺に“似合う”って言ってくれるぅぅぅううう!!)


ショッピングの合間にカフェで休憩。

「さっきのスーツ、やっぱりあなたに合ってた」

「そ、そうかな……」


二人きりで過ごすひととき。

周囲の雑踏がかすんでいく。


(これは……完全にデートだろ!?!? お詫びなんてただの口実じゃねぇか!!)


現実の蓮は、さっきまでの沈んだ顔から一転して、

血色が戻っていた。


頬はほんのり赤くなり、足取りも軽くなる。


(……ほんと単純)


優里は無言で歩くその変化に一瞬目を細めたが、

特に指摘はせず、そのまま先導していった。


(あぁぁぁ……! 神様ありがとう!! クビ回避どころかデートチャンスをくださるなんて……! 俺はやっぱり運命に愛されてる!!)


心のなかで雄叫びを上げながら、

蓮は優里に引かれてビルを出て行った。



百貨店のエントランスをくぐった瞬間から、

蓮の胸は爆発寸前だった。


優里は淡々と歩きながら、

ちらりと蓮に視線を投げる。


「いつも馴染みのお店があるんでしょ? 私は御曹司じゃないから、そういう高級店のことはよくわからない。だからそこに連れていって。あなたが選んだものを、私が買うから」


「……!!」


耳に飛び込んできたその一言で、蓮の頭のなかは即・お花畑。


(でででででデートォォォォオオオ!!! これはもうデート確定でしょ!?!? “あなたが選んだものを私が買う”って……それ、もう恋人同士のやつじゃん!?!?)


(……俺、完全に優里の彼氏ポジションじゃねぇか!! デートどころか婚約者ポジションまで昇格しちまったぁぁあああ!!)


(特別ってことは、それだけ俺が大切ってことだろ!? 「お詫び」なんて最高のカモフラージュじゃねぇか! 優里、照れてるくせに!)



優里は「……なにニヤニヤしてるの」と冷ややかに睨むが、

蓮の耳には届かない。


彼はただ一人、妄想ワールドで幸せの絶頂を駆け抜けていた。



蓮の心臓は全速力で暴走していた。



蓮がいつもスーツを購入する、高級ブランド店。


「星野様、いつもご利用いただきありがとうございます。」


「あぁ、今日はスーツを買いに来た」


「かしこまりました。」


店員は蓮に挨拶をして、

手慣れた様子で蓮のサイズに合ったスーツを取りに行った。



優里は蓮をみることもなく、ネクタイを眺めている。



「も、もしかして、ネクタイもセットにしてくれたりするんですかね?」


「……欲しいの?」


「そりゃあもちろん、優里が選んでくれたネクタイなら欲しいにきまってるでしょ?」


「じゃあ、一本だけね」


蓮はウキウキの気分でネクタイを選び出す。


「ねぇねぇ、これつけて!」


優里は怪訝そうな顔をする




翌朝。

鏡の前で無理やり整えた髪も、

どうしても隠し切れない疲労の色を顔に残していた。


ネクタイを締めながら蓮は、

自分の瞳が妙に濁って見えることに気づく。


(……行きたくねぇ。けど、行かないわけにもいかねぇ)


重い足を引きずるように会社へ向かう。



オフィスに着いた瞬間。


社員たちのざわめきが耳に突き刺さった。


昨日までは「蓮様!」と明るく声をかけてきていたのに、

今日はどこかよそよそしい。


それどころか、小声で交わされる会話が断片的に耳に入ってしまう。


「やっぱり、蒼司様みたいに落ち着いた人じゃないと……」



蒼司。


その名前が出るたびに、蓮の胸はひりつくように痛んだ。


(俺は……また比べられてんのか)


必死に気にしないふりをしてデスクに向かうが、

書類をまとめる手は小さく震えていた。



デスクにもたれかかるようにして、

蓮は画面の明かりだけをぼんやりと見つめていた。


目の端に入るのは、優里の冷たい視線の残像。


胸の奥が重く、まるで息を吸うたびに何かが押し付けられるようだった。



周囲はいつもの朝の雑音。

コピー機の軽い振動、キーボードの断続的な打鍵音、

誰かの低い笑い声が淡々と流れている。


けれどそのすべてが、今の蓮には遠い別世界の音に思えた。


自分だけが別の次元に置き去りにされているような、そんな孤独。


「星野さん?」


声に反応して顔を上げる。


優里が、いつもの白のブラウスに

紺のジャケットという簡潔な装いで立っていた。


顔には疲れが見える。


だがその目は仕事を見据えていて、

優しいというよりは機械的な冷静さをまとっている。


「今日はこの仕事だけでいいから、11時50分くらいまでに終わらせられる?」


蓮は一瞬、耳を疑った。


いつもなら山のように仕事を押し付けられるのに、

今日は明らかに量が少ない。



あえて簡単なタスクだけを割り振っている。


その意図がどこにあるのか、

言葉にならない不安が胸を締め付ける。


(……なんだよ、もう俺は用無しってことかよ)


その思考が、勝手に口元に出そうになるのを、必死に飲み込む。


優里は蓮の微かな動揺を見透かしたように、

眉を小さく動かすだけで詳細を詰めずに立ち去ろうとした。


その仕草が、蓮の胸にさらに冷たい矢を突き刺した。


「自己否定はいいから、はやくして」



優里の声には苛立ちや迷いはなく、

ただ仕事を回すための最小限の事務的な温度しかない。


「……はい」


声が小さく、掠れているのを自分でも感じた。


優里はそれ以上何も言わずにデスクへ戻っていく。


背中が小さく震えて見えたのは、

蓮の気のせいだろうか。


それとも、本当に優里の心が

別の場所へ行ってしまっているのだろうか。



画面に表示されたファイル。


タスクは単純だ。


資料のフォーマット統一と、

クライアント向けの一枚スライドの作成。


時間に追われるわけでもない、誰にでもできる仕事だ。


けれど今の蓮にとっては、あらゆる作業が手に付かない。


手を動かそうとすると、指先が微かに震えた。


ネクタイの締め跡が首筋に食い込んでいるようで、不快だ。


呼吸を整えようとしても、胸のなかのざわめきが消えない。


周囲の視線が、自分を嘲笑っているように感じられる。




「星野さん、大丈夫ですか?」


脇の席の若手がさりげなく声をかけてくる。


さっきまでの彼女の口調は明るかったが、

その瞳の奥には心配がにじんでいた。


蓮は笑って首を振る。


「大丈夫だ。やれるよ、これくらい」


言葉は確かに出たが、

自分の声が頼りなく震えていることに気づく。


若手の社員はにっこりと頷き、安心したように離れていく。


だが、その僅かな関わりすら、蓮には救いにならなかった。


なぜなら、救いが欲しい相手はここにはいなかったからだ。




時計の針がゆっくりと進むのが見える。


11時30分。

残り20分。


簡単な作業だと自分に言い聞かせる。


だが指先がいつもよりも重く、

キーボードのタッチがいつもよりも遅く感じられる。


集中しようと眉間に力を入れるたび、

優里のあの冷たい一言が脳裏にフラッシュする。



(俺は……何を証明すればいいんだ?)



自分でも答えがわからない。


けれど、ひとつだけわかるのは、

目の前の小さなスライドが完成すれば、

優里が少しはこっちを向いてくれるだろうかという、

子供じみた期待だ。



蓮は深呼吸をして、指を動かし始めた。


震える手でテンプレートを呼び出し、

フォントを合わせ、箇条書きを整える。


11時45分、一行ずつ埋めていくたびに、

心拍が少しだけ落ち着く気がした。


些細な達成感が、

胸のざわつきをほんのわずか和らげる。



蓮はキーボードを叩き続けた。


周囲のざわめきは変わらない。


だが、11時50分の前に、

一枚のスライドが白い光の中で整い、画面に静かに収まった。


完璧ではないかもしれない。


だが、蓮にはそれが今できる最善だった。



昼のチャイムが鳴り、

時計の針がちょうど12時を指した頃。


蓮が最後の確認を終えて、

かろうじて完成したスライドに保存マークを付けた瞬間、

背後に気配を感じた。


「終わりましたか?」


振り返ると、優里が静かに立っていた。


表情は仕事モードのままで、

いつもの冷静さを崩していない。


「おう」


声がわずかに上擦ったのを自分でも気づいた。


だが優里は何も気にせず、ただ小さく頷いただけだった。


「わかりました。では帰る支度を」


「え?」


心臓が一瞬にして凍りつく。


まさか……と思った。


(ま、まさかクビなのか? もうこんなやついらないってことか? 今日の軽い仕事はそのための最後の温情で……?)


頭のなかで最悪のシナリオが駆け巡る。


だが次の瞬間、優里はためらいもなく蓮の腕を取った。


「立ってください。帰りますよ」


ぐい、と引っ張られ、蓮は戸惑いながら立ち上がる。


机の周りの書類やPCが、そのまま取り残される。


まるで自分がこの場から切り取られていくような錯覚を覚えた。


「お疲れ様でした」


優里が周囲に向けて発した声は、

はっきりとした区切りを持っていた。


「お疲れ様です!」



社員たちが一斉に声を揃える。


その響きは通常の職場の挨拶のはずなのに、

蓮には妙に冷たく、突き放す合唱に聞こえてしまった。


笑顔の者もいれば、淡々と声を返す者もいる。


だがその全員の視線が、

一瞬自分に集まってはすぐに逸れていく。


その何気ない仕草が、蓮には耐え難い羞恥と敗北感を突きつける。


腕を引かれ、出口に向かって歩きながら、

蓮の心臓はずっと不規則に跳ねていた。


(これは救いなのか……それとも、追放の始まりなのか……?)



答えを見つけられないまま、

昼下がりの光が差し込むエントランスへと連れ出されていった。



その腕を掴む優里の力強さだけが、現実感として残っていた。




昼下がりの眩しい陽射しを浴びながら、

優里に腕を引かれて歩く蓮の足取りは重かった。


社員たちの「お疲れ様でした」の声が、まだ耳に残っている。


自分を見限った冷酷な合唱のように。


(……マジで俺、クビなんじゃねぇのか? 優里も最後に温情で送ってくれてるだけで……)



胸が締めつけられるように苦しい。


こんな形で終わるのかと、絶望がのしかかる。


だが優里は歩みを止め、淡々と告げた。


「今日はスケジュールを軽くしたのは、あなたが元気なさそうだったから。正直、このままじゃ仕事に支障が出る。だから一度、外の空気を吸った方がいいと思って」


「……え?」


蓮は一瞬耳を疑った。


(クビじゃない? むしろ気遣われてる……?)


「それと。苛性ソーダの一件で、スーツを台無しにしてしまったから。会社としても私個人としても責任を感じてる。だから今日はそのお詫びも兼ねて、あなたのスーツを新しく買いに行く」


「……」


一瞬、時間が止まったような感覚。


(……そ、それってぇぇぇぇ!? 建前は“お詫び”だけど、実質的には俺と優里の二人っきりデートってことじゃないですかぁぁああああああああああ!?!?!?)


「……デート?」


「はぁ?」


「あなたはよくやってくれてる。あなたのおかげで仕事が楽になった。でも今機能してない。だからただの息抜き。」


「…ただの?」


「そう。ただの息抜きだから、鼻の下伸ばしてだらしない顔しないで!」




妄想スイッチが、容赦なくカチリと入る。


頭のなかで瞬時に光景が広がった。


仕立ての良いスーツ売り場。

鏡の前に立たされる蓮。

「似合うね」と微笑む優里。

その瞳はどこか柔らかい。


「やっぱり蓮は、こういう大人っぽいのがいい」


(うおぉぉぉおおお!!優里が俺に“似合う”って言ってくれるぅぅぅううう!!)


ショッピングの合間にカフェで休憩。

「さっきのスーツ、やっぱりあなたに合ってた」

「そ、そうかな……」


二人きりで過ごすひととき。

周囲の雑踏がかすんでいく。


(これは……完全にデートだろ!?!? お詫びなんてただの口実じゃねぇか!!)


現実の蓮は、さっきまでの沈んだ顔から一転して、

血色が戻っていた。


頬はほんのり赤くなり、足取りも軽くなる。


(……ほんと単純)


優里は無言で歩くその変化に一瞬目を細めたが、

特に指摘はせず、そのまま先導していった。


(あぁぁぁ……! 神様ありがとう!! クビ回避どころかデートチャンスをくださるなんて……! 俺はやっぱり運命に愛されてる!!)


心のなかで雄叫びを上げながら、

蓮は優里に引かれてビルを出て行った。



百貨店のエントランスをくぐった瞬間から、

蓮の胸は爆発寸前だった。


優里は淡々と歩きながら、

ちらりと蓮に視線を投げる。


「いつも馴染みのお店があるんでしょ? 私は御曹司じゃないから、そういう高級店のことはよくわからない。だからそこに連れていって。あなたが選んだものを、私が買うから」


「……!!」


耳に飛び込んできたその一言で、蓮の頭のなかは即・お花畑。


(でででででデートォォォォオオオ!!! これはもうデート確定でしょ!?!? “あなたが選んだものを私が買う”って……それ、もう恋人同士のやつじゃん!?!?)


(……俺、完全に優里の彼氏ポジションじゃねぇか!! デートどころか婚約者ポジションまで昇格しちまったぁぁあああ!!)


(特別ってことは、それだけ俺が大切ってことだろ!? 「お詫び」なんて最高のカモフラージュじゃねぇか! 優里、照れてるくせに!)



優里は「……なにニヤニヤしてるの」と冷ややかに睨むが、

蓮の耳には届かない。


彼はただ一人、妄想ワールドで幸せの絶頂を駆け抜けていた。



蓮の心臓は全速力で暴走していた。



蓮がいつもスーツを購入する、高級ブランド店。


「星野様、いつもご利用いただきありがとうございます。」


「あぁ、今日はスーツを買いに来た」


「かしこまりました。」


店員は蓮に挨拶をして、

手慣れた様子で蓮のサイズに合ったスーツを取りに行った。



優里は蓮をみることもなく、ネクタイを眺めている。



「も、もしかして、ネクタイもセットにしてくれたりするんですかね?」


「……欲しいの?」


「そりゃあもちろん、優里が選んでくれたネクタイなら欲しいにきまってるでしょ?」


「じゃあ、一本だけね」


蓮はウキウキの気分でネクタイを選び出す。


「ねぇねぇ、これつけて!」


優里は怪訝そうな顔をする


「……なんで私が…」


仕方なくネクタイを結ぼうとする優里の指先に、

つい目を奪われてしまう。


「そんなに見ないでくれる?変態」


優里は眉をひそめ、少し苛立たしげに言った。


「うん。今の俺には何を言われても愛の証にしか聞こえない」


「じっとして!」


蓮の胸元に手を伸ばし、ネクタイをぐいっと引っ張る。


蓮の脳内は完全に暴走モード。


(こ、これは……! 漫画やドラマでよくあるやつじゃないですか!顔が近づいて……キ、キスの流れ!)



蓮は息をのんで、思わず顔を傾けてしまう。


目と目が触れ合う。


その刹那、世界はスローモーションに変わったかのように感じた。


「……バカなの?」


優里の冷たい声が、蓮の妄想を粉々に砕く。


彼女は蓮の顔を見つめることもなく、

ぐいっとネクタイを強く締め直した。


「いっ、痛い痛い痛いっ!絞め殺す気!?」


「余計な妄想してる顔してたから」


優里の冷静な言葉と、鋭くも無言の圧力に、

蓮の頬は真っ赤に染まった。


心臓は早鐘を打ち、

頭のなかではまだ漫画のようなシチュエーションがループしている。



だが現実は、ネクタイを直すだけの冷酷な優里。



(くそ……せっかく夢見てたのに!現実、あまりにも冷たすぎる……)



そんな蓮の頭のなかで、妄想と現実がカオスに入り混じり、

病的なまでの新婚コメディが始まろうとしていた。


蓮は試着を繰り返し、

結局何着かのスーツを購入することになった。


店員が恭しく三着分の合計金額をレジに打ち込む。


それは、一流ブランドの最高級仕立てとあって、

一般のサラリーマンの月給を遥かに超える額になった。



優里は最終的な値段を見て、

一瞬だけ、その冷静な表情を崩した。


眉間に微かな皺が寄り、瞳がわずかに見開かれたのだ。


蓮はその小さな動揺を見逃さなかった。


(おっ、優里が戸惑った! やっぱ、いくら優里でもこの額はきついだろ! 俺の財力を見せつけるチャンス、キタァァア!)


蓮はすかさず妄想全開、

優越感に満ちた心のなかでセリフを組み立てる。


(ここは俺が払うよ。 君が俺のために選んでくれた気持ちだけで十分さ。俺が御曹司様ってわかっただろ? 君の気持だけで十分さ。)


「やっぱり頼りになるのは御曹司の俺だ」


ヒーロー願望が、蓮の胸のなかで爆発寸前だった。


優里に経済的な面で優位に立つことで、

蒼司との決定的な差を見せつけられると確信したのだ。


しかし、その瞬間、現実は蓮の妄想を容赦なく打ち砕いた。


優里は、一瞬の動揺をすぐに押し殺すと、

店員に静かに頷いた。


そして、光沢のある黒いカードをためらいなく差し出した。


店員はそのカードを見て、さらに恭しい態度で決済を始めた。


「一括で」


優里の声は、一切の迷いを帯びていなかった。


蓮は、決済機が響かせる電子音を聞きながら、

全身から血の気が引くのを感じた。


(そ、そうだった。 優里はブラックカードの持ち主だった……)


あの高級スーツ三着分の法外な金額が、

優里のブラックカードによって一瞬で、

何の感情も伴わずに支払われた。



蓮が抱いた

「俺の財力を見せつけて優位に立つ」

という浅はかな思惑は、


優里の隠された経済力と冷静な行動によって完全に粉砕されたのだ。




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