迫る危険
翌朝、蓮はいつもより数十分早く出勤した。
いつものように優里のデスクへ目をやると、
珍しいことに優里の姿はなかった。
(おや?優里がまだ来てないだと?…ってことは早朝からの激務はなかったってことか。他の社員同様、定時出勤ってことか)
優里の多忙なスケジュールが一時的に緩んだことに、
蓮の胸は淡い期待を抱いた。
わざわざ他の社員よりも早めにいるのは、
自分が優里を支えているという自己満足のためだったが、
今日は優里を迎えに行ける。
蓮は、デスクに荷物を乱暴に置き去りにし、
優里が来るのを待ちきれず、
一階のエントランスまで慌てて戻った。
エントランスには、
多くの社員が定時の出勤時間に合わせて
波のように押し寄せてきていた。
蓮は、その人混みのなかに
のんびり歩いてくる人影を見つけた。
優里は蓮を見つけると、
「げっ!」とでも言うようにめんどくさそうな顔をした。
いつもの冷たい拒絶の光景だ。
蓮は、その冷たい視線すら愛しいと思いながら、
優里に向かって歩き出した。
いつもの「おはよう」の軽口を叩こうとした、その時だった。
優里がロビーを歩いていると、
前方からフードを深くかぶった人物が近づいてきた。
手には金属製のタンブラー。
すれ違いざま、何かを囁くように声をかけられた優里は、
きょとんとした顔で立ち止まる。
その光景を遠目に見ていた蓮は、
胸の奥がざわつくのを覚えた。
(何だ……この感じ。嫌な予感がする。)
蓮が不審な人物に目を凝らした、その瞬間だった。
フードをかぶっている人物は、何の躊躇いもなく、
手に持っていたタンブラーの蓋を開けた。
御曹司としての鋭敏な危機察知能力が、
警告音を鳴らす。
(……あれは、飲み物じゃない!)
蓮は嫌な予感に突き動かされ、全力で走りだした。
フードをかぶっている人物は、
タンブラーの中身を優里の顔面めがけて一気にかけようとする。
――カチリ。
タンブラーの蓋が開けられる音が、
ざわめくエントランスにかすかに響いた。
なかから立ち上る異様な蒸気を目にした瞬間、
蓮の背筋を氷が走る。
「やめろっ!」
次の瞬間、振り下ろされかけたタンブラー。
その前に、蓮の腕が優里をすっぽりと抱き込む。
身長180センチの蓮の身体は、
低身長の優里を容易に覆い隠し、その背中が盾となった。
背広の生地を焦がすような熱が広がり、
背中に鋭い痛みが走る。
苛性ソーダだ。
皮膚が焼け付くような感覚に、
蓮は歯を食いしばった。
「蓮……!」
優里が小さく息を呑む。
「大丈夫だ。俺がいる」
振り返らずに言い切った声は、
いつもの軽薄な調子とはまるで違う。
彼の背中は、本当に燃えるように熱かった。
それでも優里を守りきるために、一歩も退かなかった。
エントランスは熱と化学薬品の刺激臭、
そして人々の絶叫でパニックに陥った。
苛性ソーダの液体は、
優里を抱きしめた蓮の背中に集中的に降り注いだ。
フードをかぶった人物は、タンブラーを投げ捨て、
そのまま人混みの中へ逃走。
その素早い動きは、計画的だったことを示していた。
熱い。
背中が焼ける。
それでも蓮は、腕のなかにいる優里を放さなかった。
「お、おい今の!」
「何をかけたんだ!?」
「救急車!救急車を呼べ!」
エントランスは瞬く間に騒然となる。
誰もが恐怖と混乱に包まれるなか、
優里だけは顔を真っ青にして蓮を見上げていた。
「蓮っ……! ねえ、しっかりして!」
普段なら絶対に見せない必死の声。
冷静沈着で、何があっても動じなかった彼女の肩が
小刻みに震えている。
蓮は振り返ろうとしたが、力が抜ける。
背中の痛みが限界を越え、
視界がかすみはじめていた。
「優里……怪我は……ないな……?」
「そんなことどうでもいい! あんたが……っ!」
優里は言葉を詰まらせ、蓮のシャツを握りしめる。
その姿を、社員たちは信じられない思いで見つめていた。
冷酷な鉄仮面のようだった社長が、
御曹司の名を必死に呼び、取り乱している。
「救急車急げっ!」
「こっちは俺が抑えるから!」
周囲の社員たちがバタバタと動くなか、
蓮は小さく笑みを浮かべた。
「……やっと、優里が俺の名前呼んでくれた……」
そのまま、彼の身体はふっと優里の腕のなかに沈み込んだ。
「蓮っ! お願い、目を開けて……!」
それは、彼女が初めて見せる取り乱しだった。
けたたましい救急車のサイレンの音が遠ざかり、
蓮の意識は無機質な病院の空気に包まれた。
蓮はストレッチャーに横たえられ、
移動式の担架の上から白い天井を見つめていた。
背中は火で炙られているかのようにヒリヒリと痛むが、
奇妙なほど意識ははっきりしている。
そして、彼の視界のすぐ横には、
優里がつきっきりで付き添っていた。
優里の顔は蒼白で、眉間に深いしわを寄せ、
まるで世界中の不安を背負ったかのような、
見たことのない表情をしている。
その瞳は赤く潤んでおり、
一秒でも早く治療が始まることを祈るように蓮の手を握りしめていた。
蓮は、背中の灼熱の痛みに耐えながら、
優里の動揺を確認したくてたまらなかった。
「……優里、俺、重症?」
優里は、蓮の生きた声を聞いて、
安堵と怒りが混ざったような複雑な感情を爆発させた。
「黙ってて。 喋ると余計に心配になるから」
「心配……してくれてんの?」
蓮の軽薄な問いかけに、優里の感情のタガが外れた。
「当たり前でしょ!」
優里は思わず声を荒げた。
その張り詰めた悲鳴のような声に、
近くにいた看護師が驚いて振り返った。
普段の彼女の鉄壁の冷静さを知る社員が見たら、
腰を抜かすに違いない、取り乱した姿だった。
蓮は背中の痛みよりも、
優里のその必死さが嬉しくて仕方なかった。
(やっぱり俺のこと好きなんじゃん……!)
御曹司の命を懸けた献身は、優里の冷たい仮面を打ち破った。
蓮の脳内では、痛みに打ち勝つ最高の妄想モードが、
再びフル回転で発動し始めた。
蓮が緊急処置室へ運ばれた後、会社は大混乱に陥っていた。
エントランスはすぐに警察官で埋め尽くされ、
星野グループの御曹司を狙った悪質な犯行として、
厳戒態勢での捜査が開始されていた。
病院にもすぐに捜査員が派遣されてきた。
蓮は背中に激しい痛みを感じながらも、処置を受けている最中だった。
優里が付き添うなか、私服姿の刑事が冷静に優里に話しかける。
「被害者である星野様に代わり、お伺いします。星野様に、個人的な恨みを持つ人物や、最近トラブルになっていた相手に心当たりはありませんか?」
蓮は、意識がはっきりしているため、
刑事の問いかけを当然のように聞いていた。
そして、いつものナルシストな自己評価を繰り広げる。
(恨みのある人物?俺に?いやいや、俺は愛とロマンスの申し子だぞ?みんな俺の才能とカリスマ性に嫉妬することはあっても、命を狙うほどの恨みなんて抱くやついないんじゃないか?……優里にちょっかい出す奴はいるけど、そいつらが俺を襲うか?まさか!)
蓮は、自身に恨みを持つ人間など皆無だと、
呑気に結論づけようとした。
しかし、蓮の甘い自己評価を、
優里の冷徹な一言が一瞬で打ち砕いた。
優里は、蒼白な顔色は変わらないものの、
ビジネスモードに近い、異常なほどの冷静さで答えた。
「そうですね……多すぎて」
即答だった。
蓮は、処置台の上で、体を仰け反らせそうになる。
(多すぎて……って!おい、めちゃくちゃ冷静ね、あなた!!)
蓮の悲痛な突っ込みは、背中の痛みも忘れるほどの衝撃だった。
優里は、蓮の激しい動揺に一切動じず、現実を淡々と続けた。
「財界や社交界で、嫉妬や恨みを買うような無神経な行動は日常茶飯事ですし。恨みを持つ人物を一人に絞るのは不可能です」
刑事は真剣にメモを取る。
蓮は、自分の人生に対する優里の客観的な評価があまりにも正確で、
あまりにも冷徹であることに、
背中の傷よりも深いショックを受けるのだった。
刑事は、優里の「多すぎる」という返答に戸惑いを見せつつも、
さらに踏み込んだ質問をした。
「次に、女性関係についてお伺いします。星野様は非常に華やかな交友関係をお持ちと伺っておりますが、最近、別れ話や揉め事など、女性がらみのトラブルはありませんでしたか?」
「そうですね。女性関係も派手だったようですし、恨まれても当然かと。 業務上でのトラブルより、その線の方が濃厚かもしれませんね」
……グサァァァッ!
蓮は、背中の焼けるような痛みを一瞬で忘れた。
その代わりに、優里の言葉が心臓を貫いたような激しい衝撃に襲われた。
(……は? 当然……だと? 俺の命懸けの献身の直後に、俺のすべてを否定するようなことを、何の感情もなく言いやがったぞ、こいつ……!)
蓮の妄想と僅かな希望は、
優里の冷徹すぎる現実認識によって、
跡形もなく打ち砕かれた。
「あああああ……」
蓮は絶望の呻きを漏らし、魂が抜けたかのように、
ストレッチャーの上で完全に撃沈した。
彼の顔色は、処置前の青白さから、
さらに生気のない鉛色へと変わった。
「星野様!?」
「急に容態が!」
蓮の精神的なショックが身体に反映されたのを見て、
近くにいた看護師たちは慌てふためき、
一斉にストレッチャーに駆け寄った。
優里は、自分の放った言葉が蓮に与えた
致命的なダメージに気づく様子もなく、
ただ事態の急変に怪訝な顔をするのだった。
救急処置が終わり、診察室から出てきた医師は、
カルテを片手に、拍子抜けするほどあっさりと言い放った。
「背中に軽い火傷があるだけですね。液体の性質上、刺激は強かったでしょうが、すぐに洗い流したおかげで、命に別状も後遺症もありません」
蓮にとって、命を懸けた献身は
「軽症」という無慈悲な診断で片付けられた。
処置後、VIP専用の病室のドアがガラリと開いた。
入ってきたのは、優里だった。
彼女の顔には、緊迫した空気から解放されたことによる安堵と、
蓮の一連のトラブルに対する怒りとも
心配ともつかない微妙な色が浮かんでいる。
優里は蓮のベッドに近づき、口を開いた。
「……元気そうね」
蓮は、背中のヒリヒリとした痛みを
最高の恋愛ドラマの小道具へと変換した。
「優里……! 俺の死を悲しんでくれる姿が目に浮かんだよ……!看病して、俺に惚れてくれる優里が!」
蓮のロマンチックな妄想に、優里の感情は一切動かない。
「はぁ?」
呆れ顔で、優里はベッドの脇にあったカルテをチラ見した。
優里は冷たく、診断された事実を突きつける。
「“軽度の火傷”。以上」
「……お、おい! なんだよその目は!」
優里の瞳は、まるで「何を大げさに」と言っているかのようだ。
優里は感情を殺したビジネススマイルを浮かべた。
「いえ、御曹司、軽症でよかったです」
蓮は、自分の命懸けの行動が、
優里の目の前であっさり「軽症」と
「職場の迷惑」に塗り替えられたことに、
ベッドの上で絶叫した。
(軽症じゃねぇよ! 俺の愛は重症なんだよ!優里の心を命がけで手に入れたと思ったのに、なんでこんなに冷静なんだこの女はぁぁぁ!)
蓮の命懸けの献身は、一瞬の英雄譚として幕を閉じ、
彼の妄想劇は病院のベッドという新たな舞台で、
再びコメディへと逆戻りするのだった。
優里は初めて見せるような表情で、静かに俯いた。
「……ごめん、私のせいで」
優里の口から出たのは、蓮への感謝や気遣いではなく、
自分を責める言葉だった。
その声は小さく、痛々しいほどに震えていた。
蓮は、その言葉を聞いてハッとする。
(この子……どれだけの人たちから傷つけられてきたんだよ)
優里の鉄壁の冷たさの裏には、
いつも「自分が悪い」「自分なんて」と
自己肯定感の低さに苛まれている脆い心があることを、
蓮は直感的に悟った。
その健気さと痛ましさが、蓮の愛の妄想に火をつけた。
(そうだ!今こそ、俺の出番だ! 優里の低い自己肯定感を、俺の情熱で上書きしてやる!)
蓮の妄想モードが、最高潮に達する。
(ここでキスして、俺が君を守るって!)
蓮の脳内では、ドラマのクライマックスシーンが再生される。
蓮は痛みを堪え、優里の顔を優しく引き寄せ、
真実の愛のキスを捧げる。
優里は衝撃を受けながらも、
その優しさに涙を流し、蓮への愛に目覚める。
蓮は、妄想の勢いそのままに、
ベッドから半身を起こそうとした。
そして、「俺が君を守る!」という決意のキスを実行に移そうと、
勢いよく優里に顔を近づけた。
チュー!
しかし、蓮の顔が優里に到達する寸前、
優里は蓮の行動を正確に予測し、冷静すぎる対応を見せた。
優里は、俯いたまま、
蓮の背中の傷口をグッと押さえつけた!
「ぐぁっ!!」
蓮の背中に灼熱の激痛が走り、一瞬で妄想から引き戻された。
彼は呻き声を上げ、再びベッドに沈み込む。
優里は、蓮の痛がる顔を見ても眉一つ動かさず、
冷たい声で容赦なく現実を突きつけた。
「調子に乗らないで」
蓮が背中の激痛に呻き、優里に冷酷に制裁された直後、
病室のドアが再び開いた。
入ってきたのは蒼司だった。
仕立てのいいジャケット姿のまま、
落ち着いた足取りでベッドサイドへ近づいてくる。
「優里、無事で本当に良かった」
そう言って、彼はためらいもなく優里の肩を抱き寄せた。
「 ニュースを聞いてすぐに駆けつけたよ。君に何かあったらと思うと、気が気じゃなかった」
その瞬間。
蓮の視界はスローモーションになる。
彼のすぐ横で繰り広げられる「密着」。
優里が一瞬だけ驚いた顔をして、
それでも抵抗せず、静かに蒼司の腕のなかに収まる。
(な、な、な、なんだこの距離感はァァァ!?!?)
ベッドの上でガバッと上体を起こしかけた蓮は、
情けなくもバランスを崩し、再びシーツの上に倒れ込む。
(お、俺の目の前で堂々とイチャつくなあああああ!!!)
叫びたいのに、声にならない。
(なんだよ、あの自然なハグは!? 俺が命がけで守った体だぞ!? なんでアイツが抱きしめてんだよ!)
蓮の嫉妬は臨界点を突破し、
病室の隅でマグマのように煮えたぎった。
妄想スクリーン in 蓮の脳内
「蒼司さん……やっぱりあなたがいてくれると安心します」
「君を守れるのは僕だけだ。もう二度と危ない目に遭わせない」
(ギュッ)
二人は見つめ合い、唇が近づいて……
「ぎゃああああああ!!!」
蓮は現実で頭を抱え、ベッドの上をジタバタと転げ回る。
優里は顔を赤らめ、蒼司の胸から一歩下がった。
「……ちょっと、何やってんの、蓮」
蓮は半泣きで叫ぶ。
「俺の、俺の、俺の優里に――蒼司なんか近づくなぁぁぁぁ!!」
病室なかが凍りつき、静寂。
一拍の間を置いて、蒼司がくすりと笑う。
「君の御曹司は、どうやら随分と元気みたいだな」
蓮はシーツに突っ伏した。
(やばい……俺、完全に蚊帳の外……!)
(くっそぉぉぉ!!絶対このまま蒼司に優里を奪われるわけにはいかねぇ!)
嫉妬の炎を燃やしながら、再び妄想全開の世界に沈んでいった。




