届かない想い
翌朝、オフィスの空気はいつもより重く感じられた。
蓮はいつも通りに優里のデスクに近づくが、
視線を合わせることすらままならない。
「おはよう、優里…」
いつもの調子で声をかけるも、
返ってくるのはそっけない「おはよう」だけ。
しかもその声は、どこか距離を感じさせる冷たさが帯びていた。
(……なんでだ?今までだって、優里は冷たくすることはあった。軽くあしらう程度で……でも、今は違う。何か、埋められない溝がある気がする)
蓮は胸の奥で重くのしかかる感覚に気づく。
まるで透明な壁が二人の間に立っていて、
いくら手を伸ばしても届かないような……。
(手の届かない存在……いや、これは俺のせいだ。俺が、優里に本気になりすぎたせいだ……)
蓮の視線は自然と下に落ちる。
目の前の優里は、何も変わらず仕事に没頭している。
だが、その姿を見れば見るほど、
心の奥に芽生える焦燥と劣等感が増幅する。
(俺にとって、優里はもう、遠い存在になってしまったのか……)
デスクの間を行き交う社員たちの声も、
蓮には遠く、雑音のようにしか聞こえない。
目の前の優里だけが、手の届かない存在として、
冷たくも美しい壁を作っているようだった。
そんな時、近くの社員たちの会話が耳に入ってきた。
「来週、出張ですよね?」
優里は軽く微笑みながら、頷く。
「そうなんだよね。よろしくね。」
蓮の胸のなかで、冷たい波が押し寄せる。
(出張か……さらに距離が広がるじゃねーか……)
「蒼司さんと待ち合わせなんですか?」
「うん。迎えに来てくれるらしい」
その瞬間、蓮の頭のなかで世界が止まったように感じた。
(はぁー!?蒼司!?蒼司と出張に行くの!?なんで……なんで別の会社のやつなんだよぉー!!)
視界がゆがむ。
心臓が早鐘を打つ。
頭のなかには、蒼司と優里が出張先で笑い合い、
二人だけの時間を過ごす妄想が、あっという間に立ち上がる。
(くっ……俺はその場にいられないのか……!俺がそばにいるべきなのに……!)
胸の奥の嫉妬と焦燥が渦巻き、
蓮の体が小刻みに震える。
頭のなかで現実と妄想が混ざり合い、完全に空回り状態だ。
「うぅ……なんでだ……なんで俺じゃダメなんだ……」
蓮は再び拳を握りしめるが、その手には力が入りきらず、
視線だけが優里と蒼司の“二人だけの出張”を追いかけてしまう。
その距離感に、彼の心は引き裂かれそうだった。
「熱海、いいですよね~」
「お土産、楽しみにしてます!」
優里は微笑みながらも軽く会釈するだけ。
蓮はその様子を目に焼き付けながらも、
いつものように妄想する余裕はなかった。
「……いつもみたいに妄想しないんですか、蓮さん?」
社員の軽口に、蓮は思わず顔を背け、声をひそめる。
「……みっともないだろ?」
だが、社員の口元にはニヤリとした笑みが浮かぶ。
「熱海の温泉、混浴あるらしいですよ~?」
その言葉が、まるで火薬に点火するかのように蓮の脳内を直撃する。
(え……!?混浴!?しかも熱海!?ちょ、ちょっと待て……!?)
頭のなかで現実と妄想の境界が消え、
蓮の想像は暴走する。
蒼司が優里の肩に手を回し、二人きりで温泉に入り、
湯気の向こうで笑いあう姿が脳内に浮かぶ。
(くっ……俺の優里が……俺だけのはずだったのに……!)
顔は真っ赤に染まり、額には冷や汗が滲む。
手は思わず机を握りしめ、膝はガクガクと震える。
「うぉぉ……やめろぉぉ……俺の優里に……!」
社員たちは蓮の様子を見て、楽しげにささやき合う。
「ほら、ほら、蓮さん、完全に妄想爆発してますね」
「熱海効果、すごい……」
蓮はそれに反応する間もなく、心のなかで嫉妬と妄想が渦巻き、
完全に自分を制御できない状態になっていた。
蒼司の存在と社員たちの無邪気な言葉が、
彼のなかの焦燥感をさらに増幅させる。
(くそ……俺は……俺は……!)
現実と妄想はごちゃ混ぜになり、
目の前の優里への想いと蒼司への嫉妬が入り混じった渦が炸裂していた。
(出張なんて……ダメだ!熱海で蒼司と優里が二人きりだなんて……!俺の精神がもたない!)
妄想のなかでは、
優里がキャリーケースを引いて出発しようとすると、
蓮が彼女の足にしがみついて必死に訴えていた。
「やだぁぁ!優里ぃぃ!行かないでくれぇぇ!!俺を置いていくなぁぁぁ!!」
「ちょ、ちょっと離しなさい!重い!」
「俺は!俺は優里がいなきゃ生きていけないんだぁぁぁ!!」
わんわん泣き叫び、犬のように彼女の足に巻き付き続ける自分。
社員たちも背景で「また始まった」と苦笑いしている。
……だが現実は容赦なかった。
蓮は実際に優里の元へ駆け寄り、
その足に巻き付きにいこうと腰を低くした瞬間。
「……」
優里の冷ややかな視線が、氷のように蓮の動きを止めた。
その眼差しは「一歩でも近づいてみろ、即刻蹴り飛ばす」と
言わんばかりの鋭さ。
「……っ!」
(な、なんだこの刺さり方……!いつもより……冷たい……!)
「出張、いってらっしゃい」
「……いわれなくても行くし」
無造作に放たれた冷たい声。
その刃のような響きが、蓮の胸に深々と突き刺さった。
「ぐふっ……!」
思わず胸を押さえ、がくりと膝をつく蓮。
(さ、刺さる……刺さりすぎる……!あぁ……いつもより……!俺のHPがゼロどころかマイナスだぁぁ!!)
社員たちの前で、蓮は見事に撃沈した。
優里の背中は遠ざかり、蓮はその場に残され、
心臓に何本も氷の矢を受けたかのように震えていた。
蓮は、昼間の優里とのやりとりが頭から離れなかった。
あの冷たい視線。
あの「いわれなくてもいくし」という、
氷の刃のように突き刺さった言葉。
胸の奥にずしりと残り、
息をするだけでその痛みが蘇ってくる。
会社を出る頃には、彼はもう完全に撃沈していた。
肩は落ち、目の光も失われ、
同僚に声をかけられても生返事しかできない。
そんな彼を見かねて、晴人が「飲みに行くぞ」と誘ったのだった。
居酒屋の暖簾をくぐり、
ジョッキが目の前に置かれても、
蓮の気持ちは晴れない。
だが、晴人の隣に座っていると、
自然と女の子たちが集まってきた。
華やかな笑顔、弾むような声、
次から次へと差し出されるお酌。
蓮の周りは一瞬にして花園のようになった。
「蓮さんって、背高いんですね!」
「え、すごい雰囲気ある!モデルさんですか?」
「え~、カッコいい~!」
黄色い声に囲まれ、無意識に背筋が伸びる。
次々に飛んでくる褒め言葉に、
空っぽだった胸が少しずつ埋まっていくような感覚。
彼女たちが自分を持ち上げてくれるのを感じながら、
蓮はふと心の奥底で呟いてしまった。
(俺を立たせてくれるのは、こういう子たちなんじゃないか。)
優里の前ではいつも惨めで、妄想しては砕かれ、
必死にしがみついても冷たくあしらわれる。
だが今、自分を取り囲む女の子たちは笑顔で、
自分を褒め、求めてくれる。
(このなかの誰かと付き合えば、俺だって…もっと自信を持って生きられるんじゃないか)
そんな弱い考えが、酒の苦みと一緒に喉をすり抜けていった。
しかし、笑顔を作ってグラスを掲げながらも、
胸の奥の一番深い場所にあるものは埋まらない。
どれほど女の子に囲まれても、
優里の「冷たい瞳」がちらつき続けるのだった。
蓮の隣には、いつの間にか三人もの女の子が
ぴたりと寄り添っていた。
一人はグラスを持つ手にそっと手を添え、
もう一人は彼の肩に身体を寄せ、
さらにもう一人は上目遣いで
「ねえねえ、連絡先交換してくれます?」と甘えてくる。
酔いのせいか、熱気のせいか、
蓮の鼓動は妙に早まっていた。
耳に飛び込むのは楽しげな笑い声、
軽やかな「カッコいい」という言葉。
冷たい刃のような優里の声ではなく、
柔らかく温かい響き。
それは、彼の心をいとも簡単に撫でていく。
優里のそばにいるときのように、
必死に気を張る必要も、妄想して砕け散る必要もない。
ここにいる子たちは、
ただ笑顔で「蓮さん素敵!」と言ってくれる。
自分を否定せず、ただ認めてくれる。
(……優里じゃなくても、いいのか?)
酒で滲む視界のなかで、
心の奥底から生まれたその呟きは、
あまりにも弱々しく、そして切実だった。
ほんの一瞬、その考えに引き込まれそうになる。
女の子の指先がグラスに触れるたびに、
微笑みかけられるたびに、胸の痛みが和らぐような錯覚がした。
……だが。
グラスを口に運んだ瞬間、
脳裏に浮かんだのは優里の横顔だった。
無表情で冷たい、
けれど誰よりも鮮やかに自分の心を揺さぶる存在。
胸の奥にずしりと重く居座り、
どんなに他の誰かに囲まれても消えてくれない。
蓮は思わず苦笑した。
「……やっぱり俺は、どこまでいってもバカだな」
どれだけ他の女に囲まれても、
心は一人の女に縛られたまま。
優里の冷たい言葉ひとつに揺さぶられ、
優里の視線ひとつで撃沈し、
そしてまた追いかけずにはいられない。
一瞬の揺らぎは、結局、虚しい夢でしかなかった。
女の子たちに囲まれ、
笑い声が飛び交うその場にいながら、
蓮の心はどこか遠くにあった。
グラスを傾ければ口当たりのいい酒が喉を滑っていくのに、
味なんてほとんど感じなかった。
ただ、酔いでぼやける頭を麻痺させ、
胸に巣くう重苦しさをごまかしたかった。
「蓮さーん、もっと飲んでくださいよ!」
「カッコいいんだからモテるでしょ?彼女いるんですか?」
「ねえ、次どこ行きます?」
女の子たちの弾む声が、耳には届いている。
でも、心には入ってこない。
彼女たちが笑顔で肩を寄せてきても、
そこに優里の影を探してしまう。
冷たい瞳で「いわれなくても行くし」と言い放った姿が、
瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
(どうして俺は、あんなに必死になってんだろうな。ただの遊びなら、こんなに苦しまなくていいはずだろ。こんなに惨めに酔いつぶれる必要なんて、どこにもないはずだ。)
グラスを重ねるたびに、
心の虚しさだけが大きくなっていく。
酔えば酔うほど、目の前の笑顔が白々しく見え、
耳に入る笑い声が空洞のように響いた。
「……はは、なんで俺、こんなに虚しいんだろうな」
無意識の独り言が口を突いて出る。
隣の女の子が「え?」と首をかしげたが、蓮は答えなかった。
答える意味もなかった。
次第に身体がテーブルに沈み込み、
重力に引かれるように項垂れていく。
周囲の喧騒が遠ざかり、
ただ重く深い泥のなかに沈んでいくような感覚。
虚しさと後悔と、言葉にできない劣等感を抱えたまま、
蓮は静かに酔い潰れていった。
「おいおい、潰れてんじゃねーよ」
カウンターに突っ伏した蓮の肩を、
晴人が乱暴に揺すった。
女の子たちが
「えー、もう寝ちゃったの?」と口を尖らせるのを横目に、
晴人は彼を半ば引きずるようにして店の外へ連れ出した。
夜風が顔に当たる。
少しだけ意識が戻り、
蓮は「……俺、別に潰れてねぇ」とかすれ声で呟いた。
だがその足取りはおぼつかず、どう見ても限界だった。
「はぁ……お前な、昔から女に囲まれてチヤホヤされてる時は元気なくせに、肝心なときにはこれだ」
晴人は呆れたように吐き捨てる。
けれど、その横顔は妙に鋭かった。
「……でもさ。わかってんだろ?」
蓮は答えなかった。
ただ、胸の奥がチクリと疼く。
「お前、優里さんに相手にされなくて、どうしようもなく虚しくなってるんだよ。だから他の女で紛らわせようとしてんだろ?」
図星すぎて、言葉が出なかった。
女遊びでごまかしてきた過去、
そして今もまた同じことを繰り返そうとした自分。
優里に「あなたも同じ」と突き放された言葉が、改めて胸を刺す。
晴人は深く息をつき、肩をすくめる。
「……なぁ蓮。いくら女に囲まれても、優里さんの代わりなんかいないんだろ?」
その一言が、蓮の胸に重く沈み込んだ。
夜の静けさが、痛々しいほどに響き渡る。
店を出て数十分後。
街灯の下、ベンチに腰掛けさせられた蓮は、
頭を抱えてうなだれていた。
「……代わりなんか、いない……」
晴人の言葉を反芻しながら、かすれた声で繰り返す。
でも、そうだと認めた瞬間、
蓮の胸に広がるのは、どうしようもない絶望だった。
代わりはいない。
だからこそ、優里が冷たくした時点で、
もう自分の居場所はないのではないか。
「俺なんかが……優里に釣り合うわけねぇんだ」
心の奥底にしまってきた劣等感が、
酒に引き出されるようにじわじわと溢れ出す。
御曹司として生まれ、女遊びで自分を飾り立て、
軽い言葉で「好きだ」と口にしてきた。
その薄っぺらさを、優里には一瞬で見透かされた。
「俺が本気で向き合ったところで、どうせ信じてもらえねぇ。……俺自身が信じらんねぇんだから」
言葉を吐き出すたびに、胸の奥がひりひりと焼ける。
まるで自分の価値を切り刻んでいくみたいに。
晴人は黙ってしばらくその姿を見つめていた。
だが、蓮が沈黙したまま、
うずくまって動かなくなるのを見て、低く呟く。
「……お前、このまま壊れてくだけだぞ」
返事はなかった。
ただ、蓮の視線は足元の暗がりに落ちたまま、
光を失っていくように見えた。
街のざわめきが遠のき、酒と劣等感に溺れた心が、
静かに軋みを立てて崩れ始めていた。
膝の上に落ちた涙の跡が、ゆっくりと染みを広げていく。
それを拭うこともできず、蓮はただ空を見上げた。
星空が視界のなかで滲んで揺れる。
(俺は、結局……“選ばれない側”なんだな)
それは人生で初めて感じる敗北だった。
金でも、地位でも、ルックスでもない。
“心の深さ”で負けたという現実。
優里が求めているのは、
「支配する男」でも「守るヒーロー」でもなかった。
一緒に立ってくれる“静かな強さ”だった。
その静けさを、蒼司は自然に持っていた。
そう認めた瞬間、
胸の奥で何かがぽきりと音を立てた。
プライドの殻が割れ、
そこから何かがこぼれ落ちるように。
「……俺、変わりたい」
誰に聞かせるでもなく、蓮はかすかに呟いた。
涙で濡れた頬を手の甲で乱暴に拭い、
立ち上がる。
ふらつく足取りのまま、
壁に手をつき、ゆっくりと前へ進んだ。
このまま逃げ出すことは簡単だった。
けれど、優里の冷たい瞳の奥に、
確かに「痛み」を見た気がした。
あれは、誰にも触れられないほど深い傷の跡。
その痛みに寄り添える人間になりたい。
その願いだけが、今の蓮をかろうじて支えていた。
蓮は唇をかみしめた。
(今は無理でも、いつか……)
心のなかで、静かに誓う。
もう二度と、「子どもっぽい」なんて言わせない。
本気の恋を、証明してやる。
その決意が、
かすかに震える背中を支えるように、
蓮は初めて「恋の痛み」を抱えたまま、
前を向いて歩き出した。
その光こそが、蓮にとっての「大人になる」ための始まりだった。




